恋の嵐に乱されて - AlphaPolis...9 恋の嵐に乱されて 8 冗談交じりの友人の言葉に、ルナは頬を膨 ふく らませる。イルマはそれにも笑って、道具を片付け始

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恋の嵐に乱されて

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5 恋の嵐に乱されて

  第一章

シンと静まり返った教室――絵の具の匂いが立ち込め、生徒たちのキャンバスに鮮あ

やかな世界が

広がっていく。だが、ルナのキャンバスは先ほどからずっと変わらない。まるで、彼女の時間だけ

が止まってしまったみたいだ。

ピリピリした教室の空気には慣れているはずなのに、今日はとても息苦しく感じる。

(あと二ヶ月しかないのに……)

そう思うと、また焦

しょう

燥そう

感かん

に襲われ、彼女の手は完全に動かなくなってしまった。

ルナは、フラメ王国に留学に来ている十七歳の美術学生だ。

フラメ王国は芸術活動の盛さ

んな国で、多くの留学生を受け入れている。祖国のヴィエント王国で

も美術学校に通っていたルナ。彼女は約十ヶ月前、学生生活の最後の一年を、フラメ王国の学校で

学びたいと希望した。それを快か

諾だく

してくれた両親のおかげで、ルナはここにいる。

ヴィエント王国では成績が良く、コンクールで賞を取ったこともたくさんあった。だから、自信

過剰だった部分もあるのかもしれない。

留学当初の、何もかもが新鮮でウキウキしていた気持ち――それは、フラメ王国の美術レベルの

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「ルナ、大丈夫?」

右隣に座っていたイルマが、声をかけてくる。彼女は、ルナと仲良くしてくれているクラスメイ

トの一人だ。垂れ目のおっとりした顔で、表情や仕草がとても上品な美人。ウェーブがかかった茶

色の髪を、授業中はいつも三つ編みにしている。

「ここのところ、授業で全然描いていないし、色もらしくないわね。この課題、評価に大きく響く

けれど……」

心配しつつも、厳しい現実を思い出させるイルマの言葉に、ルナは自分の描きかけの絵を見つめ

る。描きかけと言っても、蓮れ

華げ

の花にちょっと赤色の絵の具をのせただけで、殆

ほとん

ど進んでいない。

「うん……なんとか、する……」

ルナは力なく笑って答えたが、どうしたらいいのかさっぱりだった。

「ルナ、また描けてないのか?」

二人の会話を聞いていたらしい左隣の男子生徒も、ルナの絵を見て表情を曇く

らせる。

「思い詰めると良くない。気分転換も必要じゃないか?

 次の休み、美術館に――」

「気分転換なら、美術からは離れた方がいいでしょう?」

すかさずイルマが指摘すると、彼はムッとした顔になってしまった。すると、他の生徒たちもル

ナの周りに集まり出し、彼女の周囲は一気に騒がしくなる。

「だったら、うちのお茶会に来るといいよ。お母様の淹い

れる紅茶はリラックス効果があって――」

「コンサート鑑賞は?

 チケットが二枚あるんだ」

高さに圧倒されて、すぐに萎し

んでしまった。

フラメ王国の学校では鮮あ

やかで大胆な色遣いの作品が多く、ルナの絵は埋う

もれてしまう。評価し

てもらえるのは、真面目な授業態度と作業の丁寧さくらい。作品が地味すぎて、コンクールに出し

ても審査員の目に留まらないだろう。

ルナはそれでも自分なりに試行錯誤し、課題もこなしてきた。そして、コンクールにも挑戦し続

けている。だが、留学期間も残り二ヶ月と少しというところで、さっぱり絵が描けなくなってし

まったのだ。

(最後のコンクールなのに……)

いや、おそらく最後だから――今度こそ入賞したい、何か結果を残して帰りたいという気持ちが

強すぎて、ダメなのだろう。

最近では、コンクールに出す作品の製作はおろか、普段の授業にまで支障が出ている。考えれば

考えるほど、どんな形も色も陳ち

腐ぷ

に思えて、筆が進まない。

それなのに、迫せ

る課題の提出期限とコンクールの作品提出日が、ルナの中に新たな焦あ

りを生み出

す。この負の連鎖をどう断ち切ればいいのだろう。

今日も、ルナが考えている間に時間は過ぎ、授業終了のチャイムが鳴ってしまった。強こ

張ば

ってい

た身体から力が抜けていく。

しかし、その後に「また描けなかった」という情けなさと、時間を無駄にしたという後悔が襲っ

てきて、ルナは大きくため息をついた。

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9 恋の嵐に乱されて 8

冗談交じりの友人の言葉に、ルナは頬を膨ふ

らませる。イルマはそれにも笑って、道具を片付け始

めた。

「ほら、早くしないと、次の授業に遅れてしまうわ」

「うん」

イルマに促

うなが

され、ルナも片付けをする。

すべての道具をカバンにしまい込み、それを持って教室を出た。

授業時間の合間は教室移動のため、廊下に生徒がたくさんいる。

生徒たちの中には、留学生のルナを嫌な目でじろじろ見る者もいるが、それはフラメ王国の国民

性によるものだ。

ここフラメ王国や、ルナの祖国であるヴィエント王国がある大陸は、四つの大きな国に分かれて

いて、それぞれ特有の魔法を使える人々が住んでいる。

フラメ王国は炎属性の魔法を操る民族で、かつては攻撃的な人種として知られていた。今もその

名な

残ごり

は濃く、中には炎属性に誇ほ

りを持つあまり、それ以外の属性を嫌う過激な人間もいる。

ルナは、ヴィエント王国特有の風属性を持つ。そんな彼女を快

こころよく

思わない生徒は、保守的な家庭

の出なのだろう。

「なんだか物騒ね」

「え?」

一緒に歩いていたイルマがふいに呟き眉を顰ひ

めたので、彼女の視線を辿た

る。すると、鶯

うぐいすいろ

色の制

「二枚って、お前、抜け駆けは――」

皆、がやがやと一斉に話すせいで、ルナは誰が何を言っているのかわからない。

だが、皆が自分を心配してくれていることだけはわかって、とても嬉しくなる。

多くの留学生を受け入れているとはいえ、少々閉鎖的なところがあるというフラメ王国で友達が

できるか、留学する前は不安だったのだ。しかし、ルナの心配はこの通り杞き

憂ゆう

に終わった。

「皆、ありがとう。でも、休みはこの課題をやらないと……せっかく誘ってくれたのにごめんな

さい」

やんわり断ると、皆が残念そうな顔になったので、ルナは慌てて言葉を付け足す。

「だけど、嬉しいのは本当。あの……気持ちだけ受け取るね」

そうすると皆も納得したのか、一様に笑みを浮かべる。それから、彼らはそれぞれルナに励は

まし

の言葉をかけて、席に戻っていった。

「人気者は大変ね」

クスクスと上品に笑うイルマに、ルナは肩を竦す

める。

「皆、私が留学生だからいろいろ気にかけてくれるだけよ。けど……なんだか気を遣わせているみ

たいで悪いな……」

「そんなことないわ。ルナってお人形さんみたいに可愛いから、つい構いたくなるのね。でも、そ

の分心配になるわ。城下町で変な人について行ったりしてはダメよ?」

「もう、子ども扱いしないで!」

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11 恋の嵐に乱されて 10

結局、その日も殆

ほとん

ど作業が進まないまま授業は終わり、ルナは一度宿舎に戻った。

そして、絵を描くのに必要な道具だけを持ち、庭に出る。

今日みたいに午後の早い時間に授業が終わった後や、学校が休みの日は、こうして外で絵を描く。

自分が風属性のせいか、外の空気の流れを感じながら絵を描く方が落ち着くのだ。

庭の片隅にある大きな木の下が、ルナの特等席。

腰までの長い髪を耳元でひとつに結わいて、彼女はキャンバスに向かう。だが、なかなか筆が

キャンバスにのらない。

(ここの赤は、もっと濃く、情熱的に……っ!)

とにかく色を塗らなければならないという思いに急せ

かされ、ルナは真っ赤な絵の具をべたりと筆

先につけた。

以前、城下町の美術館で見た激しい色遣い。そのときの絵や、フラメ王国の華やかさをイメージ

し、必死に手を動かす。

しかし、しばらく勢いで色を塗り、ふと手を止めると……ルナの口から、はぁっと落ら

胆たん

のため息

が漏も

れた。

「ダメだ……」

ポツリと呟いたと同時に、彼女の周りの芝し

生ふ

がさわさわと揺れる。

ルナはキャンバスの中の真っ赤な蓮れ

華げ

の花を見て、首を横に振った。

服――フラメ王国の軍服を纏ま

った男性が、教師と話し込んでいるのが見えた。

「あ……軍人、さん?」

「ええ。この前の盗難事件、うちの学校の生徒のものだったでしょう?」

イルマが言う盗難事件とは、前回のコンクールで最優秀作品だった絵が盗まれた事件のことだ。

学校中で噂

うわさ

になっており、次のコンクールが近づいているこの時期、皆の不安が大きくなっていた。

「うちの学校の卒業生の作品も、なくなったって話よ」

「それって、コンクールとは別の?」

「ええ」

美術品盗難事件の被害に遭あ

ったのは、学生の作品だけではない。そのため、学校だけではなく巷

ちまた

でも騒がれている。

とても深刻そうな面持ちの教師と軍人は、とある教室に入った。あそこには、生徒の作品が保管

されている。もしかしたら、犯行現場なのかもしれない。

ルナは不安でドキドキしながら、彼らが入っていった教室の前を通り過ぎた。

学校の課題すらまともに描けなくなった自分の作品が、盗まれることはないと思いつつ、やはり

心配になる。

絵画に限らず、芸術作品には作者の心が籠こ

もっている。だから……それを盗まれてしまうなんて、

他人事でも悲しい。

ルナは更に落ち込んだ気分になり、足取りも重く、次の授業に向かうのだった――

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13 恋の嵐に乱されて 12

黒い瞳がルナを映す。目元が僅わ

かに赤くなったかと思うと、彼はふいっと視線を逸そ

らした。

「……なんだ、不ぶ

しつけ躾

だな」

ぶっきらぼうな言葉。ルナは彼の粗暴な態度にムッとして、眉根を寄せた。

「それは私の台せ

りふ詞

です。突然、人の絵を下手くそだなんて、失礼です!」

そう怒ると、彼は顔を顰し

めて「自分でそう言っていたくせに」と呟き、ルナが描いていた絵の前

に立った。

「お前さ、これ……何を描きたいわけ?」

「……!」

核心をつく質問に、ルナは答えに詰まる。

「この赤、〝嫌い〟って気持ちが滲に

み出てる。背景の色ははっきりしないし、ぼやけてるな」

「それは……ヴィエント王国のスタイルで……こういうぼかしが、良くて……」

ルナの言葉は尻すぼみで、説得力がない。

「確かに、こういう淡くて流動的な色遣いはヴィエント式だ。だけど、うちの美術館にあるヴィエ

ント王国出身の画家の絵は、フラメ王国の作品に引けをとらず目立つものばかりだ」

彼の言葉に、ルナの心がチクリと痛む。それを知ってか知らずか、彼は喋

しゃべ

り続けた。

「この絵みたいに迷ってない。みんな、自分の描きたいものと、伝えたい気持ちがある。たとえば、

アダ。お前も知ってるだろ?

 有名なヴィエント王国の女性画家だ。あの人の絵に派手さはないけ

ど、作品はフラメ王国民から見ても情熱的で、高い評価を得ている」

赤が濃すぎて、淡い色遣いの優しい背景には似合わない。まるで、背伸びをしてルージュを塗り

たくった子供のよう。

これも、失敗。描きかけですらなくなってしまった絵を見て、イラつく気持ち――それが更にル

ナの色遣いをくすませていると理解しながらも、心の奥に沈んでしまった焦あ

りが、無意識のうちに

表れる。

ルナは持っていたパレットを芝し

生ふ

に置いて、再びため息を吐いた。

 

「下手くそ……」

まだ乾いていないキャンバス上の色に触れると、べったりと指先が赤く濡ぬ

れる。ルナの好まない

原色は、フラメ王国の象徴である炎の色だ。

「本当に下手くそだな」

突然頭上から降ってきた声に、ルナは驚いて上を見る。同時にガサッと音がして、すぐ近くの木

の上から男が現れた。

彼は軽やかな身のこなしで枝に両手でぶら下がり、トスッと芝生に着地する。

鶯うぐいすいろ

色の軍服から、彼がフラメ王国の軍人だとわかるが、見覚えのない顔だ。

背が高く、体格は軍人らしくしっかりしている。先ほどの一言がなければ、つい見み

惚と

れたかもし

れない端整な顔立ちだ。

ルナは自分の隣に立った彼を、じっと探るような視線で見上げる。すると、黒い短髪についた葉

を落としている彼と目が合った。

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自分の描きたいもの、伝えたい気持ち。それらがわかっていないルナには、彼の指摘はひたすら

耳に痛かった。

「お前の絵は気持ちで負けてる。自分の色に自信がないんだろ?」

彼の指摘に、ルナは息を呑の

んだ。

自信がない――その通りだった。留学中に、なくしてしまったのだ。

鮮あざ

やかな色を自在に操る生徒たちとの授業や、自信に溢あ

れる芸術家たちの集まる城下町。

皆、自分の技術と作品に誇ほ

りを持っていた。その中で切せ

っさたくま

磋琢磨して、ルナが想像していた以上の

高みを目指しているのだ。限界なんて言葉は、彼らの中にない。

そんな彼らと共に過ごしていると、ヴィエント王国という小さな場所で満足していた自分が恥ず

かしくて……

「わかってます。これでもヴィエント王国では、成績は良かったんです。でも、ここでは私くらい

の人……いいえ、私以上に上手い人がたくさんいて、なんだか心の中がごちゃごちゃで……」

――自分はどうして、こんな話をしているのだろう。

初対面の男性、それも芸術に関係しているわけでもない軍人に、自分の心を吐と

露ろ

するなんてどう

かしている。そう思う一方で、ルナの絵を見て的確に心の迷いを指摘した彼に、親近感のようなも

のが湧わ

いていた。

ルナは、ぽつぽつと言葉を続ける。

「描きたかったのは、フラメ王国の炎だったんです。この前、城下町で見た魔法のパフォーマンス

が綺麗だったから」

城下町でよく行われる、魔法を利用したアートのパフォーマンス。先日、買い物に行ったときに

見たそれに触発され、この絵を描き始めた。留学の集大成にも相ふ

さわ応

しい上に、審査員の受けが良い

かもしれないという気持ちもあった。

蓮れん

華げ

は魔法の源

みなもとの

象徴。それを炎属性の赤で着色してフラメ王国の赤を表現しよう……そう思っ

たのだ。

しかし、ただその情景を描こうとしても、それは上う

辺べ

だけの作品になってしまった。

ルナは俯

うつむ

き、自じ

ちょう嘲

気味に呟く。

「フラメ式の色遣いを真似しても、意味がないってわかってるのに」

フラメ王国のスタイルに倣な

って赤を使ってみたところで、〝審査員の好みに合わせたほうがいい

かもしれない〟なんて邪

よこしまな

気持ちでは、澄す

んだ色になるわけがなくて……

「私には炎の魔法が使えないから、わからないのかな……」

ルナが使う魔法の属性は風なので、炎の温度なんてわからない。

「使えるか使えないかは関係ない。言っただろう?

 気持ちで負けているって」

ルナの話を聞いていた彼は、そう言うと手のひらに炎を灯と

してルナに差し出した。

「芸術は感性、本能だ。お前が炎を感じたいと思わなきゃ、応こ

えてくれない」

目の前に灯る炎はゆらゆらと優しく揺れて、ルナを慰

なぐさ

めているみたいに見えた。その色は、ルナ

が使おうとしていた真っ赤なものではなく、橙

だいだいに

近い……もっと穏やかな色。

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彼はフッとそれを吹き消すと、ルナの絵を見据え、キャンバスを指でなぞった。

「芸術家は、恋をすると変わるって言うけどな」

「え……?」

ポツリと落とされた言葉。ルナが彼に顔を向けると、彼は前髪をくるくると弄

もてあそび

ながら、口を

開く。

「ほら……アダも、ある頃から作風が変わっただろ?

 それまでも人を惹ひ

きつけていたが、更に鮮あ

やかになった。その後、彼女が結婚して……その変化が出た頃には恋をしていたんだって、皆が納

得したという話があるくらいだ」

「はぁ……」

ルナは曖あ

昧まい

な相あ

槌づち

を打った。

美術史の授業で勉強したアダの作品は、確かにあるときを境

さかい

に華やかさが増した。その時期を

彼女の人生と照らし合わせると、結婚という節目に当たると、教師が説明していたのも覚えている。

しかし、本人がそう言った記録があるわけでもないし、それが偶然か必然かは定かではない。

そもそも、彼はどうしてそんな話を自分にしているのだろうか。

すると、ルナの心中の疑問に答えるかのように、彼がルナに向き直る。

「だから、その……お前、恋人はいるのか?」

「恋人、ですか?」

突然振られた話題にうまく頭がついていかず、ルナはそのまま聞き返す。

「付き合っている相手や、好きな奴がいるのかって聞いている」

「そ、そういう人は……いません、けど……」

困惑しつつもルナが答えると、彼は咳せ

払ばら

いをして、くしゃりと前髪を握った。それから視線を絵

に戻し、言いにくそうにしながらも喋

しゃべ

り出す。

「なら、俺がお前の恋人になる」

「へ……?」

また突然な結論に、ルナは呆ほ

けた声を出した。彼女は話の流れが読めず、まじまじと彼の横顔を

見つめる。

目の前の軍人は、木の上から降ってきて、ルナの絵を下手くそだと言った。そのくせ、ルナの絵

を見て本心を言い当てるので、それに促

うなが

されるように悩みを吐き出したら、「芸術家は恋をすると

変わる」と……

つまり、ルナが芸術家として成長するため、彼が恋人になるということだろうか。

「おい、ルナ」

考え込んでしまったルナを呼ぶ声に、彼女はハッと顔を上げる。

「え……?

 あ……どうして、名前を……?」

そう言うと、彼は口元に手を当て、視線を泳がせた。

「それは……今、扱ってる案件が美術品盗難事件だから、いろいろ学校を調べていて、その関係

上だ」

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19 恋の嵐に乱されて

「もしかして、卒業生の作品がなくなったっていう……?」

「ああ、そうだ」

なるほど、彼がコンクールや学校に関連する事件を調べているのなら、美術や学校の生徒たちに

ついて知っているのも当然かもしれない。

「生徒のことも把は

握あく

してる。仕事の一環だ」

「そうなんですか」

彼の説明に納得し、ルナは頷いた。途端、彼は彼女を見つめてまた口を開く。

「それで、返事は?」

「え……?」

再びルナが呆ほ

けた返事をしてしまったせいか、彼は顔を顰し

める。

「何か問題があるのか?

 国に婚約者がいるとか?」

「いませんけど……」

「それなら問題ないな。絵、うまくなりたいんだろう?

 炎の色を……俺が教えてやる」

トクン、とルナの心臓が音を立てる。

彼の瞳はとても真剣な色をしていて、からかっているとは思えなかった。ルナは言葉に詰まった

ものの、すぐに我に返って首を横に振る。

「絵はうまくなりたいです。でも、こういうやり方ではなくて……あの、それに、貴あ

なた方

に迷惑をか

けるわけにはいきませんし……」

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21 恋の嵐に乱されて 20

恋をしたら何かが変わるというのは、安易ではないだろうか。もし本当にそうだとしても、好き

合っているわけでもない偽恋人で効果があるのか甚

はなは

だ疑問だ。

それも、つい今しがた出会ったばかりの男性と……そう考えると、二つ返事で了承はできなかっ

た。だいたい、彼にそんなことをしてもらう義理も理由もない。

「迷惑なわけがないだろう、俺から言い出しているのに!」

ところが、彼は少し声を荒らげてルナの遠慮を責める。ルナは思わず仰の

け反ぞ

った。

「だ、だって、恋人って好きな人のことでしょう?」

「そうだ!」

彼は強く言い切ったかと思うと、顔を背そ

けてしまった。

そのまま何やらブツブツと呟いているが、ルナにはよく聞こえない。ただ、彼の中で恋人を演じ

る話が進んでいることだけは、雰囲気から理解できた。

「あ、あの!

 やっぱり恋人は――」

ルナが彼を止めようと身を乗り出して声をかけた瞬間、ピリッと空気が揺れて熱くなった。それ

に驚いたルナは、思わず言いかけた言葉を呑の

み込んでしまう。

「あいつ……!」

彼が慌てて人差し指に炎を灯と

す。フラメ王国の人々が使う、魔法による伝達手段だ。炎を介して

会話ができるのは、高等教育を受けた者達だと聞いている。軍人にとっては必須なのだろう。

『おーい、ケヴィン。どこほっつき歩いてんだ?

 学校側の許可が取れたぞ。潜入捜査は――』

「お、おい!

 そんな無用心に喋

しゃべ

るな!」

ケヴィンと呼ばれた彼は、チラリとルナの方を見た。そして彼女の視線から逃の

れたいと言わんば

かりに背を向ける。

途端に、ルナの全身から力が抜けた。

潜入捜査――きっと、ケヴィンは学校に潜入するために敷地内を調べていたのだ。そこで捜査の

手掛かりを探していた彼は、ルナを見つけた。

軍服姿で学校内を歩くと目立つだろうし、ルナと知り合いになれば、学校に紛ま

れ込むことも楽に

なるはず。

(なんだ……そっか)

そう推測したルナは納得と共に、なぜか沈んでしまった気持ちを持て余し、ため息をついた。急

な話に驚いたが、こんなに慌てることはなかったのだ。

ケヴィンも最初から、捜査に協力してほしいと言えば良かったのに……

「恋人」という言葉に踊らされた気がして、ルナはケヴィンを恨う

めしそうに横目で見る。

彼は、まだ小声で炎の向こうの男性と話をしていたが、振り返りルナの視線に気づくとハッとし

たように、「じゃあ後で」と話を切り上げた。

「そんなに慌てなくても大丈夫です。協力はしますから」

そんなケヴィンに、ルナは苦笑しつつ声をかける。

「は?

 協力……?」

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23 恋の嵐に乱されて 22

「はい。恋人になればいいんですよね?」

ルナが確認すると、ケヴィンは表情を明るくした後、コホンとわざとらしく咳をした。

「それなら、今から俺とお前は恋人だ。……俺は、ケヴィン・シェーラー。フラメ王国陸軍少

尉……候補だ。ケヴィンって呼べ」

「私は、ルナ・バレロン。ヴィエント王国から美術の勉強に来ている学生です」

ケヴィンに倣な

って自己紹介をすると、彼はまたボソッと何かを言った。

「あの……?」

「……話し方も、普通でいい」

「へ……あ、うん」

聞こえなかった言葉に首を傾か

げるルナに気づいていないのか、ケヴィンはくるりと背を向ける。

「それじゃ、またな」

「またね……?」

ルナは遠くなっていく彼の後ろ姿を見つめながら、もう一度ため息を漏も

らした。

「なんだか、変なことになっちゃった……」

嵐みたいな人だったな……と、ルナはぼんやり考えつつ、手のひらに魔法で風を起こしてみる。

くるくると渦う

巻ま

く小さな風は、ざわつく彼女の心そのもののような気がした――

  ***

翌日。

ルナは手を動かしながら、ぼうっと考え事をしていた。

(恋人、って……どんなことをするんだろう?)

ルナには、恋人がいたことはない。それはヴィエント王国の国風も関係しているだろう。

ヴィエント王国は、大陸で一番大きく発展した国で、一言で言えば自由な国だ。学校教育は、義

務教育の後も男女共に本人の望むレベルまで受けられる。希望の職業に就つ

くことも、本人の努力次

第で可能だった。

結婚については、「した方がいい」という風潮はあるけれど、強制はされないし、その相手は自

分で選ぶことが認められている。ただ貴族の間では、昔からの仕し

来きた

りか、両親同士が決める縁談が

多い。

貴族の出身であるルナは、学校を卒業したらそのうち、父親が婚約者を見つけてくると漠ば

然ぜん

思っていた。自分で相手を見つけるという考えが、すっぽり抜けていたわけだ。

そのため、恋人と言っても何をしたら良いのかさっぱりわからないのである。

それとも、恋人ごっこならば形のみそういう関係を保ったらいいだけで、特に何かをする必要は

ないのだろうか……?

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25 恋の嵐に乱されて 24

フラメ王国は、ヴィエント王国とは違って厳格な国だ。炎属性を重んじ、継承することを第一と

考える宗教信仰もある。それは時代と共に薄れてきた感覚ではあるものの、今でも他属性との混血

は、あまり歓迎されない。

それに、国を守る軍人は、炎属性にこだわりを持つ人々が多いという噂

うわさ

だ。身分にも厳しく、そ

の殆

ほとん

どが貴族の出だと聞いている。一般兵ならば庶民もいるだろうけれど、ケヴィンはあの若さで

少尉候補だと言っていたので、どこか良いところの貴族の子息に違いなかった。ルナより少し年上

に見えたし、婚約者もいるかもしれない。

大体、恋人になると言ったものの、彼との連絡手段だってないのだ。彼も何も残していかなかっ

たことから考えて、捜査のために、形だけの恋人が欲しかったのだろう。

「ルナ、さっきからずっと渦う

巻ま

きを描いているけれど、大丈夫?」

「え?

 あぁ……」

無意識に手を動かしていたルナは、イルマに声をかけられてハッと我に返る。

「何これ……?」

白かったキャンバスは、ぐるぐると風が吹き荒れるような模も

様よう

で埋う

まってしまっていた。

「何って、自分で描いていたのにわからないの?

 ルナって本当に面白いわね」

イルマはクスクス笑いながら、ルナのキャンバスを指差す。

「でも、これ……とても良いと思う」

「え、これが?」

橙だいだい

の色で描かれた風を見て、ルナは首を傾か

げる。

「ええ。勢いがあるっていうか、本能的……かな。ルナって、いつもはパレットにたくさん色を出

して、ひとつひとつの箇所を慎重に彩色していくけれど、今日は一心にこの色を塗っていたわよ」

本能的――昨日の、ケヴィンの言葉を思い出す。彼は、芸術は感性や本能だと言っていた。

ルナがこの色を選んだ理由は、本能なのだろうか?

「集中していたのに、声をかけてごめんね。授業が終わったことを教えたくて」

イルマにそう言われて、ルナはやっと周りが騒がしくなっていることに気づく。

「あ、うん。ありがとう」

イルマにお礼を言い、パレットと筆を洗って片付けた。それから、キャンバスを教室の隅に置く。

エプロンを取って帰る準備が出来たところで、教室が更に騒がしくなり、ルナは顔を上げた。

すると、見覚えのある長身の軍人が、入り口からきょろきょろと教室内を見回している。

「……ケヴィン?」

「お、いた!

 ルナ」

ケヴィンはルナを見つけてすぐ、一直線に彼女に向かってきた。仕事関係で学校に来たのだろう

か。潜入捜査の必要があるのかと思っていたのに、注目されていることはあまり気にしていないよ

うだ。

「ルナ、知り合い?」

近づいてくるケヴィンを見ながら、イルマが問う。

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27 恋の嵐に乱されて 26

「う、うん……えっと、あの……」

「俺たち、恋人なんだ」

ルナが口く

篭ごも

っていると、彼女の前で立ち止まったケヴィンが代わりに答えた。

教室が一瞬シンとなった後、再びざわめき出す。

「恋人!?

 あれ、軍人だよな」

「え、本当に?

 いつから……」

「お前がもたもたしてるから……」

「お前だって――」

クラスメイトたちはルナとケヴィンを見ながら、こそこそと話している。

ケヴィンはそんな騒がしい教室をぐるりと見回した後、イルマに目を留めた。

「君は、ルナの友達?」

「あ、はい。イルマです」

「俺はケヴィン。よろしく。こいつ、もう連れて帰って平気か?」

ケヴィンは簡単に挨あ

拶さつ

をすると、ルナの荷物を持ち、彼女の手を取った。

「授業はもう終わったので、問題ないですよ」

「そっか。じゃあ行くぞ、ルナ」

ケヴィンは満足そうに言って、早々に歩き出してしまう。

「ケヴィン、待って。どうして教室に……」

「どうしてって……恋人なんだから、会いに来てもおかしくないだろ。それとも、理由がなきゃ会

いに来ちゃダメなのか?」

当然のことだと言わんばかりの口調。ルナは驚いたが、すぐに恋人のふりをしなければならない

のだと思い直す。

「そんなことはないけど……びっくりして。それに、服……そのままで良かったの?」

捜査のために学校に紛ま

れ込みたいのであれば、軍服姿を見せてしまってはいけないのではないだ

ろうか。けれど、ケヴィンは気にした様子もない。

「仕事終わりなんだ。ダメだったか?」

「ううん。ただ、私を迎えに来たりして……大丈夫だったのかなって……」

本人がいいのなら、ルナに口出しする理由はない。だが、それでも心配になる。

ルナの恋人が軍人だと知れ渡ったら、犯人は警戒するはずだ。

「あ、あの……軍服でいると、怖がられないの?」

ルナが不安になって問うと、ケヴィンは首を傾か

げた。

「ん?

 まぁ、やましいことがあれば怖いだろ。それでなくても仕事柄、近寄りがたいみたいだし。

ただ、犯罪防止には繋つ

がるな」

「あ、うん。そうだよね」

ケヴィンの説明に、ルナは納得して頷く。

潜入捜査をするくらいだから、犯人が校内にいる可能性もあるはずだ。軍服姿でいれば、犯行の

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29 恋の嵐に乱されて 28

抑よく

止し

にもなる。それに、ケヴィン以外に潜入している人もいて、彼の目的は陽動なのかもしれない。

「もしかして、俺が怖いのか?」

なんだか急に不機嫌になったケヴィン。ルナは慌てて首を横に振った。

「そ、そうじゃないよ……!

 でも、その……こ、恋人だって、言っちゃったから……」

そう言うと、ケヴィンはますます眉み

間けん

に皺し

を寄せて怖い顔になる。

「俺が恋人って知られるのが嫌なのか?」

「そ、そうじゃなくて――」

「むしろ、学校中に噂

うわさ

が広まった方がいいんだ」

ぶすっと呟いたケヴィンは、ルナの手を握る手に力を籠こ

めた。

「ケヴィン……?」

何か怒らせるようなことを言ってしまったのかと、ルナは不安になる。だが、彼は何も言わず、

彼女の手を引いたまま歩き続けた。すぐに二人は、学校の隣に位置する宿舎のエントランスに辿た

着く。

「ほら。着いたぞ」

「う、うん……あの、何か、用事があったんじゃなかったの?」

「ああ、それは……」

ケヴィンは頭を掻か

いて俯

うつむ

く。彼は何事かブツブツと呟いた後、顔を上げた。

どうも独り言が多い気がするが、ケヴィンの癖く

なのだろう。

「お前との、連絡手段がないから」

耳を赤くしながらそう言うケヴィンは、軍服姿できっちりした印象とは対照的に、どこか可愛ら

しく見えた。

そんな彼に、なぜかくすぐったくなったルナは、下を向いて熱くなった頬を隠す。連絡手段がな

いからと、直接会いに来てくれたことが素直に嬉しかった。

「私は、風の魔法しか使えなくて……風に乗せて、手紙を運ぶくらいしかできないよ」

「知ってる。俺も炎でしか伝達ができないからな」

風魔法の伝達手段は、風に言こ

の葉は

を乗せて届けるものだ。風魔法の高等教育を受けた者たちは、

声をそのまま送ることも可能である。しかし、義務教育までの基本魔法では、たとえば手紙のよう

に、何か形になった言の葉でないと送れない。ルナは、風魔法については基本魔法しか学んでいな

かった。

ケヴィンが使う炎魔法の連絡手段は、炎属性同士でお互いの気を指先で認識しないと繋つ

がれない。

そのせいで、ルナとケヴィンの二人は、ルナからの一方通行な伝達しか連絡方法がない。

お互いにしばらく黙り込んでいたが、やがてケヴィンが口を開いた。

「……今日は、明日の予定を聞こうと思ったんだ」

「明日……?

 学校は休みだけど」

ルナが答えると、ケヴィンは軽く頷いた。

「それは知ってる。だから、何か予定があるのかって聞いてるんだ」

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31 恋の嵐に乱されて 30

「コンクールの絵を描こうと思ってるよ。それ以外は特にないかな」

もう提出期限が迫せ

ってきたコンクール。学校の課題を片付けながら、その作業をするのは大変だ。

そのため、ルナは休みの日、宿舎の庭で絵を描くことに殆

ほとん

どの時間を費つ

やす。

「なら、俺も休みだから……美術館に行かないか?」

ケヴィンはそう言うと、息を吸い込み、早口で喋

しゃべ

り出した。

「恋人として、デートから始めようってことだ。それに、迷って描けないなら、息抜きになる。

 

城下町の国立美術館には行ったことがあるかもしれないけど、俺なら地方の美術館にも移動魔法で

連れて行ってやれる。参考になるだろ?」

それを聞いた瞬間、ルナの心が躍る。

「だったら、東地区の美術館に行きたい!」

「東地区だけじゃなくて、行けるところは全部連れて行ってやる」

「本当に?

 嬉しい!

 ありがとう」

自分のことを考えてくれた彼のデートプランに、ルナは明るい顔で頷く。すると、ケヴィンは

ホッと息を吐いてルナに荷物を差し出した。

「じゃあ明日、迎えに来るから。ここで待ってろ。デートらしい格好してこいよ」

ルナが荷物を受け取ると、ケヴィンはまた早口に言って、踵

きびす

を返してしまった。

「うん。また明日……!」

駆け出したケヴィンの後ろ姿に声をかけた後、ルナも宿舎へ入る。

デートにはどんな服装が相ふ

さわ応

しいのか。自分のワードローブを頭の中で開く彼女は、初めての

デートにドキドキしながら部屋に戻るのだった。

  ***

翌日。いつもより早起きをして仕し

度たく

を終えたルナだったが、宿舎を出る時間はやや遅くなってし

まった。

今朝はドレスを選ぶのに、時間がかかったのだ。

ルナが祖国から持ってきた荷物は、殆どが美術学校関係のものだったので、衣服は少ない。

絵を描くときは、汚れても良いように古いよれよれのワンピースを着る。学校には、さすがにも

う少しまともな服を着ていくが、それだって汚れることを考えて、とてもシンプルなものにしてい

る。どちらにせよ、授業中はエプロンで大部分が隠れてしまうけれど。

結局、学校での行事用に持ってきていた余よ

所そ

行きのドレスを引っ張り出してみた。ところが、こ

の一年弱で背が伸びたのか、スカートの裾が短くなった気がする。胸元も少々きつい。

こんな格好でもルナの精一杯なのだが、ケヴィンはどう思うだろう……

不安になりつつも、いつまでも彼を待たせるわけにはいかず、ルナは小走りにエントランスへ向

かう。

そこでは、ケヴィンが腕を組み壁に寄りかかってルナを待っていた。

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33 恋の嵐に乱されて 32

彼が着ているのは、こげ茶色の膝丈のズボンに白いシャツ、そしてズボンと同じ色のベスト――

軍服とは違って、ラフな格好だ。それでいて洗練されて見えるのは、生地の高級感とズボンの裾の

刺ししゅう繍

のおかげだろう。

「ごめんなさい、遅くなって」

「……いや」

ケヴィンはじっとルナの姿を見つめた。ルナはスカートを握って俯

うつむ

く。

「こ、これくらいしか……デートに着ていけるものがなくて……変?」

ルナが纏ま

うのは、パフスリーブの袖がお気に入りの桃色のドレス。ハイウエストの切り替えにリ

ボンがついていて、スカートは裾にレースがあしらわれている。

「いや……けど……」

「え?

 聞こえない――」

小さな声で言うケヴィンに、ルナは聞き返した。だが、彼はルナの手を取ってふいっと顔を背そ

てしまう。

「いい。行くぞ」

「う、うん……」

いまひとつケヴィンのペースが掴めないまま、ルナは頷いた。

繋つな

がれた手を握り返して良いのかわからず、ケヴィンの手に包まれた自分の手をじっと見つめて

歩く。

大きな手――出会った日、炎を差し出してくれた手だ。

(あ……)

そこで、ルナはようやく気づく。昨日の授業で自分が一心に塗っていた色は、ケヴィンが見せて

くれた炎の色だ。彼の厳しくも優しい炎……

ルナの少し前を歩くケヴィンを見上げると、黒髪からほんのり赤くなった耳が見える。そんな彼

を見ているうちに、心に温かな気持ちが湧わ

き上がり、ルナの頬が緩ゆ

んだ。

ケヴィンは、街の中心にある移動魔法を使えるポイントから、ルナを魔法で東地区の広場へ連れ

てきてくれた。彼が使用したのは、炎に包まれて移動する呪文。風魔法でも移動は上級魔法で、ル

ナには使えない。初めての移動魔法は、内臓が浮く感覚がして少し怖かった。

だが、ケヴィンは浮遊感に驚く彼女をそっと抱き寄せてくれたのだ。そのときの彼の体温に、ル

ナは安心した。東地区に着くと、すぐにケヴィンはルナから離れてしまったけれど……

そうしてやってきたのは、東地区の美術館。

その館内に足を踏み入れたルナは、ため息を漏も

らした。

「すごい……」

地方まで来る時間がなくて、今まで見られなかったエキシビション。城下町の国立美術館ほどの

派手さはないが、どの作品も鮮あ

やかで眩ま

しい。

「東地区は、フラメ王国の中でも前衛的だな。柔軟な考え方の人間が特に多いから、先入観に縛し

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35 恋の嵐に乱されて 34

れないところがいい。開放的なのは、海に面した土地柄も影響しているのかもな」

ケヴィンの説明の通り、この美術館に飾られた作品は、フラメ王国式の特徴を持ちながらも、そ

れに凝こ

り固まらないものばかりだ。

前衛的というだけあって、ルナにも意図がよくわからない絵もあった。

炎を好むフラメ人は、水を苦手としていることも有名だ。だが、展示されている絵の中には、水

を連想させる青系の色と赤とのコントラストが使われているものもある。想像上の海の生き物を

彫ちょうこく

刻した作品もあり、完成度は高い。

「綺麗な海だね……私、海を見たことがないの。ヴィエント王国は内陸に位置するから、海に行く

機会なんてなくて」

「そうなのか?

 今度、連れて行ってやってもいい。次の……デートとか」

「本当?

 嬉しい!」

ルナは留学中のため、学校が中心の生活だ。移動手段も限られているし、遠出できる時間もない。

だが、移動魔法を使用できるケヴィンが連れて行ってくれるなら、一瞬で海に出られるだろう。

「ケヴィンの魔法……ふわってなるのがちょっと怖かったけど、温かくて好き」

ルナがケヴィンを振り返って笑顔を向けると、彼はパッと顔を赤くして「そうか」と言う。その

反応に、自分も恥ずかしくなって、ルナはドレスのスカートを握って俯

うつむ

いた。

好きだなんて、軽々しく口に出してしまった自分が子供っぽく思える。ケヴィンとルナは、恋人

のふりをしているだけなのに……

服ばかりではなく、美術館ではしゃぐ自分も、デートには相ふ

さわ応

しくないかもしれない。

でも、ルナはケヴィンの気遣いが嬉しかったのだ。捜査に必要なだけなら、休みの日まで会う必

要はなかっただろう。なのに、ルナの芸術家としての成長を手助けしようと、国の美術館を回って

くれる。「仕事のための恋人ごっこ」だけで済ませようとしないのは、彼の誠実さを表していると

思った。

ケヴィンはルナのためにそうしてくれているのだから、自分も貴重な機会を無駄にはできない。

「ご、ごめんなさい。はしゃいじゃって……せっかくケヴィンが連れてきてくれたんだから、しっ

かり勉強しなくちゃだよね」

「いや……お前が嬉しいなら、いい」

そう言って、ケヴィンはルナの手を取った。彼は彼女が握り締めていた手をそっと開き、きゅっ

と握る。

それから、口を開きかけては閉じることを数回繰り返した後、そっぽを向きながら「はぐれない

ようにな」と硬い声で言った。

「……うん」

ぎこちない彼の言葉や仕草。初めてのデートでおたおたする自分と同じく戸惑っている様子のケ

ヴィンになぜか安心した。

「ルナ。あっちの資料館も見るか?」

「うん!」

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37 恋の嵐に乱されて 36

ルナが手を握り返すと、ケヴィンは息を呑の

み、それからはにかんで笑った。

数時間ほど東地区の美術館を見て回った後。ケヴィンとルナは北地区、西地区、南地区……と、

すべての美術館を巡め

った。

彼はとても美術に詳く

しくて、ルナにいろいろと説明をしてくれた。そのおかげで、かなり詳細に

フラメ王国の美術を知ることができたと思う。

北地区は北方の先住民との戦

いくさ

が多かったせいか、風ふ

刺し

画が

や平和を祈る絵と彫

ちょうこく刻

が多く並べられて

いた。西地区は保守的な地区の特徴がよく表れていたと思うし、南地区は新鋭の芸術家の作品が多い。

それから、ケヴィンは地方の美術館をすべて回った後、城下町へ戻り、国立美術館にも連れてき

てくれた。以前はルナも足あ

繁しげ

く通っていた場所だが、絵が描けなくなり始めてから訪れる回数は

めっきり減った。休みの日には、遅れている課題をやらなければいけなかったからだ。

展示は殆

ほとん

ど変わっていないけれど、前回、一人で来たときより何倍も楽しめた上に、勉強になっ

た。違う視点で絵を見ることができたためだろう。

しかし、最後のエキシビションルームだけは、前回と違う。エントランスの右側にあるその部屋

は、コンクールの入賞作品が飾られる部屋だ。盗まれた最優秀賞の作品がないだけで、とても侘わ

い雰囲気を漂

ただよ

わせている。

ルナは真っ白な壁を見つめているうちに、自分の心にぽっかりと穴が開いてしまったような気分

になった。

「犯人は……まだ、作品を持っているのかな……?」

ふと呟くと、ケヴィンはルナを見て神妙な顔になる。

「そうだといいけど……そればかりは、俺にもわからない」

ケヴィンは壁に視線を戻し、言葉を続けた。

「でも、できるだけ作品は……芸術家の心は取り戻したいし、守りたいと思っている」

繋つな

いだ手に力が籠こ

もったのを感じ、ルナはケヴィンを見上げる。すると、彼もルナをじっと見つ

めていた。

「ケヴィンは優しいんだね。私たち芸術家の気持ちを大事にしてくれるところが……素敵……」

なんだかくすぐったい。それに、ちょっとドキドキする。

軍人はもっと怖い人かと思っていた。でも、ケヴィンの気持ちを聞いて、安心感が広がる。美術

に詳しいところも親近感を覚えるし、仕事熱心な様子にも感心した。

ケヴィンは、ルナの言葉にサッと頬を染めたかと思うと、前髪を弄い

って視線を泳がせた。

「優しいかはわからないが、兄上にはよく甘いって言われる。軍人は厳しくないとダメだって」

「そうなの?

 でも、私はケヴィンみたいな優しい人が町を守ってくれる方が、安心するな」

「そ、そうか……」

ルナがはにかんで自分の気持ちを伝えたところ、ケヴィンはコホンと咳せ

払ばら

いをする。

「もう満足か?

 遅くなるから、そろそろ帰ろう」

それから、彼はふいっと顔を背そ

けてルナの手を引く。ルナは彼の可愛らしい反応にふわふわした

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39 恋の嵐に乱されて 38

心地になって、幸せな気分で「うん」と頷くのだった。

「今日は、ありがとう」

美術館を出て、城下町の通りを宿舎へと歩きながら、ルナはケヴィンにお礼を言う。

「楽しかったか……?」

「うん」

立ち止まり、少し不安そうに聞くケヴィンにルナが笑って頷くと、彼はホッと息を吐いた。

「そうか」

ルナの笑顔にケヴィンは頬を緩ゆ

め、彼女の頭を撫な

でた。大きな手に撫でられるとくすぐったい。

男性にこんな風にされることなんて、今までなかったから……

それから彼の手は、ルナの頬に下りて、ゆっくり指の背で頬骨の辺りをなぞる。

「ふふ……ケヴィン、くすぐったい」

ルナが首を竦す

めてケヴィンを見上げると、とても真剣な彼の表情が視界に入った。

「ケヴィン……?」

ルナが問うように彼の名を呼べば、ケヴィンは手を彼女の顎あ

へ滑す

らせ、持ち上げる。だんだんと

近づいてくるケヴィンの顔――

ルナは慌てて足を引いた。

「え、ま、待って!

 な、何……?」

「何って……この状況で聞くなよ……わかるだろ?」

至近距離でケヴィンが低い声を出す。色香を含んだそれに、ルナの身体がふるっと震えた。

「わ、わかるから……待ってって……」

キスをするのだということくらい、経験がなくとも雰囲気でわかる。だからこそ、ルナは後ず

さっているのだ。

「なんで?

 俺達、恋人だろ?」

じりじりと二人の距離が詰まっていく。今は幸いにも人通りはないが、人が見たら、この妙な動

きを訝

いぶか

しく思うに違いない。

「や、そ、そうだけど……でも、それは……っ!

 あの、それに、初めてだから、こ、心の準備

が……」

慌てすぎて、ルナは自分でも何を言っているのか、半分くらいしか理解できなかった。恋人は恋

人でも、偽りの関係なのだし、キスは必要ないと言えばいいだけだ。なのに、混乱したルナの唇か

ら漏も

れたのは、ファーストキスだからという陳ち

腐ぷ

な言い訳だった。

しかし、初めてだと言った瞬間、ケヴィンの瞳の奥が揺らいで炎が見えた――ルナは思わず惹ひ

込まれそうになる。

それを知ってか知らずか、ケヴィンはルナの腰を力強く引き寄せた。

「初めてなら尚な

更さら

……俺がもらう」

「ケヴィ――っ!」

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41 恋の嵐に乱されて 40

ふわりと……強引な腕とは違って、柔らかく重なった唇。ルナは目を見開いてそれを受け入れる。

少し乾いた唇。けれど、長いキスの間に、じんわりと温かさが伝わってきた。ルナは息を止めた

まま動けずにいる。

やがて、ぬるっとした感触が唇を這は

い、ルナはびっくりして声を上げてしまった。その隙す

に、今

度は強く押し付けられた唇に自分のそれを塞ふ

がれる。そして、口内に入ってくる温かなもの――

「んん!

 ん……っ」

それをケヴィンの舌だとルナが理解する頃には、彼は彼女の後頭部を抱え込み、キスを深めて

いた。

温かくてざらついた舌が、ルナの舌を探り、擦こ

り合せる。彼女は驚きに舌を引っ込めたが、歯列

や上う

顎あご

を舐な

められて、身体を震わせた。

ルナは息の仕方がわからず、ただ苦しさから解放されたいという本能的な欲求でもっと唇を開く。

だが、空気を取り込めたのは僅わ

かで、すぐにケヴィンの舌の動きに翻ほ

弄ろう

されて頭が痺し

れた。

「ふぅ……ん」

鼻にかかった声と、荒くなる息遣い。ギュッと目を瞑つ

ると、ケヴィンの吐息と舌を更に近くで感

じる。

やがて、ちゅっと音を立ててケヴィンの唇が離れた。彼のシャツを握り、ルナは思わずぼんやり

してしまう。そんな彼女の頬を、ケヴィンが唇でそっとなぞった。再びルナの身体が震える。

「あ……ケヴィン、やだ……」

自分の反応が恥ずかしくて顔を背そ

けようとすると、頬に手が添えられて顔の向きを戻された。

「可愛い……」

反対側の頬にも口付けられる。それと同時に掠か

れた声で落とされた言葉は、ルナの心臓を大きく

跳ねさせた。

「もう一回したい。今度は、舌出せ」

「え、んぅ……ふっ」

ルナの返事を待たず、ケヴィンは再び唇を重ねる。しっとりと濡ぬ

れた唇が、官能的な音を立てた。

ルナの舌を追って動く、生き物のようなケヴィンのそれ。ルナはどうしていいかわからず、彼に

されるがままだ。

彼の舌がルナの口内に触れる度た

に、ぞくぞくと知らない感覚が背を伝う。嫌悪感とも恐怖とも違

う、未知の痺れ。

くちゅりと立つ水音が、いやらしいものだということくらいしか、今の彼女には判断できなく

て……

――どうしてだろう。

確かに二人は恋人という関係だけれど、それは偽りのものだ。だから、ルナは彼のこの行為を拒

絶しなければいけないのに、抵抗できない。

「ケヴィ……苦し――は、あっ」

とにかく苦しくて、ルナはケヴィンの胸を弱々しく叩く。ケヴィンも呼吸を荒くしているのに、

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ルナを離してくれない。

それどころか、ルナの腰を抱えていたはずの手が、いつのまにか彼女の身体をなぞり始めている。

「ンっ……んんっ!」

ルナは彼の腕を掴んで止めようとするが、全く効果がない。

キスは激しさを増し、呑の

み込めない唾だ

液えき

が唇の端から零こ

れ落ちる。はしたない……そう思うのに、

与えられる淫み

らな感覚と熱に、浮かされてしまう自分がいる。

ケヴィンの手は、ルナの腰の辺りをゆらゆらと行き来していたが、だんだんと上がってきて、二

人の身体の間に滑す

り込む。

そして、ルナの胸の膨ふ

らみを撫な

でたと思うと、彼の指先に力が入った。ケヴィンの手がはっきり

とした意思を持って、彼女の胸を揉も

む。

「――やっ!」

ルナはありったけの力を込めてケヴィンの身体を押した。彼は強い抵抗に驚いたのか、二人の身

体が離れる。

ルナは反動でよろめいたものの、なんとか足を踏ん張って身体を支えた。

頬が熱い。きっと、真っ赤になっている。

それなのに、唇は今まで重なっていた熱がなくなったことで、冷たさすら覚える。そのことがど

うしようもなく羞し

ゅうち恥

を煽あ

り、ルナは手の甲で唇を拭ぬ

った。

「ご、ごめんなさい!」

なぜ謝ったのかと聞かれたら、自分でもわからない。ルナは心を羞恥心で掻か

き乱され、ケヴィン

の顔をまともに見ることができなかった。

ルナは考える暇もなく身体を翻

ひるがえし

、宿舎へ向かって走り出す。

「お、おい!

 ルナ!」

ケヴィンの声が背に届いたけれど、ルナに振り返る余裕などない。

彼が追いかけてきたら、きっとすぐに捕まるだろうが、幸い足音はついてこない。

心臓がおかしいほどに高鳴っている。それが、たった今経験したキスのせいだと思うと、消えて

しまいたいくらい恥ずかしい。ルナは、鼓動が乱れているのは走っているためだと自分に言い聞か

せながら宿舎へ駆け込んだ。

  ***

ペタリと赤色をキャンバスに乗せる。すると、真っ赤なそれは、だんだんと乾いていく。

昨日の、ケヴィンの乾いていた唇は、この色のように赤くて熱かった。ルナの唇と重なって潤

うるお

を増し、甘美な音を立てるそれを濡ぬ

らしていたのは、二人の――

(わああああああ!

 違う!)

ブンブンと勢い良く首を横に振り、ルナはキャンバスの赤の上から青を塗りたくった。

ケヴィンとのデートの翌日、つまり、あの刺激的すぎたファーストキスを経験して一日が経った。

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45 恋の嵐に乱されて 44

昨晩からずっと、恥ずかしい場面が何度も脳内で再生されて寝不足な上に、授業に集中できない。

「ルナ、大丈夫?」

隣に座っていたイルマが、心配そうに話しかけてくる。

「だ、大丈夫……ちょっと、考え事。それより、今日は何かあるのかな?

 先生たち忙しそうね」

いつもなら、この時間は美術史の講義だ。しかし、教師が急用で出られないということで、それ

ぞれ課題作品を描く時間に当てていいことになった。

絵を描く時間は、いつもなら皆集中しているため、話し声が聞こえることは滅多にない。それが、

今日は隣の生徒とこそこそ話す者が多く見受けられる。

しかも、教師が来ていないのは、ルナたちの教室だけではないようだ。先ほどから廊下を行き来

する生徒を何度か見ている。

「ルナ、知らないの?

 休みの間に、学校に保管してあった卒業生の作品がまたなくなったらしい

わ。朝から大騒ぎよ」

「そうなの?

 それって、かなり深刻なんじゃ……」

「先生は皆、対応と対策にてんてこ舞い。うちで保管している作品は、過去のコンクールの最優秀

作品だし、描いた卒業生は、今じゃ有名な画家ばっかりだから」

イルマはそこでため息をついて、自分のキャンバスを見た。

「コンクールに作品を出す生徒は皆、不安になっているわ。美術館で起こった盗難事件で被害に

遭あ

ったのも、うちの生徒のものだったでしょう?」

「そうだよね……」

コンクールで賞を取ったら作品が盗まれてしまうなど、縁え

起ぎ

が悪いとしか言いようがない。皆、

自分の渾こ

身しん

の一作を提出するのだから、彼らの心配も当然のことだ。

コンクールに出す作品のイメージすら出来ていないルナには、遠い話のように思えたけれど。

「でも、この学校の生徒の作品ばかり狙われるって……まさか犯人もこの学校の生徒なんてこ

と……」

「……そう考えるのが自然でしょうね。だから軍の人たちも出入りをしているのでしょうし」

ルナは「違う」という答えを期待して呟いたのだけれど、イルマは淡々とそれを肯こ

定てい

した。

「これだけ先生が長く席を外すってことは、今日も軍の人たちが来ているはずよ」

不ふ

謹きん

慎しん

だとはわかっているが、ルナは違う意味でドキッとしてしまう。

ケヴィンは美術品盗難事件の担当だったはずだ。彼が学校にいるとしたら、鉢合わせる可能性が

高くなる。しかし、昨日の今日で顔を合わせる自信がない。

「ルナの彼も来てるの?」

「え……どうかな」

イルマの質問に曖あ

昧まい

に笑い返し、ルナはキャンバスに視線を戻す。ぐちゃぐちゃになってしまっ

た絵は、描き直しだ。

「ルナも、次のコンクールに出すのでしょう?

 早く解決するといいわね」

「うん……」

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47 恋の嵐に乱されて 46

今の状態では、最優秀賞どころか、コンクールに間に合うかすらわからない。イルマの気遣いが

チクリと心に刺さったけれど、ルナはもう一度首を横に振り、邪念を払った。

結局、その日は教師が不在のまま授業が終わってしまった。授業がなかったため、一日を自分の

絵に費つ

やせたはずなのに、ルナの手元にあるのは、描き直しになった絵と真っ白なキャンバスだけ。

教室に一人残って片付けをしながら、ルナはケヴィンを恨う

めしく思っていた。

恋をすると芸術家は変わると言ったのは彼だ。ルナにとって、ケヴィンとの関係のメリットは、

絵が描けるようになること。しかし、あんなに恥ずかしいキスまでしたのに、芸術の神様は降りて

こないではないか。

「嘘つき!」

ガン、と音を立ててカバンを机に置く。

流されるまま彼の提案に乗ったのはルナだ。美術館巡め

りという絶好の機会に釣られて、デートに

うきうきしていたのも事実だし、キスだってちゃんと拒こ

めなかった。

恋をすると変わるなんて安易だと思いつつも、全く期待していなかったのかと言うとそうでも

ない。その上、あれだけ濃厚なファーストキスだったのだ。それなりの見返りがあってもいいは

ず……!

そんなことを考えるルナは鼻息荒く、筆やエプロンをカバンにしまった。いつもなら丁寧に畳た

エプロンも、くしゃくしゃと丸めて詰め込む。

本当にケヴィンのせいだと思っているわけではないが、何かに八つ当たりしないとやっていられ

ない。

「誰が嘘つきなんだ?」

「きゃっ!」

突然、教室に入ってきたのは、ルナが嘘つきと責めた張本人だ。

「な……ケヴィン?

 急に入ってきたらびっくりするじゃない」

「いや、声はかけたんだが……叫んでいたの、廊下まで聞こえてたぞ」

ケヴィンは怪け

訝げん

そうに眉根を寄せ、ルナのもとへ歩み寄ってきた。ルナは居心地が悪くて、カバ

ンの取っ手を握って後ずさる。

「なんで逃げるんだよ」

「に、逃げてるわけじゃ……あの、だって……」

またキスをされるかもしれない、とは言えず、口籠ご

ってしまう。ようやく薄れつつあった記憶が

戻ってきて、頬が熱くなっていく。

いや、そもそも「また」なんて考えるのは自意識過剰かもしれない。

ルナがもごもご言いながら目線を落としたところ、ケヴィンがぽつりと呟いた。

「嫌……だったのか?」

「え?」

「だから……キス。嫌だったのか?

 昨日もお前、逃げ帰ったし」

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ルナが視線を上げると、ケヴィンがばつが悪そうに顔を背そ

けて髪を弄い

っていた。

「い、嫌っていうか……」

嫌だったかと言われると、そうではないのだ。自分でもわからない感覚や気持ちに戸惑ってし

まっているだけで。ただ、わかっているのは――

「恥ずかしかったの……」

そう口にすれば、更に恥ずかしさが増した。ルナは真っ赤に染まっているだろう顔を隠すため、

カバンを顔の前まで持ち上げる。

「そう……か」

ケヴィンの表情は見えないが、彼が息を吐き出したのは聞こえた。

「今日はしないから……来い。宿舎まで送ってやる」

「え、でも……仕事は?」

恐る恐るカバンから顔を出すルナに、ケヴィンは、はぁっとため息を吐いて手を差し出す。

「仕事は終わった。ほら、行くぞ」

「うん……」

ルナは頷き、差し出された手に自分のそれを重ねた。ケヴィンが驚いた顔をして、彼女をじっと

見つめる。

「え、何?」

「お前……本当に、わからないやつだな……」

ケヴィンはくしゃりと前髪を握ってから、長く息を吐き出した。それからルナのカバンを引った

くるようにして取り上げ、さっさと歩き始めてしまう。その際、彼はなんとも言えない顔で彼女を

振り返った。

ルナには、ケヴィンの行動の理由はわからなかったが、彼に手を引かれて慌てて足を動かした。

「ケヴィン。私、何か変なことした?」

「……何も」

やけに恨う

めしそうな視線を寄越した彼に聞く。だが、ケヴィンは呆あ

れた顔で首を横に振った。

「それより、絵の方はどうなんだ?

 さっきの様子じゃ、描けてないみたいだけど」

「うん……コンクールの作品のテーマで、まだ迷ってて」

あれからも考え続けていたが、ルナが描きたいのは、やっぱりフラメ王国の炎なのだ。一年間、

異国の地で過ごして感じたことを残したい。しかし、炎と一口に言っても、燃え盛る大きな炎や蝋ろ

燭そく

の灯と

もしび火

のように小さな炎、赤い炎、青い炎……色々とある。ルナには具体的にどんな炎を描きた

いのか、イメージがない。だから、色も定まらない。

「あんまり考えすぎるなよ」

「それは、わかってるけど……コンクールはもうすぐだし、全然描けないし、どうしたらいいのか

わからないの」

今までこんなことはなかった。絵を描けば周りから褒ほ

められて、両親も喜んでくれて……ルナは

満たされていた。

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ルナが弱音を吐くと、ケヴィンが彼女の手をぎゅっと強く握る。

「プレッシャーを感じてるのか」

プレッシャー――そうかもしれない。きっと、ルナが感じている今の気持ちは、快

こころよく

彼女を外国

へ送り出してくれた両親への後ろめたさだ。

こんな風に自信を失な

くして、絵を描けなくなってしまった。彼らの期待に応こ

えられないまま帰る

ことになるのが情けない。

「自分の理想に追いつけない。でも、焦あ

れば焦るほど、更にどうしようもなくなる」

ケヴィンはそう言うと、苦笑いをした。

「そんなこと、お前だってわかってるよな。悪い、説教みたいなこと言った」

「ケヴィンも、そういう風になったことがあるの?」

自分の気持ちを代弁した彼に、ルナが問う。

「俺は――」

ケヴィンはそこで言葉を切った。彼はしばらく思案するように黙ったままで、二人の歩く足音だ

けが響く。

ルナは、軽々しく聞いてしまったことを後悔した。誰にだって言いたくないことはある。ルナは、

ケヴィンが自分の気持ちをわかってくれることを嬉しいと思ったけれど、彼もそうとは限らない。

「い、言いたくなかったら――」

しかし、ケヴィンは沈黙を破った。

「盗難事件を担当してるって言っただろ?」

「え……あ、う、うん」

「それ、俺の昇格試験を兼ねた任務なんだ」

驚きつつ、じんわりこみ上げてきた温かい気持ち――ケヴィンが彼自身について話そうとしてく

れることが嬉しい。

そういえば、彼は自己紹介をしてくれたときに「少尉候補」だと言っていた。

「自信がないわけじゃない。だけど、やっぱりプレッシャーはあるし、お前が感じてる気持ちに近

いと思う。だから……お互い、その……」

ケヴィンは黒髪をくしゃりと握って、はぁっとため息をつく。最後の言葉はよく聞こえなかった

が、ルナには十分彼の励は

ましが響いた。

――お互いに頑張ろう。

彼はきっと、そう言いたいのだ。

「うん……ありがとう」

ルナがお礼を言うと、ケヴィンは咳せ

払ばら

いをした。それがおかしくて、彼女は彼に聞こえないよう

に小さく笑う。

少しずつだけれど、彼の性格がわかってきた気がする。彼はルナを気遣う優しさを持った人だ。

照れ隠しに髪を弄い

ったり、咳払いをしたりする部分は、ちょっと可愛げがある。でも、キスをした

ときは……大人な男の人だと感じた。

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濃厚なキスを再び思い出して、ルナの頬が染まる。

昨日は、とてもドキドキした……でも、ケヴィンはどうだったのだろう。彼は、迷いなくルナの

唇に触れてきたように思えた。彼は慣れていて、なんとも思わなかったかもしれない。

彼の整った容姿に、軍人という立場は、女性の「守られたい」という気持ちを刺激しそうだ。そ

れに、ケヴィンみたいな二十代前半くらいの青年ならば、恋愛経験があってもおかしくはない。

そう考えると、ケヴィンに励は

まされて嬉しい気持ちが、なぜか急に萎し

んでしまった。

「ほら、着いたぞ」

ケヴィンは宿舎のエントランスの前で、ルナに荷物を渡す。彼女はそれを受け取って俯

うつむ

いた。

「ねぇ……ケヴィンは、恋人……いるの?」

「は?

 恋人はお前だろ?」

眉根を寄せて、怪け

訝げん

な表情をするケヴィン。

「そ、そうじゃなくて……その、私、以外に……」

「お前以外?

 何だそれ……急にどうした?」

ケヴィンはますます顔を顰し

める。

そんな彼に、ルナはもごもごと言葉を続けた。

「や……あ、あの、キス……慣れてたから。初めてじゃなかったのかなって。だから、他に恋

人……」

「……そういうことを聞くなよ。困るだろ」

ケヴィンはルナに視線を戻し、前髪をかき上げてはぁっとため息をついた。

「っ!

 ご、ごめんなさい」

呆あき

れた調子の彼の声に、ルナは慌てて謝った。答えなどわかっていたはずなのに、バカな質問を

してしまったと後悔する。

「ったく、そんな顔するなって……」

ケヴィンはそう言うと、ルナを抱き寄せる。

「俺だってもう二十二だし……キスしたことはある。でも……今の恋人はお前だ。他とか、過去の

こととか、言うなよ」

「……うん。ごめんなさい」

ルナはもう一度謝って、そっとケヴィンから離れた。彼もすんなり彼女を離してくれる。

今の恋人は――その言葉が痛かった。それに、他のことは聞くなと言われたことに寂さ

しさを感じ

る。ケヴィンがほんのひと欠か

けら片

でも自分について話してくれて、嬉しく思ったばかりだ。だから余

計に、寂しさの色がルナの心を濃く染めた。

ルナはケヴィンの仕事上の恋人で、今だけの関係だと言われた気がしたのだ。それは、ルナもわ

かっていたことなのに……

「変なこと聞いてごめんなさい。送ってくれてありがとう」

ルナは精一杯の笑顔をケヴィンに向けた。すると、ケヴィンは気まずそうに視線を泳がせる。

和なご

んだ空気を台無しにした自分を心の中で叱し

咤た

して、ルナは彼に背を向けた。

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「ルナ――」

ケヴィンの声に、ルナは振り向いて手を振る。

「またね。昇格試験、ケヴィンならきっとうまく行くよ!」

私も協力するから――その言葉は、なぜかルナの喉の

の奥に詰まって出てこなかった。自ら恋人関

係を〝仮か

初そ

めのもの〟だと言いたくない。

炎を描きたいと思っているルナ。今、彼女の心に浮かぶ炎は、木枯らしに吹かれて消えてしまい

そうなほど、小さな、小さな灯と

もしび火

だった。

  第二章

――もやもやする。

ルナは授業後、宿舎の庭に出て、自分の心を占領する渦う

巻ま

きを一心にキャンバスに写していた。

自分はどうして、あんなことを聞いてしまったのだろう。

ケヴィンに「恋人がいるのか」と聞いてから、一週間は経つ。送り迎えをしてくれるため、ケヴ

ィンとは毎日会うけれど……二人の間にはなんとなくぎこちない雰囲気が漂

ただよ

っている。

恋人とはいえ、便宜上の関係でしかないのに、プライベートを探るようなことをしたのだから、

当然なのかもしれない。

「うぅ……」

キャンバスが真っ黒になってしまうほど渦巻きを描いて、それでも晴れない心。ルナは唸う

り声を

上げてパレットを投げ出し、トサッと芝し

生ふ

に寝転んだ。

緑の香りを胸いっぱいに吸い込んで、それを吐き出しながら小さく呪文を唱える。

その途端、そよそよと穏やかに木々を揺らし、芝生を波立たせる風は、ルナの魔法だ。自分の風

に吹かれると落ち着く。

そうしてしばらく日光浴をしてから身体を起こし、ルナは片付けを始めた。

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