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239 随想―吾が研究行路を顧みて 1. はじめに 1)最初に、駒澤大学法学部設立 50 周年記念号としての季刊誌「駒澤 法学」第 14 巻第 2 号に対する寄稿の機会を定年退職後の私にまでご配慮 いただき感謝いたします。しかし、今これといった研究論文を寄稿する準 備もない状態で困惑していましたところ、思い出話でも随筆でも良いとの ことでしたので、70 歳定年退職を節目として、これまでの自分の研究行 路を振り返ってみたいと思いました。ただ、現職教員ほかのみなさまの優 れた研究論文の間に私の僅かな本数の論文について稚拙な思い出話を参入 させていただくことは、大変に申し訳なく恐縮ですが、ご笑覧いただけれ ば幸いに存じます。 2)私の研究が始まったのは大学院の修士課程からです。それ以来今日 までの研究内容は試行錯誤を続けながら展開してきましたので、その展開 に沿う形で思い出したいと思います。その変遷は、①修士課程における厳 格責任説(特に Hans Welzel 教授の論文)との出会い 1、②博士課程におけ る同教授の事物論理的構造論との出会い、③駒澤大学に就職後のサイバネ ティクス的システム論との出会い、その後の④一般的システム論との出会 い、⑤社会システム論、組織論および関係理論との出会い、⑥オートポイ エーシスシステム論との出会い、⑦ニューロン決定論との出会いでありま す。 3)私は、一貫して刑法学を支える方法論を念頭に置いて研究してきま したので、研究内容は、その方法論に基づき上記の①から⑦までの理論に

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一八四

239

随想―吾が研究行路を顧みて

松 村   格

1. はじめに

 (1)最初に、駒澤大学法学部設立 50周年記念号としての季刊誌「駒澤

法学」第 14巻第 2号に対する寄稿の機会を定年退職後の私にまでご配慮

いただき感謝いたします。しかし、今これといった研究論文を寄稿する準

備もない状態で困惑していましたところ、思い出話でも随筆でも良いとの

ことでしたので、70歳定年退職を節目として、これまでの自分の研究行

路を振り返ってみたいと思いました。ただ、現職教員ほかのみなさまの優

れた研究論文の間に私の僅かな本数の論文について稚拙な思い出話を参入

させていただくことは、大変に申し訳なく恐縮ですが、ご笑覧いただけれ

ば幸いに存じます。

 (2)私の研究が始まったのは大学院の修士課程からです。それ以来今日

までの研究内容は試行錯誤を続けながら展開してきましたので、その展開

に沿う形で思い出したいと思います。その変遷は、①修士課程における厳

格責任説(特に Hans Welzel 教授の論文)との出会い(1)、②博士課程におけ

る同教授の事物論理的構造論との出会い、③駒澤大学に就職後のサイバネ

ティクス的システム論との出会い、その後の④一般的システム論との出会

い、⑤社会システム論、組織論および関係理論との出会い、⑥オートポイ

エーシスシステム論との出会い、⑦ニューロン決定論との出会いでありま

す。

 (3)私は、一貫して刑法学を支える方法論を念頭に置いて研究してきま

したので、研究内容は、その方法論に基づき上記の①から⑦までの理論に

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一八三

240 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

沿って影響されてきました。しかし、研究の視座は、③以降一貫してシス

テム理論であることに変わりなく、システム理論の内実に多様性があるだ

けです。その意味で、初期①②の存在論的視座からシステム論的視座への

変遷は大きいものでした。それが、博士論文『刑法学方法論の研究―存在

論からシステム論へー』(2)に表明されました。その後の研究は、拙著『シ

ステム思考と刑事法学―21世紀刑法学の視座―』(3)に整理して表明され

ています。

(1) 目的的行為論の提唱者である Hans Welzel の見解については、その都度示し

たいと思う。

(2) 1991年八千代出版・440頁。

(3) 2010年八千代出版・267頁。

2. 修士課程時代

 (1)大学院修士課程に進学した折に、早々に修論テーマを決めて研究を

進めなさいという諸先輩の助言に従い、「違法阻却事由の錯誤」特に「誤

想防衛」をテーマにすることにし、1年目は資料集めと資料分析、2年目

は執筆という計画にしました。そして、全てを記載しませんが、日本文献

は 28資料、ドイツ文献 18資料を収集し目を通しました。

 (2)誤想防衛の解決は、当時の日本の通説は事実の錯誤説で故意阻却で

した。誤想防衛とは、刑法 36条の正当防衛の要件である「急迫不正の侵害」

が「ない」のに「ある」と誤解した場合の事です。ドイツでは、消極的構

成要件要素(日本の違法阻却事由)の錯誤で構成要件的故意阻却でした(所

謂「制限責任説」)。日独ともに今日でも同様です。しかし、それはおかし

いと思ったのが私の現在までの研究の運命の始まりでした。

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一八二

241随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

 (3)例えば、ある日 5歳の子息の誕生日祝いに野球のバットを買ってく

ると言って出た父親が飲み友達の誘惑に負けてはしご酒をして帰宅が遅く

なり、妻と 5歳の子息は待ちくたびれて眠ってしまったところ、夜遅く父

親が祝いのバットを振りまわしながら大声で帰って来たので、妻は、強盗

が棒を振りまわして侵入してきたと誤解して防衛の意図で床の間に飾って

あった花瓶を投げつけたところ、父親に大怪我をさせたとしましょう。妻

には、花瓶を投げて相手を負傷させてもかまわないという意識は(覚醒的

でなくても未必的にでも)あったはずです。それなのに、刑法 204条の傷

害の故意がなかったとするのは疑問であり、残るのは責任減少または責任

阻却だけだと思ったのです。

 (4)犯罪論構成を、構成要件該当性・違法性・有責性(責任)という 3分

説にするか(→厳格責任説)、不法構成要件該当性・責任という 2分説に

するか(消極的構成要件要素論→制限責任説)にするかは別にしても、故

意阻却にするならば、ドイツ流の消極的構成要件要素論のほうが理論的に

はすっきりしていますが、そうすると、正当防衛で人を殺害したばあい

も、蚊やハエを殺害する場合も、いずれも構成要件該当性が阻却される同

一現象なのだろうかという H.Welzel 教授の疑問(1)に対して、Karl Engisch

教授は、いずれも構成要件該当性はないが、正当防衛で人を殺害すること

は「法的な重要性」があり、蚊やハエの殺害は「法的重要性」がないから

両者には相違があると言うのです(2)。しかし、私は、これは実質的には 3

分説であるので詭弁であると思いました。

 (5)他方、私の指導教授の下村康正教授は、「違法性の過失」説でした。

誤想防衛は「法的に許されていない」ことを「法的に許されている」と誤

解した「違法性の過失」であると言うのです。そして、刑法 38条 3項「法

律(違法性 = 筆者加筆)を知らなかったとしても、そのことによって、罪

を犯す意思がなかったとすることはできない」は、違法性の過失を表現し

ているのであって、誤想防衛は故意を阻却しないと言うのです。しかし、

当時の私は、事実の過失は故意阻却で違法性の過失は故意を阻却しないと

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一八一

242 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

して、後者の場合に限って過失概念と故意概念を混同することに抵抗があ

りました(3)。こうして、H.Welzel 教授流の厳格責任説に傾いて行きました。

 (6)厳格責任説は、構成要件的故意は積極的(構成要件的)事実の認識だ

けであり、違法性の認識の問題は責任論の問題としますから、誤想防衛の

場合には、相手方に対して傷害を与えるという事実認識はあるので、傷害

罪の構成要件的故意は存在し、その錯誤がやむを得ない場合には「その責

任を軽減し」「情状により、その刑を減軽することができる」(38条 3項但書)

と解することが最も適切であるという結論にいたりました。

 こうして修士論文が完成しましたが、当時は、コピー機も発達したもの

がありませんでしたので、カーボン紙と原稿用紙を数枚も重ねて手書きで

書きました。400字で 358頁でした。今も本棚に残してあります。

(1) H. Welzel, Die Regelung von Vorsatz und Irrtum im Strafrecht als legislatorisches

Problem. ZstW.Bd.67, S.210f.; Ders, Das Deutsche Strafrecht. 11Aufl . 1969, S.81f.

(2) Karl Engisch, Tatbestandsirrtum und Verbotsirrtum bei Rechtsfertigungsgründen.

ZStW. Bd.70,S.596.

(3) 今日では、違法性の過失説に一定の評価をしています(拙著『日本刑法総論

教科書』八千代出版・2010・202頁)。

 3. 博士課程時代から駒澤大学就職年度まで

 (1)修士論文で H.Welzel 教授の見解に傾倒した私は、いよいよ彼の文献

を読破しようと心しました。当時、人間の活動はすべからく目的活動であ

るとして「目的的行為論」(fi nale Handlungslehre)を刑法上の行為論に取組ん

で刑法学会に衝撃を与えた H.Welzel 教授でしたので、彼の論文を読みまし

た(1)。ところが、この行為論の要素である「目的性」(Finaltät)概念の基盤

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一八〇

243随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

に在るのは彼の人類学的・生物学的な考察であることが判明したのです。

 (2)H.Welzel 教授によりますと、人間は、動物のように合目的的な衝動

操縦ができず、人間特有の衝動過剰性を目的的に操縦することを余儀なく

されている存在であり、この衝動編成を司る思考・意思という自我活動は、

必然的に「意味志向的」であるのです。この意思操縦が刑法上の責任論の

問題であり、この意思衝動を越えて決意から結果に至る事象が行為論の問

題なのです。したがって、この超因果的な「意味志向性」(Sinnintentionalität)

こそが「目的性」であることが判明しました(2)。

 (3)H.Welzel 教授の提唱した目的的行為論の使命は、彼によれば、「事

物の本性」を正しく理解すること、すなわち、刑法のなかに「その対象の

歴史性にもかかわらず立法者が拘束される何か恒常的なもの」を見つけ出

すことであり、それが「事物論理的構造」であると言うのです(3)。こう

して、人間の行為は「意味志向的法則性」によって「外部的な因果事象を

目的的に被覆限定する(überdeterminieren)」「目的活動の遂行」であり目標・

手段・附随結果の顧慮が事象を形成する要因であるという行為の事物論理

的構造が提唱され(4)、責任概念は立法に先在するという責任の事物論理

的構造が説かれ(5)、主行為に対する共犯の事物論理的依存性が主張され

たのです(6)。

 (4)こうして H.Welzel 教授は、「立法者は、物理的な自然の法則のみな

らず、客体における一定の事物論理的構造を注視しなければならす、…行

為の存在論的構造はあらゆる評価と規定に先在している。人間の目的活動

の構造とそこにおける故意の機能は立法者もまた変更することができない

し、…有責な行為実現に法的効果を結びつける立法者は、責任の事物論理

的構造を注視しなければならない」し、正犯―共犯関係については、「い

かなる共犯も本質的に(事物論理的に)目的活動的(目的的)な主行為に関

係づけられている」と言明したのです(7)。

 (5)結局H.Welzel教授は、「対象が方法によって規定されるのではなくて、

方法が対象によって規定されねばならず」、「存在は、初めから秩序と形態

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一七九

244 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

を自らの内に有していて」、刑法上の概念は、全て価値具有的存在の記述

的概念であるという価値=存在の一元的存在論を説き、立法者の恣意的評

価をもたらす法実証主義に反対するのです(8)。その意味では、新カント

主義の方法二元論をも法実証主義に通じるとして排斥するのです。「赤い

バラ」は、初めから「赤いバラ」であって、「バラ」という無色の存在に「赤さ」

という純粋形式としての価値を人間が評価し付与するのではなく、「殺人」

は、初めから、人の殺害という存在論的部分と違法かつ非難可能なという

価値的部分から構成されていると言うのです(9)。さもないと、評価によっ

ては、「良い殺人」と「悪い殺人」があることになります。

 (6)こうして私は、「法哲学なんか研究して刑法のために何になるのか。

判例研究をしなさい」という指導教授のお叱りにもかかわらず、立法者を

拘束するという H.Welzel 教授の法哲学理論に感動し、それに関する文献

を読みました。こうして、①処女論文「事物の本性と目的的行為論の基

礎」(1973年)および②「ヴェルツェルの責任概念」(1974年)を博士課程で、

そして③「正犯と共犯の事物論理的関係―ヴェルツェルとエンギッシュの

論争を中心にー」(1974年)を駒澤大学就職年度に書き上げました(10)。

 (7)処女論文では、二元論的事物の本性論として、G.Radbruch 教授(11),

Art. Kaufmann 教授(12), K.Engisch 教授(13)の論文を、一元論的事物の本性

論として、H.Coing 教授(14), H.Schambeck 教授(15), H.Welzel 教授(16)の著

書論文を資料にして比較研究しました。このとき、東大の平野龍一先生か

ら、「ヴェルツェルは、何といっても戦後の廃墟に咲いた徒花にすぎませ

んので、早くヴェルツェル離れされることを期待します」とのご意見をい

ただきましたが、未だ離れることはできませんでした。

(1) H.Welzel, Um die fi nale Handlungslehre. Recht und Staat, Heft146,1949.

(2) H.Welzel, Persönlichkeit und Schuld. ZStW. Bd.60, S.448.; Ders, Kausalität und

Handlung. ZStW. Bd.51, S.718.720.(以上の 2論文は、その後、Ders, Abhandlungen

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一七八

245随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

zum Strafrecht und zur Rechtsphilosophie. 1975, Berlin,New York, の S.185ff. と S.7ff.

に所収されている)

(3) H.Welzel, Vom Bleibenden und Vergänglichen in der Strafrechtswissenschaft.

1964,S.21.(この論文は、Ders, Abhandlugen, S.345ff. に所収されている)。こ

れに対してロキシン教授は対象の歴史性を理由に永遠の真理を否定する。

Claus Roxin, Zur Kritik der fi nale Handlungslehre. ZStW. Bd.74,1962,S.534,536.

(4) H.Welzel, Kausalität, S.716, und ders, Vom Bleibenden, S.9.; Ders, Aktuelle

Strafrechtsprobleme im Rahmen der finale Handlungslehre, Juristische

Studiengesellschaft. Karrsruhe Heft4,1953, S.4.

(5) H.Welzel, Naturrecht und material Gerechtigkeit. 2Aufl ., 1955, S.197. これに対

しては、私は、「責任 = 非難可能性 = 評価」という図式どおりに、責任は価

値論的問題であることを理由に、ヴェルツェル教授の「責任の事物論理的

構造」は自己矛盾であると批判した(「ヴェルツェルの責任概念」中央大学

研究年報・第 3号、拙著『刑法学方法論の研究―存在論からシステム論へ』

八千代出版 1991年 48頁所収)

(6) H.Welzel, Naturrecht und Rechtspositivismus. 1953. in: Werner Maihofer (Herg.),

Naturrecht oder Rechtspositivismus? Darmstadt, 1966,S.336,337.(この論文は、そ

の後、Ders, Abhandlungen, S.274ff. に所収されている : 金沢文雄訳・政経論叢・

第 16巻第 3号がある)

(7) H.Welzel, Naturrecht und m.G., 2Aufl .,S.197. 但し、4Aufl . では、事物論理的

構造という表現はない。

(8) H.Welzel, Strafrecht und Philosophie. Kölner Uni.Zeitung, Bd.12, 1930,Nr.9,S.29.

(これは、Ders. Abhandlungen, S.1ff. に所収されている。福田平訳『目的的行

為論の基礎』有斐閣・昭和 42年、73頁以下がある)。Und ders, Naturalismus

und Wertphilosophie im Strafrecht.-Untersuchungen über die ideologischen

Grundlagen der Strafrechtswissenschaft-Manheim, Berlin, Leipzig,1935, S.68~72.

(9) H.Welzel, Über Wertungen im Strafrecht. Gerichtssaal 103, 1933, S.342~344, 346.

(10) 法学新報・第 80巻第 11号。; 中央大学大学院年報・第 3号 ; 駒澤大学法学論集・

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一七七

246 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

第 11号。

(11) Gustav Radbruch, Rechtsidee und Rechtsstoff. Eine Skizze, in: Arthur Kaufmann

(Hrsg.),Die ontologische Begründung des Rechts. Darmstadt, 1965 (野田良之訳「法

における人間」『ラードブルフ著作集・第 5巻』東大出版会所収あり); Ders,

Vorschule der Rechtsphiolosophie. 3Aufl ., 1965.(野田 / 安南訳「実定法と自然

法『ラートブルフ著作集・第 4巻』所収あり); Ders, Rechtsphilosophie (Herg.

Erik Wolf). 7Aufl ., 1970.(田中耕太郎訳「法哲学」『ラートブルフ著作集・第 1巻』

所収あり); Ders, Natur der Sache. (久保正幡訳「イギリス法の精神」『ラート

ブルフ著作集・第 6巻』所収あり。)

(12) Arthur Kaufmann, Die ontologische Struktur des Rechts. in: Art. Kaufmann (Herg.),

Die ontologische Begründung des Rechts.und in: Ders, Rechtsphilosophie im

Wandel. Stationen eines Weges. Frankfurt am Main, 1972, S.104ff., 1984,

2Aufl .101ff.(宮澤 / 原訳・法学研究(慶応)第 36巻 6号あり); Ders, Analogie

und „Natur der Sache”. Zugleich ein Beitrag zur Lehre von Typus. 1965.in:Ders

(Herg.), Rechtsphilosophie im Wandel. 1972, S.272ff.

(13) Karl Engisch, Die Idee der Konkretisierung in Recht und Rechtswissenschaft unserer

Zeit. 2Aufl ., 1968.Heidelberg. ; Ders, Vom Weltbild des Juristen. 2Aufl ., Heidelberg,

1965.

(14) Helmut Coing, Grundzüge der Rechtsphilosophie. 2Aufl ., Berlin, 1969.

(15) Herbert Schambeck, Der Begriff der „Natur der Sache”. Ein Beitrag zur

rechtsphilosophischen Grundlagenforschung. Wien,1964.

(16) 上記註(5)~(9)

4. 存在論からシステム論へ

 (1)ところで H.Welzel 教授は、晩年に Reinhart Maurach 教授の 70歳記

念論文集に寄稿した論文の中で、今まで主張してきた「意味志向性」=「目

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一七六

247随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

的性」は、実はサイバネティクスであると言明し、「意味志向性」と「目的性」

は、「因果関係への意思の介入を有意味的に制御し、事象を計画的に操縦

し指導する意思の能力」であるから、「目的的」行為に代えて「サイバネ

ティクス的」行為について語れば良かったが、「目的性」という表現を今

後も使用すると言って(1)、その後これについて語ることもなく鬼籍に入っ

てしまったのです。そこで私は、「サイバネティクス」と「目的性」につ

いて、自分で研究することにしました。サイバネティクスはシステム論で

すから、これを契機にして私は、存在論からシステム論へと進むことにな

りました。

 (2)現代はサイバー時代と言われていますが、サイバネティクス

(Cybernetics; Kybernetik)とは、ギリシャ語のキベルネティス(κυβερνητης ;

kybernetes)に由来し、舵手、舵取り、管理者、支配者)の意味であり(2)、

キベルネティク(κυβερνητηκ)は、操舵法・操船術のことであって(3)、キ

べルネティスのラテン語の訛りが governor(支配者)であり(4)、govern(統

治)に関係します。現にプラトン(Plato)は、その著『ゴルギアス』で航海

術について語っていますし(5)、プルタルコスは、サイバネティクスを「船

の水先案内人」の意味で使用したようです(6)。

 (3) サイバネティクスは、Nobert Wiener 教授によれば制御と伝達の理論

であり(7)、Felix v.Cube 教授によればフィードバック(Feedback; Rückkopplung)

の理論でもあります(8)。後者は、情報の伝達と復帰の理論です(9)。古代

の船の航海術を考えてみましょう。第 1に、船長が目標(目的)(未来値つ

まり Soll=Wert)を設定します。第 2に、水先案内人が、潮流や風向によっ

て影響されたその都度の現在値(Sein=Wert)と未来値の誤差を目標への修

正資料として、その「情報」を舵手に「復帰」伝達します。第 3に、舵手

は、水先案内人からの情報どおりに船を「制御」します。第 4に、漕ぎ手

が漕いで船を進めます(10)。

 (4)目的的行為論では、人間の目的活動は、第 1に目的設定をし、第 2

に手段を選択し、第 3に附随結果を顧慮し、第 4に因果系列を被覆限定

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248 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

(überdeterminieren)します。この「附随結果の顧慮」は、まさにフィード

バック作用ではないでしょうか。さすれば、目的的行為論は、H.Welzel 教

授の言うとおりにサイバネティクス的行為論であると思われます。ただ、

H.Welzel 教授が「操縦」(Steuerung)と「指導」(Lenkung)を強調しますが、

F.v.Cube 教授によれば、「最初の対象への反作用」であるフィードバック

は「制御」には伴うが、「操縦」には欠けているとのことですので(11)、

制御概念と操縦概念は同一ではないかもしれませんが、H.Welzel 教授自身、

意思という自我機能が衝動を「制御する」(regulieren)ことを認め、それを

「舵」に譬えていますので(12)、附随結果の顧慮をフィードバック作用と

考えても良いと私は思いました。

 (5)もっとも、H.Welzel 教授は、人間の自己操縦を「フィードバックの

因果過程」だとみなすことに批判的ですが(13)、彼は「認識なき過失」を

欠陥のある無意識的態度すなわち「人格層の不完全な構成」に結びつける

のですから(14)、それは、N.Wiener 教授が言う「間違いなくひとつのフィー

ドバック」である「学習形式」(15)にほかならないはずであります。

 (6)「学習」とは、「態度の変更」であり、①条件反射と反応、②試行錯

誤の態度、③洞察、④練習、⑤自動化のプロセスに分けられ、「外界から

多くの情報を受け取れば取るほど、また、これらの情報を実際の事態に則

して秩序づければつけるほど、それだけ残っている情報は少なくなる」と

いう「情報の減少」と「確実性と秩序の増加」の原理であります(16)。

 (7)H.Welzel 教授によれば、人格層は当初は覚醒的な自我機能によって

習得された情報の貯蔵庫(Reservoir)であり、われわれの態度決定は、やが

てこの人格層によって半意識的ないし無意識的になされるが(17)、この人

格層の欠陥ある形成が認識なき過失態度に結びつくというのですから、こ

れは、正に学習とフィードバックと自動化の問題ではないでしょうか。こ

うして、拙論「目的性とサイバネティクスについての一試論」が完成しま

した(1975年)(18)。

 (8)H.Welzel 教授によれば、衝動が船の帆に吹く風ならば、意思は操縦

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一七四

249随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

装置であって「舵」であるから、意思操縦は衝動操縦であり、これを行う

のが人格層に属する自我機能であります(19)。そこで私は、制御にはその

ための照準としての法則性が必要であり、法則に合わせて意思を制御す

るところに自由の契機があると考えました。F.G.Hanke 教授は、「人間の

意思形成にあっては…サイバネティクス的制御が重要である」言い(20)、

M.Danner 教授もまた、「意欲がーサイバネティクス的シテスムにおけるよ

うにー制御と情報の伝達・処理の法則によって操縦され」、意欲も行為も

フィードバック作用によって操縦されるとしています(21)。

 (9)こうして、拙論①「意思の自由と刑事法学―問題点の指摘とその解

決の試みー」正・続(1978)が完成しました(22)。この論文は、中山研一教

授の目にとまり、月刊誌『法律時報』第 637号の「刑事法の動き」で紹介

されました。この拙論をホセ・ヨンパルト教授が季刊誌『法の理論』(創刊号)

で取り上げ、サイバネティクス的システム論を批判した関係上、ヨンパル

ト教授から、それに対する再批判の機会を与えられ、もう少し精細に自由

に関する各種の概念を整理してサイバネテクスの科学性・哲学性について

季刊誌『法の理論』に発表した論文が②「システム論と自由意思―ヨンパ

ルト論文『刑法と自由意思』への釈明」(1982年)です(23)。

 (10)なお、前述の論文①につきましては、日本の刑法学の重鎮であり

ます団藤重光教授から早々に、先生のご高著『刑法綱要総論』に文献とし

て記載する旨のご返事をいただき感動したことを覚えています。

(1) H.Welzel, Zur Dogmatik im Strafrecht. in: Festschrift für Reinhart Maurach.

Karlsruhe, 1972.S.7ff.

(2) Nobert Wiener, CYBERNETICS. or control and communication in the animal and

the machine, 2ed., Cambridge, Massachusetts,1948, 1962, P.11.(池原 / 彌永 / 室賀

/ 戸田共訳書・岩波書店・1962年がある); 古川晴風編著『ギリシャ語辞典』

大学書林・平成元年

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一七三

250 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

(3) 古川編著『ギリシャ語辞典』

(4) N.Wiener, op. cit. P.12.;

(5) H.Welzel, a.a.O.S.7.; 加来彰俊訳『ゴルギアス』プラトン全集 9・岩波書店、

511D-E(198頁、199頁)。なお、Hermar G. Frank によれば、『アルキピアデス』

『政治家』でも同じ意味で用いられ、『クレイトポン』では人間の指導技術

の意味で、『国家』では一般的な指導可能性の意味で用いられたようである。

Ders, Kybernetik und Philosophie. Materialen und Grundriß zu einer Philosophie

der Kybernetik. 2Aufl ., Berlin, 1969,S.26~28.

(6) Felix von Cube, Was ist Kybernetik? Grundbegriffe Methoden Anwendungen.

3Aufl .,München,1975, S.33..S.33.

(7) N.Wiener, op. cit. P.11.

(8) Vgl. F.v.Cube, a.a.O.S.34.

(9) N.Wiener, op. cit. P.96.

(10) F.v.Cube, a.a.O.S.24.

(11) F.v.Cube, a.a.O.S.25,128.

(12) H.Welzel, Persönlichkeit, S.444.

(13) H.Welzel, Vom Bleibenden, S.18.Anm. 41.

(14) H.Welzel, Persönlichkeit, S.460.

(15) N.Wiener, op.cit.P.82.

(16) F.v.Cube, a.a.O.S.51,53.

(17) H.We;zel, a.a.O.S.458,438,460.

(18) 駒澤大学法学部研究紀要・第 33号。

(19) H.Welzel, a.a.O.S.437.444; Ders, Kausalität. S.448.; Ders, Strafrecht. 11Aufl .S.144.

(20) F.G.Hanke, Aufbruch ins Paradies. Jetzt beginnt die Herrschaft der Vernuft. 1973,

Wien, S.71.

(21) Manfred Danner, Gibt es einen freien Willen? Eine psychologische Studie. 4Aufl .,

Heidelberg, Hamburg,1977, S.52.

(22) 駒澤大学法学論集・第 18号 / 第 19号。

Page 13: 松 村 格 - repo.komazawa-u.ac.jp

一七二

251随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

(23) 法の理論 2。

5. 博士論文に向けて

 (1)私は、1979年に大学から留学する機会を得ました。制度ができて最

初の機会でしたので、希望者 4人でジャンケンをして 2人に絞り、1年分

の留学費を 2人で折半しました。つまり半年分に自費をプラスして 1年留

学したのです。本当は 1年半留学したかったのですが、4月段階の円が 12

月には暴落しましたので、1年で帰国せざるを得ませんでした。

 (2)留学先はドイツに決めていましたが、H.Welzel 教授亡き後、システ

ム論に造詣の深い教授と思ったのが Lother Philipps 教授でしたので彼に手

紙を書きました。すると、彼はミュンヘン大学の「法情報学と法哲学の研

究所」に所属しているが、所長が Art.Kaufmann 教授なので、彼の許可を

得てほしいとの返事でした。早速に Art.Kaufmann 教授に留学許可を得た

い旨の手紙を書きましたところ、快く承諾を得ましたので、ミュンヘン大

学に赴くことになりました。

 (3)私は、飛行機が嫌いなので、ハバロフスクからシベリヤ鉄道で 10

数日かけてミュンヘンに行きました。Art.Kaufmann 教授は、新カント主

義の G.Radbruch 教授の晩年の愛弟子でして、一元論的事物の本性論者で

ある H.Welzel 教授とは反対の二元論的事物の本性論者ですから、歓待さ

れないと心配していましたが、とても心の広い方で、その心配は必要あり

ませんでした。特に、奥様の Dorothea Kaufmann 夫人は私を「典型的な日

本人だ」と言って気に入ってくれまして、Art.Kaufmann 教授亡き後の現

在でも手紙の交換をしています。

 (3)研究所は、建物の 2階に法哲学の研究室と図書室が、4階に法情報

学の研究室と図書室があり、私は、4階の1室を与えられました。早速に(刑)

法とサイバネティクス的システム論に関する図書を探しましたが、図書室

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一七一

252 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

にあるのは、経営学・経済学とシステム論ないし情報学に関する書物ばか

りでしたので、その中から読みたい本、読まなければならない本に目を通

し、毎日のように書店を巡っては、必要な書物を探しました。そして、サ

イバネティクスのみならず、一般的システム論・システム / 環境論・役割論・

組織論・グループ論・コミュニケーション論などの文献を収集して読みま

した(1)。

 (4)こうして、拙論「刑法と刑事政策の理論―主としてサイバネティク

ス的システム論に基づく素描―」(1981年)が完成しました(2)。これは、

1979年から 1年間留学したときの研究成果です。そこでは、サイバネティ

クスと現代的システム論との関係、意思操縦と行為操縦のサイバネティク

ス的性格、責任論の展望的把握(3)、行為論の社会性、役割論の重要性と

不作為犯の作為義務の要因としての社会的役割(4)、共同正犯の人間と人

間によるシステム構成員の協働性(5)、犯罪人の改善性とフィードバック

制御、法的制御と立法の回路システム、刑事政策と刑法教義学との関係、

サイバネティクスの科学性と哲学について概観しました。

 (5)私は、1984年後期に再びミュンヘン大学に半年留学の機会を得まし

て(実際には体調不良で 3ヶ月で中止しましたが)、その成果として発表

しましたのが、拙論「共同正犯の共犯性と正犯性―システム論的考察―」上・

中・下の大部の 3部作でした(1986年)(6)。ここでは、2人以上の複数人

が作業分担的に共同して犯罪を実現する共同正犯は、社会システム論的に

言えば、一定の共同目的を志向する「協働」(Kooperation)の問題である

とし、共犯性について、集団力学・グループ論・組織論・役割論を活用し、

正犯性については、C.Roxin 教授や G.Jakobs 教授の見解を検討しながら(7)、

システムの制御支配を考えました。

 (6)人は、犯罪を行う場合、単独犯の場合でも、裸で行為することはむ

しろ稀でして、道具(殺傷の場合の凶器)や機械(通貨偽造の場合の印刷機・

情報窃盗におけるコンピュータ)とシステム形成します。この場合にもシ

ステムが行為主体ですが、この人間 = 道具システムや人間 = 機械システ

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一七〇

253随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

ムを完全に制御しているのは人間ですから、人間が当然のように単独の正

犯者とみなされるにすぎません。共犯の場合のように人間 = 人間システ

ムの場合にも、瀧川幸辰教授の言うごとく、「犯罪は共同意思主体の犯罪

であって、共同意思主体を構成する各個人の犯罪ではない」のでして(8)、

システムが行為主体で、このシステムを制御支配している者が正犯者でそ

れ以外の役割を演じているのが共犯者なのです。そして、その役割に従っ

て責任が個別化されるのです。そうしますと、集団犯も組織犯も同様にシ

ステムの犯罪として理解することができます。

 (7)こうしたことを上述論文で詳細に論じたのです。そして、この拙論

が浅田和茂教授の目にとまり、月刊誌『法律時報』第 723号の「刑事法学

の動き」で紹介されました。なお、当論文につきましては、同様に企業組

織体責任論から個々人を越えた法人自体の活動を主張されていました板倉

宏教授から、ある日の真夜中に電話をいただき、「今興奮して読んでいる」

と言って当論文を評価していただいたことを覚えています。

 (8)もっとも、人間と自動機械との差は質的なものではなくて量的なも

のと考えますと、将来、人間同様の精巧な自動機械が誕生すれば、この自

動機械と人間がシステム形成した犯罪は、単なる人間の単独正犯ではなく

て、間接正犯か共同正犯かということを議論しなければならない時代が来

るかもしれないことも考えました(9)。

 (9)ところで、これまでの研究論文では、行為論と責任論と共犯論につ

いて検討してきましたが、不法論の研究がありませんでしたので、何か

不満足でした。幸いにも、1986年前期にまたミュンヘン大学に留学をす

る機会を得ましたところ、私が勉強してきました W.R.Ashby 教授や H.-J.

Flechtner 教授や W.Kirsch 教授などのサイバネティクス・システム論の書物

(10)などを資料にした Dietrich Kratzsch 講師の不法論の研究書を見出したの

です(11)。夢中で読みました。そして、この書を土台にして書き上げまし

たのが、この留学の成果として発表しました拙論「刑法における不法概念

の再構成―D. クラッチュのシステム論的考察の検討―」(1989年)です(12)。

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一六九

254 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

 (10)この論文では、①再度のシステム概念の考察と法と法学にとって

のシステム論の不可欠性、②法と社会のシステマティッシュな相互作用関

係、③刑法にとってのサイバネテイクス的システム論の重要性、④刑法規

範のシステム関係的理解、⑤規範システムと不法システムの関連性、⑥法

益と社会有害性(13)、⑦不法の実質の新しい理解と行為無価値論・結果無

価値論では説明できない不法要素について論究しました。

 (11)こうして従来の研究論文を犯罪論の順序に並べ変え若干の加筆修

正の上『刑法学方法論の研究―存在論からシステム論へー』と題する 1冊

の書を上梓しました(1991年)(14)。この書を博士論文として学位請求し

たかったのですが、正直なところ、法哲学の研究を嫌われた指導教授の下

村教授が果たして容認してくださるか不安でした。しかし、齋藤誠二教授

が、内容は充分だから思い切って請求してみなさいとおっしゃるので、こ

わごわ下村教授にご相談したところ、快く内諾していただき感激しました。

そして、翌年の 1992年 3月に無事に博士学位を授与されました。

 (12)この書を平野龍一教授に謹呈させていただきましたところ、ご返

事にて、「前人未到の業績です」という過分な評価をいただき、おせいじ

半分以上としても、うれしかったです。

(1) 主たるものとして、サイバネティクスについては、Heinz Michael Mirow,

Kybernetik. Grundlage einer allgemeinen Theorie der Organisation. Wiesbaden,

1969.; W.Ross Ashby, Einführung in die Kybernetik. Frankfurt a.M.,1974,; Hans-

Joachim Frechtner, Grundbegriff der Kybernetik.5Aufl., Stuttgart,1972.; Addalbert

Podlech, Rechtskybernetik-Eine Juristische Disziplin der Zukunft. in: Juristische-

Jahrbuch. Bd.10,1969; Gerhart Niemeyer, Kybernetische System-und Modeltheorie.

system dynamics. München,1977.; Karl W. Deutsch, Politische Kybernetik. Modelle

und Perspektiven. 2Aufl . Freiburg, 1970.; 一般的システム論については、Ludwig

v. Bertalanffy, …aber vom Menschen wissen wir nichts. Wien, Düsseldorf,1970.(彼

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一六八

255随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

の General System Theory-Foundation,Development, Application. 1968の長野 / 太

田共訳本・みすず書房 1973年がある); Hans Ulrich, allgemeine Systembegriff.

in: Jörg Baete(Herg.),Grundlagen der Wirtschaft-und Sozialkybernetik.Opladen,

1975. 組織論としては、Dietmar K. Pfeiffer, Organisation als System.in: Karlheinz

Wöhler (Herg.), Organisationsanalyse. Stuttgart, 1978.; Knut Bleicher (Herg.),

Organisation als System. Wiesbaden, 1972.; 役割論としては、Uta Gerhardt,

Rollenanlyse als Kritische Soziologie. Neuwied,Berlin, 1971.; Günter Wieswede,

Rollentheorie. Stuttgart,Berlin, Köln, Mainz,1977. コミュニケーション論として

は、Heinz Wande, Information und Kommunikation. in: W.Borgmann/J.Hanselmann

(Herg.), Kyberbetik als Herausforderung. Trier,1980.; 組織論と組織決定論に

つ い て は、Hill/Fehlbaum/Ulrich, Organisationslehre. 1. Ziele,Instrumente und

Bedingungen der Organisation sozialer Systeme. Stuttgart, 1976.; Werner Kirsch,

Einfürung in die Theorie der Entscheidingsprozesse. 2Aufl ., 1977.; グループ論につ

いては G.C.Homans, Theorie der sozialen Gruppe. 7Aufl ., Opladen, 1978.; Georges

Lapassade, Gruppen Organisation Institutionen. Stuttgart,,1967.; A.K.Rice, Führung

und Gruppe, 2Aufl .Stuttgart,,1973.

(2) 駒澤大学法学論集第 22号。

(3) Fritjof Haft, Der Schulddialog. Prolegomena zu einer Pragmatischen Schuldlehre im

Strafrecht. Freiburg, München, 1978.

(4) Manfred Riedel, Handlungstheorie als ethische Grunddisziplin. Analytische und

hermeneutische Aspekte der gegenwärtigen Problemlage. in: Hans Lenk (Herg.),

Handlungstheorien.interdisplinär II. Handlungserklärungen und philosophische

Handlungsinterpretation. München, Bd.2-1, 1978.; Richard Bärwinkel, Zur Struktur

der Garantieverhältnisse bei den unechten Unterlassungsdelikten. Strafrechtliche

Abhandlungen. Neue Folge. Bd.4., Berlin, 1968.

(5) Ota Weinberger, Wahrheit, Recht und Moral. Eine Analyse auf Kommunikationstheoretischer

Grundlage. in: K.Engisch/H.L.A.Hart/H.Kelsen/ U.Klaus/K.R.Popper (Herg.), Rechtstheorie.

Zeitschrift für Logik,Methodenlehre, Kybernetik und Soziologie des Rechts. 1970.;

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一六七

256 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

Lother Philipps, Der Handlungsspielraum.Untersuchungen über dasVerhältnis von

Norm und Handlung im Strafrecht.Frankfurt a.M.1974.

(6) 駒澤大学法学論集・第 32号 ; 駒澤大学法学部研究紀要・第 44号 ; 駒澤大学

法学論集・第 33号。

(7) Claus Roxin, Täterschtaft und Tatherrschaft. 3Aufl ., Berlin,New York, 1975, 6Aufl .,

1994;. Günther Jakobs, Strafrecht. Allg. Teil. Die Grundlagen und Zurechnungslehre.

Berlin,New York, 1983.

(8) 瀧川幸辰「共謀共同正犯」法曹時報・第 1巻第 10号 7頁。

(9) 前註(6)。

(10) W.R.Ashby, a.a.O.; H.-J.Flechtner, a.a.O.; W.Kirsch, a.a.O.; Georg Klaus/Heinz

Liebscher (Herg.), Wörterbuch der Kybernetik. Frankfurt a.M., 1979, Bd.1,Bd.2.

(11) Dietrich Kratzsch, Verhaltenssteuerung und Organisation im Strafrecht. Ansätze zur

Reform des strafrechtlichen Unrechtsbegriffs und der Regeln der Gesetzesanwendung.

Berlin, 1985.

(12) 駒澤大学法学論集・第 39号。

(13) Günter Jakobs, a.a.O.; Knut Amelung, Rechtsgüterschutz und Schutz der

Gesellschaft. Fankfurt a.M.,1972.

(14) 八千代出版・1991年・410頁。

 6. システム論の応用時期

 (1)今までの拙論「刑法と刑事政策の理論」「共同正犯の共犯性と正犯

性」「刑法における不法概念の再構成」の研究時期から、従来のサイバネ

ティクス的システム論および一般的システム論による研究の行き詰まりを

感じていまして、当時から、少しずつ取り組んでいました社会的システム

論やオートポイエーシス論およびエントロピーの法則を新たに勉強し始

め、認知科学にも目を向けました。社会的システム論では主として Niklas

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一六六

257随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

Luhmann 教授(1)、オートポイエーシスでは主として H.R.Maturana/F.J.Varela

両教授(2)、認知科学と刑法については Walter Kargl 教授(3)、エントロピー

の法則については Jeremy Rifkin 教授(4)などの文献を勉強しました。

 (2)1992年には、3本の論文を発表する機会に恵まれました。もっとも、

そのうちの「刑法と自由意思」と「共謀共同正犯」は、今までの考え方を

学生諸君にも理解し易く要約したもので(5)、画期的な新鮮さはありませ

ん。これに対して、「刑法にとって自由意思論は無用か」(6)においては、

責任と刑罰に関して自由意思論を棚上げにする昨今の傾向に反対し、自由

意思の存在論的有無論ではなくて、責任非難のための要否論の立場から、

責任は非難(回顧的視座)か予防(展望的視座)かという二者択一論からそ

の前提としての自由意思の要否を論ずるのではなく、自由意思こそが責任

と予防を相応させる契機であることを主張しました。

 (3)社会システムの構成員であるわれわれは、刑法的規範システムの構

成員でもありますから、この規範システムの定常性(安定性)を実現する

役割義務を有しています。したがって、この役割義務に反すれば回顧的な

非難が生じ、その具現化として刑罰が発生しますが、しかし刑罰は、その

根拠づけと限界づけのために責任原理を必要とします。刑罰は、一般予防

的には社会システムの定常性に機能し、特別予防的には行為者の改善とい

う展望的機能を有します。その意味では、責任は、過去の事実に対する非

難と将来の規範システムの定常性復活のための展望的契機を有し、刑罰は、

行為者本人の改善と再社会化を実現します。

 (4)このように考えますと、非難のためには選択の自由ひいては意思の

自由を前提にする必要がありますし、行為者の将来的な自己改善と社会復

帰のためには、刑罰による他律的な教育だけでは不充分であり、この教育

と学習を通したフィードバック作用により、自己の将来の態度を規範的価

値に従って自律的に自己制御する自由意思が必要なのです。したがって、

意思の自由は、過去の事実に対する非難の前提として必要ですし、行為者

の将来的自己改善と将来の態度制御のためにも必要となります。これが本

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一六五

258 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

論文によって主張した私の見解です。

 (5)この後、1993年、1994年、1995年の 3年間で 3本の論文を発表す

る機会がありました。1993年の「刑法(学)のための行為概念―システム

論的構想の素描―」(7)は、行為概念の機能と意義を過小評価する状況に

対して、行為概念の重要性を主張し、基本要素としての分類機能、総合要

素としての定義機能、限界要素としての限界づけ機能の必要性を説き、行

為(Handling)、行動(Handeln)、態度(Verhalten)、所為(Tat)、犯行(Straftat)

の概念整理をし、「個 = システム」「グループ = システム」「組織 = システム」

の行為の要素である因果性・志向性(目的性)・社会性・人格性について

分析しました。

 (6)本論文において、オートポイエーシス・システム論を導入し、シス

テムの自己生産性・自己保存性に言及しましたが、環境に対して閉鎖的な

「自己準拠性」(自己言及性)(Selbstreferentiellität)には反対でして、アロポ

イエーティッシュな「他者準拠性」を(Fremdreferentiellität)も認め、人間も

社会も資料とエネルギーと情報に関しては環境に対して相対的に開かれて

いるとして、N.Luhmann 教授の見解に反対しました。その上で、具体的

な問題として、不作為の行為性、消極的行為概念に対する批判、法人の行

為能力について私の見解を披歴しました。

 (7)1993年にホセ・ヨンパルト教授がドイツ語で出版した「法の理論と

哲学におけるディヒョトミー化」という書物があります(8)。教授は、そ

の第 7章「法システムとシステム思考 : ディヒョトミー化の随伴者として

のシステム化」において、古典的システム論および現代的システム論を批

判されました。そして、それに対する再批判をしてほしいと私に要請が来

ました。それに応えて書いた再批判論文が「法の理論と哲学におけるティ

ヒョトミー化について」(1994年)です(9)。

 (8)ヨンパルト教授によりますと、法哲学にはディヒョトミー化(二分化)

とシステム化が必要であるが、システム化が前提とするシステムの概念は

システム論のシステム概念とは異なるし、逆にシステム論にもディヒョト

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一六四

259随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

ミーが必要であると言うのです。その理由として、システマは「合成」の

意味で、システム論の言うシステムは「全体」ないし「統一」の意味だか

らと言うのです。

 (9)しかし、現代的システム論では、システムはその複雑性を縮減する

ためにも「分化」(Differenzierung)は必然的現象であることを前提としてい

ることは N.Luhmann 教授も認めていますし(10)、システムの有する「統合」

の作用も認められています(11)。したがって、現代的システム論は、分化

と統一の繰り返しでして、ディヒョトミーのように単なる二分化に終始す

る見解はむしろ疑問です。存在と当為、実在と価値、自然と人間、客体と

主体、身体と精神というように二分化することこそが、立法者の恣意を招

き環境破壊・自然破壊を招くのだと思い、J. ヨンパルト教授のディヒョト

ミー理論を批判しました。

 (10)1995年には、2本の論文を発表することができました。①「認知科

学と故意・過失論」(12)および②「認知科学と刑法的行為論―オウトポイ

エティッシュなシステ論を顧慮してー」(13)でした。いずれの論文も、本

格的にオートポイエーシスを批判的に導入しながら認知科学をも導入した

点が私の新しい視点です。そして、W.Kargl 教授の文献を活用しました(14)。

特に、論文①では、オートポイエーテイッシュなシステムもまた、完全に

閉じられた自己準拠システムではなくて、環境に対しては少なくとも資料

と情報に関して開かれていなければならないことを強調し、現在も日本の

通説であります「認識ある過失」の範疇を否定しました。そして、論文②

では、1993年論文に欠如していました「認知」ないし「認知性」を顧慮

した行為概念を分析しました。

(1) ルーマン教授の研究書は沢山ありますが、例えば、Niklas Luhmann, Soziale

Systeme. Grundriß einer allgemeinen. Theorie. 3Aufl., Frankfurt a.M.,1988.; Ders,

Rechtssoziologie, 2., Reinbeck, 1972. (村上 / 六本訳『N. ルーマン 法社会学』

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一六三

260 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

岩波書店・1977 年がある); Rechtssystem und Rechtsdogmatik. Stuttgart,1974,

(土方透訳『法システムと法解釈学』日本評論社・1988 年あり); Ders,

Soziologische Aufklärung zur Theorie sozialer Systeme. Bd.1, 4Aufl ., Opladen, 1974.

(土方訳『ニクラスルーマン論文集 1・法と社会システムー社会学的啓蒙―』

新泉社・1983年がある); Walter Buckley, Sociology and Modern Systems Theory.

1967, Prentice-Hall, Englewood Cliffs: New Jersey(新 / 中野訳『一般的社会シス

テム論』誠信書房・1980年がある)。

(2) オートポイエーシスについては、Humberto R. Maturana, Erkennen : Die

Organisation und Verkörperung von Wirklichkeit. Ausgewählte Arbeiten zur

biologisehen Epistemologie. 2Aufl., Braunschweig, Wiesbaden, 1985.; Humberto

R.Maturana/Francisco J.Varela, Autopoiesis and Cognition-The Realization of

The Living-Holland,1980. (河本英夫訳『オートポイエーシスー生命シス

テムとはなにかー』国文社・1991年がある); H.R.Maturana/F.J.Varela, Der

Baum der Erkenntnis. Die biologischen Wurzeln des menschlichen Erkenntnis,

3Aufl .,Bern,München, 1987.(菅啓次郎訳『知恵の樹』朝日出版社・1987年

が あ る ) ; Gunther Teubner, autopoietisches System. Frankfurt a.M.,1989.; Werner

Kirsch, Kommunikatives Handeln, Autopoiese, Rationalität-Sondierungen zu einer

evolutionären Führungslehre-München, 1992.

(3) Walter Kargl, Handlung und Ordnung im Strafrecht. Grundlagen einer kognitiven

Handlungs-und Straftheorie. Berlin, 1991.; Ders, Der Strafrechliche Vorsatz auf

der Basis der kognitiven Handlungstheorie. Frankfurt a.M.,Berlin, Bern, New York,

Paris,Wien,1993.

(4) エントロピーの法則については、Jeremy Rifkin, Entrophie. の竹内均訳『エン

トロピーの法則』昭和 57年・祥伝社および前記註(2)を利用。

(5) 「刑法と自由意思」『刑法基本講座』第 1巻・法学書院・17頁以下所収 ; 「共

謀共同正犯」『刑法基本講座』第 4巻・法学書院・191頁以下所収。

(6) 八木国之先生古稀祝賀論文『刑事法学の現代的展開』上巻・法学書院・1992

年所収。

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一六二

261随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

(7) 福田平・大塚仁博士古稀祝賀『刑事法学の総合的検討』下巻・有斐閣・1993

年所収。

(8) José Llompart, Dichotomisierung in der Theorie und Philosophie des Rechts. Berlin,

1993.

(9) 『法の理論』14、成文堂・1994年。

(10) N.Luhmann, Soziologische Aufklärung zur Theorie sozialer Systeme. Bd.1, 4Aufl .

Opladen, 1974,S.123ff., 116f.(土方訳『ニクラス・ルーマン論文集 I・法と社

会システムー社会学的啓蒙―』新泉社・150頁以下、133頁以下)。

(11) N.Luhmann, Soziale Systeme.S.289.

(12) 下村康正先生古稀祝賀『刑事法学の新動向』上巻・成文堂・1995年所収。

(13) 駒澤大学法学論集・第 50巻所収。

(14) Walter, Kargl, a.a.O. 特に「情動」については、岩波講座『認知科学 6』1994

年参照。

 7. 組織論の応用時期

 (1)この間に私は、Art.Kaufmann 教授著の『正義と平和』(1)および

T.Eckhoff/N.K.Sundby 両教授著の『法システムー法理論へのアプローチ』(2)

を共訳出版する幸運を得ることができまして、後者につきましては、夜半

すぎに渥美東洋教授から電話をいただき、「良い仕事をした」と言ってス

カンジナビア法学の重要性につき貴重なお話を伺いました。ところで、前

6節以後には特に組織論の応用を心がけ、企業法人と犯罪組織の犯罪主体

性についてシステム論的分析を行いました。①「組織と犯罪―システム理

論と経営組織論からのアプローチー」(2000年)、②「企業法人の犯罪主

体性」(2000年)、③「21世紀刑法学の視座―システム思考の必要性―」(2002

年)がその成果です(3)。

 (2)論文①では、犯罪組織を問題にし、組織とはシステム論的には「2

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一六一

262 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

人以上の人が同じ目的をもって協働するシステム」であると考え、外部環

境との間に資料・情報・エネルギーを相互交換する開放的・動態的システ

ムであり、消極的フイードバック機能によって目標実現に向けて自己制御

するシステムであり、定常性(最終目的)を確保すると同時に、自己生産・

自己修正・自己保全する自己準拠的なオートボイエーシス的システムであ

るが、相対的に開かれたシステムであると分析しました。その上で、犯罪

組織も収益獲得と組織と立案においては企業組織と類似しているので、犯

罪組織と企業組織の構造と機能の類似点を経営学的組織論に沿って検討し

ました。

 (3)このような前提に基づき、論文②では、企業法人の犯罪性と犯罪主

体性を論じ、法人の代表者の責任を法人に帰属させる「同一視理論」に等

しい帰属モデル論を否定し、法人組織独自の直接的な行為能力について論

じました。そして、イギリス・アメリカおよび特にフランスにおける企業

法人の犯罪性と可罰性についての現状を紹介し、私の考え方の正当性を主

張しました。

 (4)こうして論文③では、経済現象の変遷に応じて国境の壁を越えてグ

ローバル化・ボーダレス化している今日の犯罪現象を鑑みると、刑法学そ

のものをシステム論的に思考する必要性があることを強調しました。その

グローバル化とボーダレス化の象徴として組織犯罪と環境犯罪を挙げて論

じました。例えば、イタリヤ人による「マフィヤ」や「カモラ」のみならず、

中国の「蛇頭」やロシヤの「マフィヤ」の犯罪現象、そして、チェルノブ

イリ原子力発電所の崩壊による環境汚染(論文③当時には存在しなかった

2011年の福島原発の問題や中国の PM2.5の問題も同じでしょう)がまさ

にその証左であります。

 (5)以上のように、6節を経て 7節にかけて一般的システム論・社会シ

ステム論・オートポイエーシス論を根底にして具体的な刑法学上の問題を

分析してきましたが、この間の論文をまとめて単著『システム思考と刑事

法学』(2010年)を上梓することができました(4)。

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一六〇

263随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

(1) Art.Kaufmann, Gerechtigkeit- der vergessene Weg zum Frieden. Gedanken eines

Rechtsphilosophen zu einem politischen Thema. München, 1986. 竹下賢監訳『正

義と平和』ミネルヴァ書房・1990年。54/193頁担当。

(2) 神田 / 都築 / 野崎 / 松村共訳『法システムー法理論へのアプローチー』ミネ

ルヴァ書房・1997年、121/266頁担当。原書は、Torstein Eckhoff/Nils Kristian

Sundby, Rechtssysteme.-Eine systemtheoretische Einführung in die Rechtstheorie.

Oslo, 1975.ですから、本来の副題は「法理論へのシステム理論的概説」ですが、

「法理論へのアプローチ」と改題しました。

(3) ①夏目文雄先生古希祝賀論文集『刑事法学の新展開』(中部日本教育文化会)・

2000年所収 ; ②駒澤大学法学論集第 60号 ; ③佐藤司先生古稀祝賀『日本刑

事法の理論と展望』信山社・2002年所収。

(4) 八千代出版・2010年。

 8. 新たな問題

 (1)システム理論と刑法学についてひとまず一息ついたかと思いきや、

私の長年の研究の土台を揺らす重大にして新しい問題が出てきました。そ

れが「ニューロン決定論」です。従来から、刑事責任(Schuld)は、非難な

いし非難可能性であり、刑罰はその具体化であると同時に犯罪者の改善と

再社会化のための処遇だとされてきました。これが日本およびドイツの支

配的見解でした。

 (2)そして、非難を可能にするには、例えば刑法典 235条の窃盗罪の規

定に隠されている「盗むなかれ」という不文の規範に直面した時に、規範

に従って盗まないように意思制御することもできるし、規範に背いて盗む

意思形成をすることもできる意思の自由が前提として必要です。そして、

通常人ならば盗まない意思決定をするにもかかわらず、行為者は何故に盗

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264 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

む意思決定をしたのかという非難が発生するのです。このことは、ドイツ

連邦裁判所でも過去に確認されました(1)。

 (3)ところが、神経生理学者の Benjamin Libet 教授が、1983年からの脳

生理学的な実験によって、意思は行為に転換されるけれども、それより

も大脳皮質の運動領域である「準備電位」(Bereitschaftspotential)のほうが

時間的に先行すると主張したのです(2)。これを受けて、行動生理学者の

Gerhard Roth 教授は、人間は自由に行為するのではなくて、意思の自由は

「幻想」であると言い(3)、神経生理学者 Wolf Singer 教授は、「意思は自由

ではあり得ない」し「決定と行為はニューロンプロセスによって準備され

る」と言明し(4)、心理学者の Wolfgang Prinz 教授もまた、行為「決定は、

人間の意識におけるよりも前に脳で行われている。…人間の自由な意思の

概念は科学的な考量と原理的には結びつき得ない」と主張したのです(5)。

 (4)この脳という物質が精神・意思・行為を生み出すという脳科学の物

理的決定論を容認しますと、「自由意思→責任 = 非難→刑罰」論を放棄し

なければなりませんし、私の 40年以上の主張を撤回しなければならない

ことになります。しかし、私は、刑法学という規範学の世界でかかる決定

論を認めることは疑問であると思いました。たしかに、意思決定が物理的

に影響されることもあるでしょうが、意思は相対的に自由であり、絶対的

自由意思論もハードな決定論も容認できないことは、私も従前から主張し

ていました。

 (5)意思決定は、物理的な「原因」(Ursache)に起因することもあるでしょ

うが、教育とか学習による経験や理性に基づく「理由」(Gründe)による場

合のほうが多いでしょう。ある少年 A が公園で拾った 500円硬貨を交番に

届けた意思決定は、脳活動の準備電位によるのではなくて、着服する可能

性と自由があるにもかかわらず届けたのは、やはり「理由」に基づく自由

な意思決定によるものでしょう。そう考えれば、第 3人称視座で見れば客

観的な自然科学的な事象も第 1人称視座でとらえなおすことができます。

 (6)そもそも、脳科学を含む自然科学の世界でさえ一元的に決定された

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265随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

世界ではなく「ゆらぎ」の世界です。第 1人称視座か第 3人称視座のいず

れか一方のみを認め他方を拒絶排斥する考え方は疑問です。両視座の両立

可能性あるいは自由意思論と決定論の両立可能性そして「責任 = 非難論」

と「責任=予防論」の両立可能性を論ずるほうが建設的だと思います。私は、

かつて「意思の自由と刑事法学―問題点の指摘とその解決の試みー」(正・

続)において、決定論と自由意思論は両立可能な問題なので、いずれか一

方という二者択一論は採らないことを既に表明していました。

 (7)こうして私は、「意思の自由と刑事責任―ニューロン決定論との批判

的対話―」(1)(2)(3)の 3部作を発表しました。論文(1)では、「ニューロ

ン決定論をめぐる見解の概観(ドイツの論争事情を中心に)」と題して、①

ニューロン決定論の契機、②ニューロン決定論の素描、③ニューロン決定

論の擁護論と懐疑論、④第 1人称視座と第 3人称視座について論究し(6)、

論文(2)では、「刑事責任の有り方」と題して、①日本の論争事情、②自然

科学と非決定論、③原因と理由、④責任の有り方、⑤両立可能性論の道に

ついて検討し(7)、論文(3)では、「若干の論稿紹介―補足としてー」と題

して 7人の見解を垣間見て、それに対する私のコメントを提示しました(8)。

 (8)当論文につきましては、松尾浩也教授から、脳科学の「挑戦を受け止

めて下さっていることは救いです。平野先生が御健在でしたら喜ばれたこ

とと思います」し「団藤先生が御健在であれば、この問題についてお考え

を伺ったり出来たろうと思い残念です」とのご返事をいただき、自分の筆

の遅いことを悔やんでいます。ただ、J. ヨンパルト教授からは、ご生前に「私

見では、意思の自由を積極的に説明ができないとしても、その自由を前提

にしないと、責任があり得ないということは、明白な、否定できないこと

です。この事実を認めるしかない」とのご意見をいただき、山口邦夫教授

からも「法学の世界は理性を前提にしていること及び意志は常に理性から

発する…と確信しています」とのご意見をいただき心強く思っています。

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266 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

(1) BGH2,1952.3.18.,S.200f.; Vgl. NJW1953, S.593.

(2) Benjamin Libet, Haben wir einen freien Willen? in: Cristian Geyer (Herg.),

Hirnforschung und Willensfreiheit. 1Aufl . Frankfurt a.M.,2004. S.268ff.

(3) Gerhard Roth, Fühlen, Denken, Handeln. Wie das Gehirn unser Verhalten steuert.

Neue, vollständig überarbeitete Ausgabe. Frankfurt a.M. 2003.S.541, 526, 553.

(4) Wolf Singer, Ein neues Menchenbild?Gespräche über Hirnforschung.1Aufl.

Frankfurt a.M. 2003, und ders, Verschaltungen legen uns fest. Wir sollen aufhören,

von Freiheit zu sprechen. in: C.Geyer (Herg), a.a.O.S.52.

(5) Wolfgang Prinz, Der Mensch ist nicht frei.Ein Gespräch. in: C.Geyer (Hers.),

a.a.O.S.22.

(6) 駒澤法学・第 11巻第 1号。

(7) 駒澤法学・第 11巻第 4号。

(8) 駒澤法学・第 13巻第 3号。

9. おわりに―そしてこれから

 (1)以上のように、私の 48年におよぶ研究航路を振り返り語ることがで

きましたのも、いかに研究業績が少ないかということの証左でありましょ

う。学会で名を馳せている著名な研究者の方々の場合ですと、業績が多す

ぎて私のように簡単に回顧し語ることは困難だと思います。したがいまし

て、私がこの回顧録を綴ることは、私の未熟さを吐露するに等しいわけで、

恥ずかしいわけですが、それを敢えてする厚顔無恥をお笑いいただき、遅々

たるものですが、これからも研究を続ける励みとしたいと思います。

 (2)まだ研究を諦めたわけではありません。第 1に、ニューロン決定論

との対話は続けるつもりです。今回の駒澤法学には間に合いませんでした

が、非難なき刑罰についても考えたいですし、自由意思の要否論について

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267随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

も、規範的評価の問題として今一度検討したいと思います(1)。

 (3)第 2に、私は、長年、刑法学と法哲学を切り離すことなく研究を続

けてきましたので、刑法学者の法哲学に対する考え方を知りたいと思って

いましたし、かねてからの関心問題でした法哲学と法理論との関係も研究

したいと思っています。その文献も目を通したいです(2)。

 (4)第 3に、システム論や組織論によって、共同正犯と組織犯罪につい

てその性格・構造・機能を研究してきましたので、これからも組織犯罪に

ついて規制化も含めて研究していきたいと思っています。これについては、

ドイツの強盗・窃盗の Bande(徒党・団)に関する考え方とか制裁方法を

勉強したいとも思っています(3)。

 (5)システム論からしますと、宇宙も大小の銀河や暗黒物質・暗黒エネ

ルギーという部分システムから成る(換言すれば部分システムに分化した)

システムですし、太陽系も多くの惑星からなるシステムですし、地球も植

物群・動物群・鉱物群から成るシステムです(4)。動物群の要素である人

間も、筋肉システム・消化器システム・骨格システム・循環器システム・

神経システム・認知システム・情動システムから成るシステムです。

 (6)社会は、政治システム・法システム・文化システム・経済システム・

宗教システムという部分システムから成る(あるいし分化した)システム

であり、それぞれが相互交換作用を通じて社会システムの安定(定常性・

保全性)を維持しています。法システムは、また、公法システム・私法シ

ステム・社会法システム・環境法システムに分化しながら、法システムの

定常性を維持しています。

 (7)公法システムのなかの刑事法システムもまた、刑法システム・刑事

訴訟法システム・処遇法システム・特別刑法システムに分化しながら犯罪

対策のために機能しています。私は、このような視座に基づき刑事法学の

研究をしてきました。システムの最終目的は「生き残り」(überleben)と自

己保全であり、そのために消極的フィードバックに基づく可変性と自己訂

正(Selbstkorrektur)が必要で、それによって動態的な定常性が確保されます。

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268 随想―吾が研究行路を顧みて(松村)

いかなるシステムも、閉鎖的で可変性がないと、積極的フィードバックに

陥り、最終的にはエントロピーが増大してシステムは崩壊します(5)。

 (8)私もまた、常に自己訂正の可能性を残しながら、研究を続け、人格

のなお一層の向上に努めたいと思います。以上を以て、私の研究行路の拙

い回顧録を終わらせていただきます。ご笑覧いただきましたら幸いです。

(1) 例えば、Tatjana Hörnle, Kriminalstrafe ohne Schuldvorwurf. Ein Plädoyer für

Änderungen in der strafrechtlichen Verbrechenslehre. Baden-Baden, 2013.

(2) 例えば、Max Ernst Mayer, Rechtsphilosophie. Berlin,1992.; Peter Koller, Theorie

des Rechts. Eine Einführung. Wien,Köln,Weimar,Böhlam, 1992.; Ralf Dreier, Zum

Verhältnis von Rechtsphilosophie und Rechtstheorie. in: Volkmar Schönburg (Herg.),

Philosophie des Rechts und das Recht der Philosophie. Frankfurt a.M., Berlin, Bern,

New York, Paris, Wien, 1992.; Rüther/Fischer/Birk, Rechtstheorie mit Juristischer

Methodenlehre. 7Aufl.,2013.; Kaufmann/Hassemen/Neumann (Herg.), Einführung in

Rechtsphilosophie und Rechtstheorie der Gegenwart. 7Aufl . Heidelberg, 2004.; Matthias

Mahlmann, Rechtsphilosophie und Rechtstheorie. 3Aulf., Baden-Baden, 2015.

(3) 例えば、kerstin Krings, Die strafrechtlichen Bandennormen unter besonderer

Berücksichtigung des Phänomens der Organisierten Kriminalität. Frankfurt a.M.,Berlin,

Bern, Bruxelles, New York, Oxford, Wien, 2000.

(4) 松井孝典『地球システムの崩壊』新潮社・2007年 12頁以下。

(5) Jeremy Rifkin 著・竹内均訳『エントロピーの法則―21世紀文明間の基礎』祥

伝 社・ 昭 和 57 年。23~24 頁、30 頁、33 頁、35 頁、41 頁、77 頁、110 頁、

113 頁、163 頁、192~193 頁、217 頁 参 照。H.Welzel, Naturrecht und material

Gerechtigkeit. 4Aufl .,S.250f. もまた、民主主義社会の自己保全のためには「自

己訂正」の可能性を必要とすると言明している。