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mhyodo/fundpol-2019(handout).docx · Web view「世襲」議員は政治家という職業を世襲しておらず、国民が選んでいるから、誤解を招く表現である。世襲しているものがあるとすれば、それは後援会などの選挙区の管理・運営・維持システムであり、選挙戦を戦うシステムである。

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政治学基礎/政治学Ⅲ  (2019年度第1学期第2タァム、兵藤)  配布用プリント

オォリァンティシャン(オリエンテーション)

○ 本講義は、政治現象の考察の基本となる概念や考え方を提供することを目的とする。政治現象のよくある定義の1つは、公的な意思形成に関わる行為とするものであり、公的な意思形成の前提となる「決定」は、政治現象の重要な要素・側面と見なされている。政治社会が一定程度安定して運営されるためには、決定に際して何らかの望ましい理念や価値が提起され、その理念や価値を実現する制度が整備される。決定は国内外の多くの人の生活や人生に大きく影響することがあり、その際責任が問われる。すなわち、本講義は、最も政治現象らしいとみなされる「決定」をてがかりに、政治のイミジ(イメージ)を豊かにしてもらうことを目的としている。最初に決定の概要を述べ、次に正義と題して決定の理由となる思想や哲学を取り上げ、責任という、非常に扱いづらいが、私たちが一生関わり続け、悩まされ続ける問題領域を扱う。なお、本講義は、以前開講していた特殊講義(政治と決定)を再構成している(といっても内容はもはや相当違っている)ので、同講義の単位を取得した学生は、この講義の単位取得を認めない。事後に判明しても取り消す。注意すること。他の政治学系科目の講義と同様、政治現象について柔軟な見方と緻密な論証ができれば十分であり、試験問題及び採点基準の趣旨もそこにある。過去の出題で関係する問題はプリントに記載しておいた(HPにも掲載してある。http://www.jura.niigata-u.ac.jp/~mhyodo/。後日学情システムを通じて配布することも検討している)。なお、「政治制度論」とあるものの一部は、新旧カリキュラム政治学/政治学Ⅳを指す。

◯ この講義プリント(これはレジュメではない)は、前回担当時から構成を大幅に変えたこともあって完成度が高くない(誤記・誤植など)点を了承されたし。プリントは適宜改頁してある。プリントの量が多いという批判があったので、以前より数万字減らし、厚くない教科書1冊分程度になっている。参考文献はプリントに記載してあるが、講義中にも適宜補う。センスに自信のある人はプリントを読む必要もないが、講義ですべてを扱いきれない場合もおそらく多々あり、また事前にプリントを読んでおくと、少なくともわからない点がはっきりするだろう。このプリントをその都度紙媒体で配布しないのは、時間の節約や検索の便利に加え、予習したいという希望や各自の好みのレイアウト(レイアウト)に合わせてノウト(ノート)を作りたいという要望に応えるためである。プリントを印刷してノゥト代わりにする場合、ファィルの左側が表に来るように並べればいい。その際、プリントの印刷は逆順にすると楽(ワード2010だと、「ファイル」タブ→「オプション」→「詳細印刷」の「印刷」オプションにある「ページの印刷順序を逆にする」をオンにする)。

〇 質問は原則メィル(メール)( [email protected] )で。ただ、大学の喫煙環境の変化により、毎日朝から夜まで研究室にいる生活を止め、大学には原則火・木しか来ないため、自宅へのメィルの転送設定を忘れた場合など、返事が遅れる可能性がある点を了解してほしい。オフィスアワ(アワー)は木曜日12:30-14:00。他の授業のオフィスアワを兼ねているので、アポイントメント(アポイント)を取って欲しい(「先客」がいる可能性がある)。試験については、第11講・第12講(7/23)に形式、内容等に関する世論調査を実施する予定である。

〇 講義中の私語は厳禁。携帯電話などの使用も同様(場合により没収し、「処分」する。ところで威力業務妨害で告訴する可能性はあるのだろうか、単なるマナ(マナー)違反で処理されるのだろうか、わからないが、前者なら全国の教員は喜ぶだろう)。出席はとらないので、おしゃべり好きの人や、携帯・スマホ中毒という「心の病」のある人は、その種の病の伝染性が高いこともあり、出席しないでほしい。出席しなくとも、通常の理解力があり、プリントと過去問を勉強すれば、単位は取れる。大学は大人の世界であって、「ガキ」のいる場所ではない。

○ 講義予定(タァム制になって2コマ続きで講義することから、今回はなるべく連続する時間は同じ内容をするように構成を変えた。なお、第3講は分量が多いので、第4講の時間を当てる可能性が高い。)

第1講(6/18)  1 決定①

第2講(6/18)  1 決定②

第3講(6/25)  2 正義 公共性

第4講(6/25)  2 正義 自由と自由主義①

第5講(7/02)  2 正義 自由と自由主義②

第6講(7/02)  2 正義 平等

第7講(7/09)  2 正義 ディモクラシ①

第8講(7/09)  2 正義 ディモクラシ②第9講(7/16)  2 正義 功利主義、保守主義、社会(民主)主義、ナショナリズム(時間があれば、全体主義)

第10講(7/16) 2 正義 功利主義、保守主義、社会(民主)主義、ナショナリズム(時間があれば、全体主義)

第11講(7/23) 3 責任①

第12講(7/23) 3 責任②

第13講(7/30) 3 責任③

第14講(7/30) 3 責任④

第15講(8/06) 4 まとめ(参考資料、政治学の地図)

試験(8/06)

○ すでにお気づきの通り、このプリントでの外来語(特に英語)のカタカナ表記については、一般の表記法と異なるものが相当ある。例えば、ノートではなくノゥトである(初出ではノゥト(ノート)のように表記)。二重母音を長母音と間違って覚えると、二度手間だからである。最近、デーサービスが「デイ」サービスと表記変更されたことは嬉しい傾向である(「ディサァヴィス」になるまであと何年?)。こうした表記方法は、昔も今も愛好家が結構いる。混乱を避けるため、固有名詞・引用文・参考文献はそのままである。この表記が優れているかは判断が付かない。試行としてご海容の程を。ただ、これだけ英語が日本語に入っている現状を考えると、21世紀になったことだし、久しぶりにカタカナ表記を見直してもいいのではと思う。外来語のカタカナ表記は所詮便宜であって不易ではない。もちろん、皆さんは従わなくて良い。

第1講~第2講(6/18)  1 決定

1.1 政治家などが決定を下す場合、何を基準としているのか、何故他でもないその決定が下されたのか、この解明は本当に難しい。私たちが、重大な問題(職業や結婚相手)の選択に際し、考慮すべき要素や事柄が多いことから、政治家などが直面する決断の難しさを多少は推測出来るだろうが、政治家の決定は、一般人の決定以上に複雑である。話をわかりやすくして、政策の選択に限っても複雑である。多くの人の生活や人生に直接関わるからである。政治家には責任感が求められるが、責任を真面目に感じればそれだけ決定は難しくなる。

ともあれ、決定の難しさを「追体験」してもらうために、決断を要する決定の事例を挙げることとする。この問題例は、学問分野としては、倫理学に属するのだろうが、特に拘る必要もない[footnoteRef:1]。参考文献に挙げた類いの著作を読み進めていく中で、自分の偏見(バィァス)を知ることが重要である。自分の価値観と異なった価値観が正当でありうること、価値観の複数性(多様性)を承認することにつながるからである。また、自分の視点を持つことで、周囲の圧力に屈して、ブゥム(ブーム)に乗っかることを防げる利点は存外大きい。自分が正しいことはある。しかし、自分だけが正しいことは滅多にない。大切なのは、who is rightではなく、what is rightであることは、学者でさえ、あるいは社会的名声に拘る学者なら、忘れる。さらにいえば、誰ではなく、何を決定するかが重要なはずであるが、実際には「誰が」決定したかにこだわる。実より名をとろうとする人は多い。これも問題解決の障害原因だが、そもそも問題解決というのはそういうものでもある。ディモクラシ(デモクラシー)論は、for the peopleよりもby the peopleに重点を置くのも同じである。統治論は統治者の正統性論となる。自分の無意識を意識することこそ、大人の証明である。 [1: このタィプ(タイプ)の「頭の体操」には、Cf.高橋昌一郎『哲学ディベート』(NHKブックス)、M.サンデル『これから「正義」の話をしよう』鬼澤忍訳(早川書房)。後者はNHKの番組でもよく知られているようである。小林正弥『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)が(繰り返しが多い)わかりやすいだろう。最近、正義に関する書籍の出版が多くなっている。橋本努『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社選書メチエ)、大澤真幸『「正義」を考える』(NHK出版新書)、岡本裕一朗『思考実験』(ちくま新書)はお薦めできる。最近出た岡本裕一朗『人工知能に哲学を教えたら』(SB新書)も読みやすくていい。]

1.1.1 資源が稀少なら、決定はしばしば残酷である。例えば、貴方が次の状況で、決断を下す立場に置かれているとして、次の問題(2007年度法学部後期入試小論文問題)を考えてみよ。

ある難病に罹り、瀕死状態に陥っている患者が四人いる(以下、A、B、C、Dとする)。しかし、特効薬は一人分しかない。一人の患者に直ちに投薬すればその患者は助かるが、二人以上に分けて投薬すれば、効果は全くない。また、この四人の患者については、以下のことだけがわかっている。

日本人

男性

40歳

連続婦女暴行事件で有罪判決(無期懲役)が確定し、現在服役中である。

日本人

女性

80歳

永年の社会奉仕活動で緑綬褒章を受章した。

日本人

男性

20歳

大学生である。

外国人

女性

10歳

小学生である。両親とともに観光旅行で訪日中に発病した。

① 投薬する患者を選ぶ方法や基準として考えられるものを複数挙げなさい。

② それらを比較した上で、あなたが望ましいと考える方法や基準をその理由とともに記しなさい。

1.1.2 貴方が決定を下さなければならないならば、どのような決定を下すのか。また、その決定の理由は何か。この場合、助ける人を決めなければならない。それは他の人を見捨てることでもある。貴方は、貴方の決定によって、不利益を受ける者からの、あるいは世間からの「誹謗中傷」に耐えることができるだろうか。胸を張って弁明できるだろうか。それとも誰も助けないという選択をするだろうか。誰かを助けるとしても、どのような基準で選ぶのか。可哀想そうでは説明にも言い訳にもならないが、共感を得るかも知れない。総じて、貴方が下す決定が私情に左右されることは否定しがたいが、決定の理由は、公的に、すなわち、集団や社会が了解する基準に適うもの、尤もらしいものでなければならないはずである。

1.1.3 選択は価値観に左右されるから唯一無二の正解など存在しない。

① 人権あるいは個人の尊厳という観点から考えれば、AからDの4名は「命において平等」であるから、特定の1人を優先できなくなり、結果として誰も選べない。今時のリベラリストならこのように発想するのだろう。

② しかし、誰も助けないのは理に適っているように思えないと、功利主義者なら反論するだろう。功利主義、すなわち、社会の功利(幸福)が一番増える選択が最も望ましいとする考え方も根強い。その考え方でいえば、BからDの選択は難しいにしても、Aを選択肢から排除するという発想になびくかも知れない。何しろ、Aは凶悪犯罪者である。助ける道理がない。これがおそらくは、世間で通用する選択である。

③ ある県の高校生向けの出前講座でこの問題を扱った際に、「Aは罪を償う義務があるから、Aを優先する」という解答もあった。面白い指摘だが、支持されないだろう。また、残るBからDについては、その未来がどのようなものであるかは計り知れないとしても、単純に余命を考えれば、D(and C)が候補となる。

④ 人権は、その内容によって扱いが異なるにしても、また国際人権という考え方が一定程度普及しているとしても、国籍の有無によって人の取り扱いが異なることは、国家という枠組みの中では認められる場合がある。このことから、素朴なナショナリストならDを排除すべきだという提案を出すことも考えられなくはない。ただ、命というメタ価値に関する問題であるだけに、この選択を真っ正面から何らの逡巡もなく支持する(支持できる)人はそれほど多くはないだろう。

1.1.4 決定すべき貴方が、自ら決定することを積極的、消極的に回避する方法もある。

① 列挙すると、例えば、AからDに事情を話して、4名で誰に投薬するのかを決めてもらう方法である。その決め方も当事者に委ねる。場合によっては、上手くいくこともあり得る。当事者に決定を委ねたのだから、その結果がどのようなものであれ、貴方が口を挟むことは禁じられるだろう。この場合は、三文ドラマ風に考えれば、B、Cが共同して(Dの賛成を得て)Aを排除し、次にBが救命の機会を放棄して、D(あるいはC)が投薬を受けることになるのだろう。貴方は、決定の責任から自分を解放したつもりでいるだろうが、責任を回避したことにはならないことにそのうち気づくだろう。責任回避の責任は残るからである。話し合いの結果はしばしば予想されるからでもある。

② 貴方は外部者に事情を説明して、その意見を参考にするという方法を思いつくかも知れない。この事例ではどれほど有効かは分からないが、何らかの世論調査を実施して、世間の「常識」を探ることで、その同意を獲得し、将来貴方に投げかけられる批判をかわすことなどがねらいとなる。

    ③ 少々グロゥテスク(グロテスク)な方法だが、例えば、市場原理を応用して、ある種の「競り」を行うことも考えられる。金持ちが勝利することになろうが、現在の世知辛い新自由主義の風潮では意外と支持者がいるのかも知れない。市場万能主義は拝金主義であって、弱者無視だという批判には、その資金を今後の薬の研究開発に役立てるといった「大義」が付け加えられるかも知れない。しかし、Aが競りの勝者となる場合を、すんなりと受け入れられるかといえば、なかなか難しいだろう。

1.1.5 色々考えても選択する基準がないから、まずは功利主義風に誰か1人助けることにして、次に具体的な選抜ではリベラルな立場にたって、AからDについて「クジ」などで選ぶ、すなわち、選ばれる平等を重視するのが一般的な選択になるだろうと思われる。この問題にあるAからDの属性である国籍、性別、年齢、経歴などは、選択には影響を及ぼさないし、及ぼすべきではないという考え方である。そして、おそらくこれが最も無難な解答なのだが、本当に「命の平等」の原則は貫かれるだろうか。換言すれば、私たちは普段命の平等を尊重していないという事実を素直に認めることができるだろうか。

◎  法学部生は、この問題を見て決疑論(casuistry)を想い出したかも知れない。といっても、演繹主義の色彩濃厚な大陸法にどっぷり浸かっているとそんなことはないともいえる。ともあれ、決疑論の発想も学んでおく必要はある[footnoteRef:2]。実際に、私たちが人生の中で、何らかの(倫理的)問題を扱わざるをえない場合に、自分なりに解答・回答を出さなければならないからである。新聞にある読者相談への解答・回答はかなり決疑論的である。 [2:  決疑論というのはわかりづらい。定義よりも実践が大切だろうから、毀誉褒貶はあるとしても、加藤尚武の『応用倫理学のすすめ』(丸善ライブラリー)や同『現代倫理学入門』(講談社学術文庫)などをお読みになることをお薦めする。]

 1.2 決定と解決

1.2.1 全員賛成・全員反対なら論点にはならない。社会問題の多くには複数の正解があって、特定の立場に対する賛否がある(野党・マスコミは政府批判を存在理由としがちである)。もちろん、賛成、反対それぞれ一枚岩ではない。そもそも、万事解決するという意味では、社会問題の多くに解決はない。代替措置を解決とみなすのが通例である。殺人があれば、殺された人は復ってこないが、犯人逮捕が解決とされる。「仕方ない」という言葉は解決に当たって残虐でもあり、慰撫にもなるが、仕方なかったと思って前に進むのはそれほど簡単ではなく、頑張った上での諦めの難しさは残る。それでも、善はなくとも最善はあるように、あるいは、最善は無理でも次善は提示できるように、万全の解決はなくとも、他よりは好ましい解決は(ひとまず)ある。その場合、競合する解決案の1つが(望ましい)解決と見なされる。ただ、先の問題でわかるように、好ましい解決を目指す決定であっても、辛い決定となり、その責任は時に相当重い。

1.2.2 決定はしばしば孤独なものである。元アメリカ大統領レーガンがナンシ夫人の助言で占いに頼ろうとした[footnoteRef:3](とされる)気持ちも分からないではない。J.F.ケネディ大統領は、いわゆる「キューバ危機」(1962年10月の13日間)に際して、比喩でもなく、全世界の運命をその肩に背負った[footnoteRef:4]。ともかくも、第三次世界大戦は回避された。ケネディが世界平和にどれほど貢献したのかは判断が難しいが、とうてい一般の人間には耐え難い重荷であり、その重荷に耐えることに、世界の存続を左右するアメリカ大統領という政治家の値打ちがある。ともあれ、「結果オーライ」でもあり、政治では何よりも結果責任(→3.責任)が重視される。リィダ論は、本来良き行為のための考察のはずだが、ついついリィダの決定の仕方に注目が集まる。もちろん観察するにはその方が楽しい。政治はドラァマ(ドラマ)でもある。 [3:  例えば、INF(中距離核戦力)条約の調印(レーガン大統領とゴルバチョフ書記長)の時間が、占い師のアドヴァィス(アドバイス)で、「星まわり」が良いからと、午前11時から午後1時45分に変更されたという逸話は、竹内政明『名文どろぼう』(文春新書)116頁に、C.パウエル『マイ・アメリカン・ジャーニー ― コリン・パウエル自伝』鈴木主税訳(角川書店)からの引用として紹介されている。また、Cf.菅原正子『占いと中世人』(講談社現代新書)] [4: キューバ危機については、Cf.  G.T.アリソン『決定の本質』宮里政玄訳(中央公論社)、D.セルフ・T.ロリンズ『13デイズ』富永和子訳(角川文庫)。また、映画『13デイズ(Thirteen Days)』]

1.2.3 政治家は、特に国の政治を担う政治家は、国民の生活や人生に多大な影響を及ぼす決定を下さなければならない。だから、M.ウェーバーが云うように[footnoteRef:5]、情熱だけでなく、責任感や目測力も政治家に必要だろうが、この孤独な決定から逃避したい気持ちに耐えうる精神力こそが重要なのかも知れない。決定は、総合的な判断力と決断力とが求められる点で最も政治らしい現象であり、そして、それゆえに、哀れで愛おしい人間ドラマの最たるものである。 [5: Cf.M.ウェーバー『職業としての政治』(岩波文庫)]

1.2.4 政治家は、公益や正義をあらわす言葉を用いて、政策の選択を説明し、その履行を誓約する。政治家がその意思を表明する場合、誰に向かって表明するか、どのような効果を期待するかなどの問題があるが、これは講義時間の制約もあり、またそれほど難しい問題ではないため、ここでは扱わない。公益や正義は、特定の政策を選択する際に、政治家の行動を支える基本精神となり、しばしば一般的な政治哲学の言葉で表現される。公益や正義がメシジ(メッセージ)である以上、社会に発生する様々な問題に対し、一貫した考え方や態度があると考える方が自然であり、何よりもわかりやすい。一貫性を欠けば、日和見と否定的に扱われることが多い。一貫した態度表明は、少なくとも国民やマスコミなど外部者には好まれる。知的な、あるいは誠実な態度だと見なされるからだろう。しかし、「政治的リアリズムは、つねに日和見的であることを要求する」[footnoteRef:6]から、むしろ一貫性は本来政治家には相応しくない資質だともいえる。政治の世界は一般の世界とは異なるものである。 [6: 丸山眞男『講義録第三冊 政治学1960』(東京大学出版会)17頁]

1.3 決定の性質

1.3.1 決定とは何か。流行のいわゆる「意思決定」については、(その必要と意義はさほどないと考えていることもあって)体系的にまとめることができなかったので、本文や註の該当箇所を参照のこと[footnoteRef:7]。また、失敗学で知られる畑中洋太郎の「決定学」[footnoteRef:8]は、意欲的であっても残念ながら、決定の「科学的」分析とは程遠く、羊頭狗肉の印象があるが、それだけ決定の解明は難しいことなのだろう。決定学の充実には、当面個別事例、すなわち歴史上の事例を数多く学ぶより他なさそうである。 [7:  意思形成に関する参考文献は多い。経済学と心理学の分野のものが多いのだろう。20世紀になって文系諸学の中心的地位を占めている経済学と心理学との関係は微妙である。それは、経済学が想定する人間像が心理学によって覆されてきたからである。意思形成に関する参考文献は数多い。イツァーク・ギルボア『意思決定理論入門』川越敏司+佐々木俊一郎訳(NTT出版、2012年)と奥田秀宇『意思決定心理学への招待』(サイエンス社、2008年)が参考になるが、集団の意思形成という点では、経営学の観点からの著作が中心であり、その数は相当である。その視点は効率化を基本としている。というのも、企業などが問題に対していかに優れた意思決定を行えるかが問われるからである。クイン・スピッツァ/ロン・エバンス『問題解決と意思決定 ケプナー・トリゴーの思考技術』小林薫訳(ダイヤモンド社、1998年)、齋藤嘉則著、株式会社グロービス監修『問題解決プロフェッショナル監修「思考と技術」』(ダイヤモンド社、2008年)、齋藤嘉則『問題発見プロフェッショナル 構想力と分析力』(ダイヤモンド社、2011年)の一連のシリーズがその代表なのだろう。一方で、個人でどのように問題に対応するのかについては、意思形成とは異なるジャンルを形成しているように見える。その多くは、問題解決や考える能力の開発と関わっている。おそらく、就活には相当役立つだろうから、参考までに講義プリント作成の上で読んだもののうち、いくつか挙げておく(このうち、10冊ほどでも読めば力がつくだろう。月に1冊でも1年で12冊となる)。増田剛己『思考・発想にパソコンを使うな』(幻冬舎新書、2009年)、保阪和志『考える練習』(大和書房、2013年)、福原正大『ハーバード、オックスフォード… 世界のトップスクールが実践する考える力の磨き方』(大和書房、2013年)、三谷宏治『観想力 空気はなぜ透明か』(東洋経済新報社、2006年)、野矢茂樹(文)・植田真(絵)『はじめて考えるときのように』(PHP文庫、2004年)、渡辺健介『世界一やさしい 問題解決の授業』(ダイヤモンド社、2007年)、細谷功『地頭力を鍛える』(東洋経済新報社、2008年)、フレドリック・ヘレーン『スウェーデン式アイデア・ブック』中妻美奈子監訳・鍋野和美訳(ダイヤモンド社、2011年)、村山涼一『論理的に考える技術<新版>』(サイエンス・アイ新書、2011年)、上村豊『逆問題の考え方 結果から原因を探る数学』(講談社ブルーバックス、2015年)、G.ポリア『いかにして問題をとくか』柿内賢信訳(丸善株式会社、2004年)、山崎将志『残念な人の思考法』(日経ビジネス人文庫、2013年)、堀井秀之『問題解決のための「社会技術」』(中公新書、2004年)、マリリン・バーンズ著、マーサ・ウェストン(絵)『考える練習をしよう』(晶文社、1985年)、西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』(光文社新書、2007年)、ジェームズ・W・ヤング『アイデアの作り方』今井茂雄訳・竹内均解説(阪急コミュニケーションズ、2004年)、高橋誠『問題解決手法の知識<第2版>』(日経文庫、2003年)、橋本治『「わからない」という方法』(集英社新書、2005年)、伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(ちくま新書、2005年)、木村俊介『「調べる」論 しつこさで壁を破った20人』(NHK出版新書、2012年)、グリーンズ編『ソーシャルデザイン -社会をつくるグッドアイデア集』(朝日出版社、2012年)、小川仁志『自分のアタマで「深く考える」技術』(PHP文庫、2014年)、ジョン・ケイドー『ビジネス頭を創る100の難問』勝間和代監修・花塚恵訳(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2008年)、山鳥重『「わかる」とはどういうことか -認識の脳科学』(ちくま新書、2002年)、小山薫堂『考えないヒント -アイデアはこうして生まれる』(幻冬舎新書、2010年)、鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書、2010年)、森下伸也『逆説思考』(光文社新書、2006年)。また、柴山盛生他『問題発見と解決の技法』(放送大学教育振興会、2008年)、山名宏和『アイデアを盗む技術』(幻冬舎新書、2010年)、佐藤綾子『リーダーのパフォーマンス学 人をひきつける魅力あるリーダーシップ』(学事出版株式会社、2006年)、日垣隆『秘密とウソと報道』(幻冬舎新書、2009年)、高橋秀美『トラウマの国 ニッポン』(新潮文庫、2009年)、正高信男『考えないヒト』(中公新書、2005年)、小島寛之『数学的決断の技術』(朝日新書、2013年)、黒木登志夫『知的文章とプレゼンテーション 日本語の場合、英語の場合』(中公新書、2011年)、横山禎徳『循環思考』(東洋経済新報社、2012年)、赤羽雄二『ゼロ秒思考』(ダイヤモンド社、2013年)、勢古浩爾『まれに見るバカ』(洋泉社新書、2002年)、野内良三『レトリックと認識』(日本放送出版協会、2000年)、三浦俊彦『論理学入門』(NHKブックス、2003年)、グレアム・プリースト『論理学』菅沼聡訳、清水哲郎解説(岩波新書、2008年)、丸谷才一『思考のレッスン』(文藝春秋、1999年)、仲正昌樹『「みんな」のバカ!』(光文社新書、2004年)、スティーヴン・G・クランツ『問題解決への数学』(丸善株式会社、2001年)・・・] [8: 畑中洋太郎『決定学の法則』(文春文庫)]

1.3.2 決定[footnoteRef:9]は、私たちの日常生活に溢れているが、その性質は「政治らしい」ともいえる。決定を、決定に到る過程としての決定と、決定する瞬間としての決定(以下、後者の意味では決断と呼ぶこともある)という2つの側面に分けて考えれば、過程としての決定は決断しないことであり、決断することは決定を目指す過程を断念することである。そして、決断は、まさに典型的な政治ドラマを構成する。 [9: 決定については、多くのテクストに言及がある。最近はディモクラシの担保可能性という点から、ゲイム理論などを用いて、決定とルゥルのあり方について考察するものが多い。Cf. 宇佐美誠『決定』(東京大学出版会)、佐伯胖『「きめ方」の論理』(東京大学出版会)。いずれもお薦めできる。また、ゲィム理論の導入としては(数学アレルギーの人には結構辛いだろうが。なお、アレルギーは独語。英語はアラジ)、松原望『社会を読みとく数理トレーニング』(東京大学出版会)がいいだろう。松原望『ゲームとしての社会戦略』(丸善株式会社)は、誤植・誤記(特に歴史)があるが、入門書としてはまぁまぁであって、終章は面白いし、友人と一緒に解いてみるのもいい。武田成夫『ゲーム理論を読みとく』(ちくま新書)はゲィム理論の「ideology」を指摘する。]

1.3.3 集団で決定を下すためには、決定することへの合意が必要であり、決定するための決定(決めることを決める)をする。そして決定のための決定には、さらに決定が必要となる。しかし、そんなことをすれば、無限後退・無限遡及してしまう。決定は決定の連鎖であるから、どこかに決定すると考えなくていい「自明」を設定することで(最終的な)決定(決断)は可能となる。それができなかったことがハムレットの苦悩の一因である[footnoteRef:10]。「自明」の例を挙げるのは難しいが、その候補の一つは、「人間(ないし個人)の尊厳」だろう。人間(個人)に尊厳がある理由は存在しないし、その理由を説明する必要もない。「霊魂がイデアとして永遠の生命をもっているという考え方があるからこそ、人格の尊厳という考え方も生まれたのである」(加藤尚武)[footnoteRef:11]。尊敬に値しない人は世の中に溢れているが、そんな人にも尊厳があると「痩せ我慢」で認めるところに現行制度は成り立っている[footnoteRef:12]。また、ディモクラシが議論(熟議)を強調すれば、自由主義的な理解に近づき、ディモクラシは手間暇かける制度やシステムとなって、議会制民主主義は決められない制度として不評を買うことになる。そのことが第2次大戦以前はファシズムへの支持を高めた。現代では、「決められない政治」への嫌悪から、「はっきりものをいう政治家」への人気につながっているのだろう。困ったものだが、この「決断する政治」(C.シュミット)こそは、実はディモクラシのもう1つのイミジでもある。 [10: Cf.内藤俊彦・兵藤守男「政治と映像(2) 「Ⅱ 政治の理  2 決断」『法政理論』第33巻2号(2000年)] [11: 加藤尚武『「かたち」の哲学』(講談社現代文庫)16頁] [12:  人間の尊厳の系譜については、Cf.古賀敬太編著『政治概念の歴史的展開』第4巻(晃洋書房)]

1.3.4 決定は重層的であり、また多元的である。さる高名な経済学者の夫婦の話として、「我が家では、大事なことはすべて主人が決定します。---でも、何が大事なことであるかは、私が決めてます」が紹介されている[footnoteRef:13]が、好例である。この場合、果たしてどちらが決定権を握っているといえるだろうか。国民投票はしばしば直接民主政だと称賛されることが多いが、次のように言い換えると、その称賛が幾分脳天気だとわかるだろう(「重要なことは、主権者たる国民が決める。しかし、何が重要かは、政治家が決め、主権者たる国民に決めさせない」という議論は、ディモクラシと整合的か。)(2009年度政治学基礎学期末試験追試験問題)。何を決定するかを誰が決めるのかも重要な論点である。 [13:  田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書)54-55頁]

1.3.5 私たちは日常的に決定を下しているが、習慣/慣習など自覚されない決定も多い。日常生活は選択を習慣化・慣習化する。パタン(パターン、定型)を作りだし、予測可能性を高めて安心を確保し、決定するコストや決定という煩わしさの負担を低減する。こうして定型化された行動は、一旦受容されると、規範性を帯び、強制力を持って、違反行動を非常識、無礼・失礼、例外とし、また違反者に(社会的)制裁[footnoteRef:14]を加える。また、個人のレヴル(レベル)では、定型行動をとらないと、気持ち悪いか、落ち着かなくなる。ただ、定型行動が常同行動ともなれば、別の厄介となる。 [14:   Cf. 藤田弘夫『都市の論理』(中公新書)]

1.3.6 決定に至るコストの低減に役立っている表現に、「みんなやっている」、「昔からやっている」、「常識だよ」などがある。「みんな」、「昔から」、「常識」[footnoteRef:15]の実在は証明に耐えうるものではない[footnoteRef:16]。換言すれば、こうした「当然」、「常識」、「自明」を疑うと、その社会の構成原理が見えてくる。これに類するものに、「相場」や「世間体」がある。ただ、相場は経験則による場合が多く、世間体[footnoteRef:17]は今やその存在が薄れ始めている。 [15: 佐藤信夫はレトリクを扱う哲学者だけに、事柄を「柔らかく」説明するのが上手い。その佐藤の説明を借りれば、常識とは「日常を無難に取りしきりうるようなものの見方の体系」である。常識の説明は難しいのか、少々固いが、「無難に」というところがポィントだろう。Cf.佐藤信夫『レトリックの記号学』(講談社学術文庫)253頁] [16: 実は、この「みんな」が案外難しい。「みんな」は1人称複数だと考えられやすい。しかし、2人称複数の場合もあるだろう。さらには、3人称複数の場合もある。「みんな」の解釈次第で意味が相当に異なる。Cf. 仲正昌樹『「みんな」のバカ!』(光文社新書)、高橋秀美『からくり民主主義』(新潮社、今は文庫にもある)。そういえば、仲正さんには『金沢からの手紙 ―ウラ日本的社会時評』(イプシロン出版企画)もある。学生にはわかりづらい部分もあるだろうが、これも買って読んでも損はない。] [17:  Cf.井上忠司『「世間体」の構造』(講談社学術文庫)、阿部謹也『世間とは何か』(講談社現代新書)]

1.3.7 決定を目指す過程で冷静を保てるのは決断しないからである。進学、就職、結婚など「重大な」問題には、それまで馴染んだ定型行動では対処しづらい側面がある(「ある成人男子が両親に自分の結婚に関する希望(見通し)を述べた際、その父親は「お前の結婚は、私たち家族に重要な問題だから、お父さんとお母さんが慎重にお前の結婚を決める。お前は安心してそれに従っていればいい。お母さんもそれでいいな」と言いました。まず、この父親の発言を正当化する理由や根拠を複数列挙し、次にその理由や根拠に対する反論を述べ、最後にこの父親の発言の是非を論じなさい。」(2010年度政治と決定学期末試験選択問題))。正確に言えば、定型行動で対処しづらい問題が重大な問題である。重大事については、多くの場合、結局は「エイヤァ」と決断する。決断は「何故?」を超える。「プディングの味は食べてみなければ分からない( The proof of pudding is in the eating. )」という。考えたら行動できないから、飛び込んでみるということだろう。決断は個別状況にあって、一般解はあまり役に立たない。だから、決定学は著書や講演のネタとしてはともかく、学問としては上手くいかない。従って、振り返ってみると、何故その大学を選んだのか、何故その会社を選んだのか、何故その男・女を伴侶として選んだのか、その時決断した理由はよくわからないことが多い。しかし、よく考えてみてもわかるはずもない。いわば理外の理である。尤も、後で理由を訊かれれば説明できる気がするという特色もある。「理屈は後から貨車一杯」という。自己の決定を正当化する心理が働くのだろう。自惚れや自己欺瞞の効用であり、賜かも知れない。

1.3.8 日本語には、便利なことに、決定に「決める・決めた」と「決まる・決まった」という二つの表現があって、説明しやすい。「決める・決めた」は作為の明示であり、「決まる・決まった」は経過の説明であって、自然・成り行きのイミジを伴う。例えば、「ゼミ旅行は蔵王温泉に決めました」と「ゼミ旅行は蔵王温泉に決まりました」とを比較すると、前者は作為だから、誰が決めたのか、何故決めたのかを問う余地が残る。従って、不満が生まれそうな場合、厄介な場合には、「決めたこと」を「決まった」とする表現(レトリク)が、自然な=成り行き(なりゆく<丸山真男)=仕方ない、不可避イミジを伴い、責任回避には好都合となる[footnoteRef:18]。「この村は過疎になっている」としばしばいう。「過疎になった」といえば、自分たちには責任がなく、何らかの外部の力が働いた結果にできる。しかし、理由は何であれ、多くの場合は、その村の人たちがその村を「過疎にした」のである。また、「ニゥゥズ(ニュース)になった」という。しかし、誰かがニュゥズに「した」はずである。ニュゥズ・ヴァリュは、事件や事故そのものに内在しないからである。「日本は、大陸と戦争状態に『入りました』」という言説の動機や効果が何かも明らかだろう。 [18:   Cf.丸山眞男『日本の思想』(岩波新書)]

1.3.9 集団に関わる決定にすべての人が加わることはほとんどない。決定する権限や資格の問題である。一般に社会は、構成員を何らかの規準で正規メンバと非正規メンバに区分することで維持される。この区分はしばしば差別と結びつくが、この差別は合理的とされる。例えば、選挙権は年齢条件では満18歳以上の者に与えられる。しかし、選挙結果は18歳未満の者も拘束する。仮に16歳の若者が、自分が関わっていない決定に拘束されることは不公平だとして不満を抱き、異議を申し立てても、無駄である。自称民主主義者はこれをどのように正当化するのだろう。その種の「排除」は仕方ないじゃないかとでもいうのだろうか。さらに、選挙権を18歳から16歳に引き下げるかどうかの決定は18歳以上の者とその代表者が決め、16歳、17歳の若者はこの決定に加われない[footnoteRef:19]。これは組織化にあたり、メンバ資格(membership)を誰が決めるのかという一般的な問題にも通じる。 [19:   Cf. 加藤尚武『現代倫理学入門』(講談社学術文庫)所収、「判断力の判断は誰がするか」]

1.3.9.1 集団に関わる決定には、「少数の人間が決め、残る多数は同意する」という特性がある。「みんなで決めた」というのは手続や気分であって、実質ではない。故に「みんなが決めた」ことにするためには、手続の整備や決定に参加・関与したという気分の醸成が重要となる[footnoteRef:20](必ずしも、この文脈の問題とはいえないが、Cf.2014年度第1学期末試験問題「学部の講義科目のカリキュラム(ここでは、カリキュラムを「一定の教育目的の達成のために、教員が作成する教育形式や教育内容に関する計画」とする)の作成に、何らかの形で学生を関与させるべきである。」)。 [20: この気分と戦後民主主義との関連の一例として、Cf. 石田あゆう『ミッチー・ブーム』(文春新書)]

1.3.9.2 多数者の同意調達をいかに図るかが、決定する少数者の「腕の見せ所」である。決定は説得でもあり[footnoteRef:21]、決定を下す側は、決定の提案を受け入れてもらいたいと考え、決定の提案を受け入れる側は、妥当な決定であってもらいたいと考える。すなわち、前者の「どのように決定に導くか(how to lead)」と後者の「どういう理由で従うか(why to follow)」とが対応する。 [21:  決定の正当化理由についてはここでは扱わない。Cf. 田中成明『法理学講義』(有斐閣)237頁]

1.3.9.3 決定する側と従う側の人間の数の割合が決定のあり方を大きく左右する。1人を説得する、100人を説得する、100万人を説得する…に相当の違いがあるのは説明を要しない。「四畳半」が得意な人もいれば、「大向こう受け」が得意な人もいる。大人数を相手にする場合には、説得の媒介手段(ミィディァ)が必要となる。換言すれば、ミィディァが発達すると(ミィディァがマス・ミィディァとなると)、大人数を相手にしやすい環境が整う。政治がラジオやテレビの登場前後で大きく変わったと指摘される理由である。地声・肉声で語る時と、テレビなどミィディァを通じて語る時では、話し方のみならず、内容まで異なってくる。もちろん、説得する相手の数が少ないから、説得がいつも簡単であるとは限らない。説得する相手に応じて、手段や方法を工夫すれば、人数が多い方が楽な場合もある。集団心理が働くからである。それに何よりも、現在の議論の説得力は、有名人が語ることに加え、多くの人が知っていることである。みんなが知っているから事実である、正しいと看做してしまう不思議な時代である。

1.4 選択

1.4.1 決定は、つまるところ選択の問題である[footnoteRef:22]。選択は選ぶという能動的な行為である。しばしば誤解されるが、私たちは大切な方を選ぶのではなく、選んだ方が大切なのである。決定には「決める」と「決まる」という表現があるが、選択には「選ぶ」しかなく、「決まる」に当たる表現がない。選択は行為を明示する。選択者の匿名化を図る表現をあえて探せば、「選択された」という受動表現だが、受動表現では行為者は上手く隠しきれない。 [22: 「無差別均衡の自由」については、Cf.中島義道『後悔と自責の哲学』(河出文庫)18頁]

1.4.2 当たり前だが、選ぶには選択肢が必要である。存在しないものは選べず、また選択肢は実質的でなければならない。例えば、「あいつを殺さなければ、おまえを殺す」と云われ、殺したとする。そして、後になって、「貴方は自ら殺害を選んだのだから、責任をとるべきだ」と云われたとする。しかし、このような場合に選択があったとは言い難い。2人の子どものうち、どちらかを助けるようにナチスに強いられた母親を描いた映画『ソフィーの選択』(Sophie’s Choice)は何とも辛い。現実でも、このような「過酷な」選択が少なくない。選択はしばしば強いられるからである。あるいは、選択する条件が整っていない場合もある。こうした場合、結局は選択したという自覚が残るかもしれない点は厄介である(→3.責任)。

 ◎ 相手に選択を強いる場合に、「偽りの二分法(false dichotomy)」が用いられる。「味方にならないなら、敵だ」といった風に白黒付ける場合である。人間関係は味方か敵かのどちらかだといえば、馬鹿げているとわかるのに、こういう言い方が用いられる。

1.4.3 心理的効果で選択の結果が変わることがある。その代表がフレイミング効果だろう[footnoteRef:23]。フレイムが異なることによって、判断や選択が変わる。「この薬を使っても、100人中70人が死ぬ」と、「この薬を使えば、100人中30人は助かる」とでは、全く同じ事柄を述べているのに、印象は相当変わるだろう。 [23: Cf. 友野典男『行動経済学』(光文社新書)]

1.4.4 選択の対象には、ヒトとモノ(コト)がある。問題状況に対処する際に、事柄の選択ではなく、事柄を選択する人を選び、委ねることも多い。というのも、事柄を選択しようとしても、十分な知識や判断能力がない、選びたくないなどの事情があり、むしろ、分業と協業による効率化によって(つまり、専門家に依拠して)対応する方が好ましいと考えられることが少なくないからである。情報処理能力に格差がある場合の関与・参加のあり方の問題でもある(→1999年度「政治制度論」定期試験選択問題)。原子力発電所建設の是非を住民投票に委ねるとして、その是非を判断するには、どの程度の知識や判断能力が必要だろうか。上述の問題と同じ論理を用いて、重要な政策課題について判断能力を欠く国民が投票で決めることは妥当ではないという立論に対し、どのように反論できるか。ディモクラシは基本的に一般人の判断能力への信頼を基準としているから大丈夫と言えるだろうか。その判断能力を問わないと言えるだろうか。それでも、最終判断者は国民にあると言い切るのがディモクラシである。

1.4.4.1  問題への対処に当たり、人を選択してその人に任せると、ひとまず責任の所在が比較的明確になるという利点がある。逆に言えば、みんなで行ったことはみんなの責任であり、みんなの責任は責任の所在が特定されず、霧散するから無責任となる[footnoteRef:24]。ディモクラシが実質化すればするほど無責任になるといえば、皮肉が過ぎるだろうか。 [24: Cf.仲正昌樹『「みんな」のバカ! 無責任になる構造』(光文社新書)。個人史の部分があって、学生には分かりづらい部分もあるが、読みやすいだろう。]

1.4.4.2 人を選んで任せる、信任する、委託することを制度化したものの1つが議会制度である。議員も選び方によって、選ばれる顔ぶれが変わり、また選ばれる選ぶ意味も変わる。比例代表制は、人の代わりに政党を選ぶことであり(人を選ぶ要素を加える比例代表制度もある)、議会制度は間接民主制(民主政)と言われているが、民主制(民主政)と呼ぶからそう思えるのであって、実際にはエリィト主義(ある種の貴族政)である。議会が民主的でありえるとすれば、議会の構成員が広く国民から選ばれ、また従う側、統治される側の代表として政府の決定に文句をいう機会が提供されている場合である。従って、文句をいうこと、すなわち、言論の自由の確保だけでなく、議会の起源(古英語:parley 話す)に相応しい、弁論の上達(雄弁)が制度運用上要求される。日本の現実はこの点で相当惨めである。議会は言葉を用いた戦いの場である。

1.4.4.3 信任には選ぶ人と選ばれる人との関係によって、代理と代表の2つがある[footnoteRef:25]。代理は、選ぶ人=本人(principal)がいて、選ばれる人=代理人(agent)がいるという関係であり、両者は等身大で、その政治的価値は「選ぶ人」>「選ばれる人」である[footnoteRef:26]。これに対し、代表[footnoteRef:27]は、選ばれる人について、代わりが見つけにくい、専門性がある、立派であるというイミジがあって、その政治的価値は「選ぶ人」<「選ばれる人」である。代理は代理人の恣意や裁量を認めないが、代表は代表者の恣意や裁量を肯定する。前者はアメリカ、後者はイギリスがそれぞれ典型とされる。議会制民主主義の論理は、本来代表イミジにある。このJ.ロック流の信託(trust)概念は、本来 (英米法の)equity法上の信託概念、信託による土地所有の類推である。従って、本来の土地所有者(=統治で云えば、国民)が、土地所有(統治で云えば、政治のあり方を決定する権限)を放棄するわけではないが、土地の運用(統治)を他人(政府)に任せた方が望ましいことを認めた議論である。すなわち、単なる統治に関する委任契約ではない[footnoteRef:28]。取り戻しを含意するからである。この「取り戻し」は新たな選挙による選び直しということだろうが、そんなに簡単に取り戻せない。近年、国民が主権者=本人だという論理が流通している。政治家は国民のエィジェント(この訳語は難しいが、国民が主人であることを強調すれば、「パシリ」程度の意味になる)であるという理屈が流行っているが、こうしたディモクラシの理解は、政治家が統治を託されていることだけでなく、自分が統治する責任の大きい立場にあることを隠蔽する議論にも通ずるという皮肉もある。政治家が統治する重責を担っているだけでなく、権力を持つ立場にあることを忘れるのは、欺瞞か能天気かのいずれであって、政治家としては失格だろう。だからといって、政治家に矢鱈と張り切られるのも困るところがこの問題の難しさである。民主的だとか、国民の代理人だとかを自称する政治家が、首をかしげたくなる発言をすることがよくある。例えば、「国民の皆さんからいただいている税金を…」である。民主主義者を自称するならば、せめて「国民の皆さんから預かっている税金を…」というべきだろう。主義の左右を問わず、自称民主主義国が往々にして民主的でないように、自称民主主義者は「口だけ民主主義者」が多いから、仕方ないのかも知れないが、税金を浪費する傾向があるのは、税金を自分たちのお金だと思っているからなのだろう。もちろん官僚もそうである。国民は、お金を税金という形で預けているに過ぎないのだから、使い方が拙ければ、「返せ」と言って良い(社会契約論風に言えば、抵抗権の正当化)、そして別の人に運用を任せる(政権交代)というのがディモクラシの本旨だろう。 [25: 代表については、Cf.柄谷行人『日本精神分析』(講談社学術文庫)第3章。この本は、第3章で論じられている菊池寛『入れ札』だけでなく、芥川龍之介の『神神の微笑』、谷崎潤一郎『小さな王国』も収録されている。この3つの短篇はテーマがそれぞれ違うが、是非読まれたし。] [26:   少しレヴルが高い話を補足しておく。principal – agentという言葉の組み合わせに意味がある。実際には、agencyという表記が用いられることも多い。しかし、agencyは本来、手段・媒介を表す言葉である。その手段・媒介が行為者を表すところに面白さがある。government agency(政府機関、官庁)などはそうだろうし、代理店という意味もある。このあたり、代理の意味を含め、検討する価値がある。代理は行為者か媒体のいずれなのかである。] [27:   代表概念については、Cf. A.H.バーチ『代表』河合秀和訳(福村出版)、島田幸典「民意・代表・公益(1)~(2・完)」『法学論叢』第143-5、第145-2。なお、下條芳明『象徴君主制憲法の20世紀的展開』第2部第4章に、天皇の象徴性との関連で、C.シュミット、和仁陽(『教会・公法学・国家』(東京大学出版会)などに即した代表概念の考察がある。] [28: Cf.島田幸典「民意・代表・公益(2・完)」『法学論叢』(第145-2、1999年)28-48頁]

1.4.4.4  議会制民主主義は、議会主義というエリィト政治とディモクラシとを接合したもので、「代理や代表を選ぶという主体的行動(主権)によって、支配される」という仕組みであり、ここに「国民のための政治」と「国民による政治」という、原理的に相容れ難い2つの原則を架橋する1つの理屈があるとも考えられる。制度上「参加率」としての投票率が低下すると、制度の正統性が失われる。従って、選挙を盛り上げる必要があり、ここにドラマとしての選挙が持つ役割の効用がある。その意味で、選挙は、オリンピックのような「ミィディァ・イヴェント(メディア・イベント)」(マス・ミィディァをつうじて多くの人びとに共通の記録をもたらす出来事)[footnoteRef:29]でもあるのだろう[footnoteRef:30]。 [29: Cf.D.ダヤーン・E.カッツ『メディア・イベント』浅見克彦訳(青弓社)、津金澤聰廣編著『戦後日本のメディア・イベント』(世界思想社)] [30: 高瀬淳一『情報と政治』(新評論)18頁以下]

1.4.4.5 人を選ぶ場合、選ぶ人が選ばれる人の人柄に親近感を抱くことがある。また、選ぶ際には、選ばれる人が発するメシジに左右される。選ぶという行為は主体的に思えるが、選ばされているという側面もある。売っていない商品は買えないことと似ている。また、何となく選ぶ/選ばれるという実際の現象は説明が難しい。見えにくい権力が働いている場合もあるからである。例えば、人間関係や社会風土・文化が自ずと選ぶ人を決めていることがある。「世襲」議員は政治家という職業を世襲しておらず、国民が選んでいるから、誤解を招く表現である。世襲しているものがあるとすれば、それは後援会などの選挙区の管理・運営・維持システムであり、選挙戦を戦うシステムである。

1.4.4.6 「したいこと・好ましいこと」を選ぶという場合もあれば、「したくないこと・好ましくないこと」を考えて、それ以外から選ぶという場合もある。「より好ましい方を選ぶこと」と「より好ましくない方を選ばない」ことが異なるのは社会現象の面白さだろう。あいつは選びたくないから、他の人を選ぶ場合である。政党論では「拒否政党」と呼ばれ、日本では公明党や共産党がこれに当たるとされる。また、過去の選挙戦での社会党/民主党の支持率上昇は自民党支持者の「浮気」であり、「懲らしめ票」であったと云われる。選挙では、勝ち目のありそうな人を選ぶか(勝ち馬にのる=bandwagon)、勝ち目のない人でも応援する(判官贔屓)がある。近年の民主党大勝、自民党大勝は、選挙制度(小選挙区制)の効用でもあろうが、有権者の失望による支持の振幅が大きい証でもある。

1.4.5  選択の方法が選択の結果を左右する。くじ引き・ジャンケン、投票、指名、ロゥティション(ローテーション)など色々な選び方がある。

    1.4.5.1 様々な選び方があるといっても、事柄によって自ずとふさわしい選び方があるという了解はある。掃除当番のようなやりたくないことを、みんなの投票で決めるのが変である(正しいとは思えない)。2人の男性/女性のうちどちらかをくじ引きで恋人に選ぶのも変である(自分の意志とは無関係に結婚相手を選ぶ・選ばされるという文化は世界中にある)。だからこそ、運命の人だと思うのは、1つの納得の方法であって、また自分が選ぶという作為を回避したことを隠して、自分に対する責任を問われないようにするレトリクなのかも知れない。人生の帰趨に大きく影響する裁判に、一般人が裁判員として参加し、決定していいのなら、特に民主政が強調されやすい地方自治などでは、自治体議会の議員を抽選で選んでもいいはずであるが、自称民主的な学者もこの提案をしないのは不思議である。

    1.4.5.2 しばしば選択の結果を想定しながら、選択の方法を議論している。例えば、集団の代表者を1人選ぶとき、自分の支持者が多そうならば、民主的に多数決にしようといい、自分の支持者が少なそうであれば、公平を期してジャンケンにしようという。この結果を想定した上で、人は選び方を選んでいることは、何故かしら忘れられやすい。

1.4.5.3 自分で選ぶ、話し合って選ぶ場合には、いずれも一定の主体性が要求されるが、選びきれない、選びたくない場合には、選ばれる側の平等性・公平性を担保するため、運を天に任せるくじ引きやジャンケン(日本のグゥ・チョキ・パァが普及しているらしい)が用いられ、責任の所在を「人為」からはずす。敗者に敗北を認めさせ、受け入れさせること、諦める理屈を与えることこそ、運不運の格好の利用法である[footnoteRef:31]。 [31:   Cf. 佐伯胖『「きめ方」の論理』(東京大学出版会)]

1.4.5.4 価値の多様性を認めた上で、個人間に生じる不公平を解消するためには、特に他人に較べて能力や財産について有利な立場にある人間、何かの領域で成功した人間が、自分の有利さ・成功が幸運の産物に過ぎず、不利な立場にある人でも可能性があり得たと認めることが重要だといった議論がリベラリズム(擁護論)の中でおこなわれる。その意味で、自分の存在自体が他者に対する責任を負っているという自覚の重要性が指摘される。これを援用・応用すれば、自由で開かれた討議による合意も社会的格差が反映するから、むしろ決定はくじ引きに委ねてしまうのが最も公平になるが、たとえこの方法がどれほど民主的であったとしても、あるいは民主派は少々やせ我慢しても、政治は職業政治家など統治のプロに任せるものではないと主張するとしても、くじ引きで政治家や政策を決めるわけにはいかないところが現実だろう。

1.4.5.5  選ぶ方法によって、選ばれる人や事柄が変わるという多数決のパラドクス(コンドルセのパラドクス)が知られている。例えば、3名が旅行先を決めるとして、それぞれの選好が、鈴木君:沖縄>北海道>京都、佐藤君:北海道>京都>沖縄、田中君:京都>沖縄>北海道である場合、選好の総和はいずれも同じはずだが、鈴木君と田中君が協力すれば、沖縄>北海道、佐藤君と田中君が協力すれば、京都>沖縄となる。だが、3人の多数意見は北海道>京都である。従って、パラドクスと称されるが、ここに決定の不安定がある[footnoteRef:32]。では、もし貴方が田中君ならば、どのようにすれば、旅行先を京都に決めることができるだろうか。 [32: この話題に限らないが、高橋昌一郎『理性の限界』、『知性の限界』、『感性の限界』(いずれも講談社現代新書)の三部作は、読み物として楽しい。]

    1.4.5.6 最善であるはずの選択が最悪の選択であるという奇妙な場合もある。例えば、今日のおやつを決める場合に3つの選択肢(モンブラン、プリン、大福)があって、7人(X1~X7)人が多数決で決めることとする。そして、X1~X3の選好順位がモンブラン>プリン>大福、X4・X5の選好順位がプリン>大福>モンブラン、X6・X7の選好順位が大福>プリン>モンブランだとする。もし各人が1票ずつ投票すると、モンブランが3票、プリンが2票、大福が2票で、モンブランが相対多数で選ばれる。しかし、そのモンブランは、全体の過半数にあたるX4~X7の4名が最も食べたくないものである。こういう場合には、各人が1票ずつ投票することが妥当ではない。それでは、みんなの満足度を最大限にするには、どのように決めればいいだろうか。

    1.4.5.7 先攻と後攻が分かれるスポォツやゲィムの場合にも、先後の決定方法はいくつかある。例えば、サッカや将棋(1回だけ対戦する場合)では、コィントスや振り駒で決める。すなわち、偶然に委ねる。サッカでは先後の差の影響は相当小さいが、将棋でも少しだけ大きい程度で済んでいるからだろう。一方で、先後の差の影響が大きいビリャァド(ビリヤード)では実力(バンキング)で決める。それぞれの分野の決め方には、そのスポォツやゲィムの性質で決め方が変わる。勝敗・勝負の公平担保を考慮するからである。

1.4.6  価値観が多様(であるべき)だというなら、全会一致を求めることは奇妙であり、多数派と少数派に分かれるはずである。また、みんなが容易に一致できるような問題なら、そもそもそれほどの問題ではなかったはずである。ここには問題への賛否ではなく、当事者間の主導権争いなど別の論理が働いている。多数決については誤解が多い[footnoteRef:33]。複数の案の中で相対的にどちらが望ましいかを決める程度の制度であるにも拘わらず、正義の判定を下すものだという誤解である。また、わずかな差で負けた側の悔しい気分は理解できないわけでもないが、単純な多数決なら過半数(多数決は過半数とは限らないから、相対多数と言うべきかも知れない)賛成/反対を全体の意思と見なすという取り決めである。もちろん、多数決の論理と功利主義(一番素朴な形は、最大多数の最大幸福=みんながより幸せになるのだから、少々のことは我慢しなさいという主張)とが結びつくと、少数派の自由が損なわれる危険性は倍増する。しかし、過半数による決定が少数者の意見を無視する危険性を高めかねない深刻な問題だと考えるならば、決定の基準を過半数から2/3以上などに上げるなど、技術的に対応できる話でもある。全会一致への志向が根強いのは、妥協を通して、全体としては合意が形成されたというイミジを重視するからであって、異見や対立の不在ではない。これは集団における決定をめぐる政治文化の問題である。みんなで決めることが日本では好まれる。個々人が決定の責任を負わないことを是とする文化の産物だろう。 [33:  Cf. 水谷三公『江戸は夢か』(ちくま学芸文庫他)。多数決については、最近、坂井豊貴『多数決を疑う』(岩波新書)が出た。比較的読みやすくお薦めできる。多数決は多数者の意思を反映していないという証明であり、もっともである。ただ、49~50頁あたりにきちんと書かれてはいても(真の多数、真の順序などに対する疑問が出されているのは結構だが)、やはり民意実在論、あるいは民意は明らかにできるという信仰を前提としているように思える。また、推奨されているルゥルも、特定の民意の分布が前提となっており、何故そのような分布になっているのかが証明されていない。民意を知るためのルゥルが民意の形状を前提にするのは論点先取のように思える。むしろ、民意はルゥルによって表れるものだと考えた方がいいのだろう。「適切な」方法を探究するのは大切だが、その基準が説得力を欠いている。なお、第3章のルソーの一般意志、第4章のアロウの不可能性定理についての説明の方が面白いだろう。特に日本国憲法の憲法改正条件(133~135頁)が小選挙区制を前提としている限り、両院の3分の2は、実は3分の2ではないこと、この指摘は、すでに言われていることながら、重要だろう。]

      

第3講~第10講  2  正義

第3講(6/25)  2.1 公共性

2.1.1 正義という言葉がわかりづらければ、当面は、富や権力など社会的価値の配分基準と考えておいていい。決定を下す際には、意識・自覚の有無に拘わらず、選択の基準がある。criterium / criteria(判断基準、後者は複数形)という洒落た(覚えるべき)言葉もあるが、ここでは基準と呼んでおく。この選択基準は決定の、さらには他者の説得理由や根拠となる。正義(行為では正統性/正当性だろうが、社会正義なら公平や公正に意味が近づくだろう)は守らなければならない(守りたい)価値や信条であり、他者を説得する材料であり、個人や集団が行動する上での大義(cause)となるのであって、安っぽい正義論が扱うような机上の道徳や倫理の問題ではない。集団の意思形成では、相応の「尤もらしさ」が必要であって、そのような公的な意思形成では、行為基準の候補はそれほど多くない。

何時に風呂に入るかなどは自分で勝手に決められる。その人の好き勝手という意味での自由である。とはいえ、この大したことのない問題でさえ、同居人がいたり、集合住宅なら、個人の身勝手が許されるなくなる。共同生活では、なるべく迷惑回避を考えるのが尋常だからである。まして、他者の人生や生活にも大きな影響を及ぼす決定の場合には、他者の納得や了解をできるだけ得られる理由が必要である。それではその「尤もらしさ」とは何か。共同生活で育まれてきた常識や経験則かもしれない。では、その常識や経験則は正しく、優先されるべきなのだろうか。また、他者の納得や了解が得られても、不当や不正であることはないだろうか(例えば、同意殺人)。公共性と正義とはどのような関係にあるのかを考えることも重要である。

正義(justice)はしばしば体系化された正義(ideology、イデオロギィ(イデオロギー)は独語。英語はアィディァラジ)として表象される[footnoteRef:34]。ideologyは「◯◯主義」と称されることが多い。「◯◯主義」とは、さしあたっては「◯◯」を重視する主張だと考えていい。もちろん、これらは政治言語であって、額面通りには受け取れない。「私は民主主義者です」という人が民主的ではないことは社会常識に属する。そんな時、「大人ってずるいよね」なんていう批判は的外れでもある。言葉は、説得や弁明の手段として用いられることが多いからである。「○○主義」という言葉の多くはイズム=-ism が付くが、alcoholism=アルコホォル(アルコール)中毒などの例もある。一方で、民主主義は、democracy(民主政)であって、democratismではないから、文字通りには民主主義と訳すこと自体に「からくり」がある(後述)。これらの多くは社会常識として知っておく必要がある。政治哲学や政治思想にまで「高められている」ものもあれば、専ら認識象徴(認識のための道具として用いられる言葉)あるいは組織象徴(現実の政治活動の正当性基準として、又は政党が自己表象する際の言葉)として流通しているものもある。 [34: Cf. K.マンハイム『イデオロギーとユートピア』鈴木二郎訳(未来社)が古典である。最近東京大学出版会の現代政治学叢書シリーズ蒲島郁男・竹中佳彦『イデオロギー』がようやく出た。同書は、現代政治学の一派であるレヴァイアサン・グルゥプらしく、(純粋な)理論部分よりも、戦後日本のideologyのあり方や変遷を「実証的に」検証(しようと)している部分が多いが、平成生まれの学生には知らない部分が多くて役立つだろう。なお、著者の1人蒲島郁男は現熊本県知事であり、335頁以下に書かれた選挙戦での戦略・戦術の話は面白い。「学問も役立ちます」という主張だろう。]

公益や正義の内容や選択に応じて、これまで数多くの「○○イズム」が登場した。近代以降の主なものに限っても、王権神授説、保守主義、自由主義、民主主義(これらを組み合わせた自由民主主義、社会民主主義は社会常識の範囲だろう。)、共和主義、ナショナリズム、社会(民主)主義/共産主義、共同体主義、ナショナリズム、ファシズム、全体主義、帝国主義がある。哲学、法学、社会学、経済学にまで拡げれば、個人主義、集団主義・団体主義、功利主義、プラグマティズム、立憲主義、議会主義、連邦主義、多元主義、ロマン主義、重農主義、重商主義、人種主義、フェミニズムなども重要であり、キリスト教のように政治思想の形を直接とらないものもある[footnoteRef:35]。 [35:  王権神授説は王権神授主義と言わないのは、該当する西洋語が無いからだろうか、doctrineだからというのが説明になっているのかどうか。ディモクラシ、ナショナリズムについては後述。ファシズムは「◯◯主義」とは「訳されない」。良い訳語が見つからなかったからだろうか。プラグマティズムは実用主義と訳されることもある。]

近年出版・翻訳された代表的な教科書では、以下の主義が扱われている。W.キムリッカ『新版 現代政治理論』:功利主義、リベラルな平等、リバタリアニズム、マルクス主義、コミュニタリアニズム、シティズンシップ理論、多文化主義。リベラリズムを取り上げていないのが「ミソ」であるが、「今日、形勢は完全に逆転し、リベラリズムを除くすべての哲学は、リベラリズム批判から筆をおこさなければならなくなった」[footnoteRef:36]という事情もあるのだろう。「リベラルな平等」という少々不格好な表現には理由がある(後述)。また、プラグマティズム[footnoteRef:37]がないのも面白い。一本立ちした政治哲学に値しないのだろうか、あるいは功利主義に吸収されると考えているのだろうか。その当たりは不明である。福田有広・谷口将紀『デモクラシーの政治学』(東京大学出版会)Ⅰ政治思潮の歴史的展開[footnoteRef:38]では、自由主義、保守主義、共和主義、社会主義、全体主義である。いずれもディモクラシが挙げられていない点が重要である。好意的に考えれば、ディモクラシは同じ次元で扱われる概念ではないからだろう。なお、社会主義は、しばしば資本主義との対比で用いられ、その文脈では経済概念に分類できるが、ここではideologyとして扱う。 [36: Cf.押村高・添谷育志『政治哲学』(日本経済評論社)257頁] [37: プラグマティズムについては、ジョン・デューイ『学校と社会』市村尚久訳(講談社学術文庫。岩波文庫は宮原誠一訳)やウィリアム・ジェームズ『プラグマティズム』枡田啓三郎訳(岩波文庫)あるいは鶴見俊輔『アメリカ哲学』(講談社学術文庫)を読めばいいのだろうが、分かったようでわからない。むしろ、小川仁志『アメリカを動かす思想』(講談社現代新書)のようなものの方がいいのかもしれない(副題が「アメリカが世界最強の国であり続ける理由」とあって、キワモノ風だが気にしなければいい。ただ、新書とは言え、やはり進むにつれて議論は雑になっている)。また、最近、仲正昌樹『プラグマティズム入門講義』(作品社)と大賀佑樹『希望の思想 プラグマティズム入門』(筑摩選書)が出た。大賀著もわかりやすくていいが、プラグマティズム入門というよりリベラルディモクラシ(市民社会)の実現に向け、プラグマティズムは役立つ(=希望の思想)という観点から、あるいは民主主義=生き方の問題という観点から書かれていて、宇野著と似ている。その意味ではプラグマティズム入門としてはバィァスが大きいという印象が残る。注目されるのは、ここ数年、プラグマティズムとディモクラシとの関連で議論が進められていることである。その一例として、宇野重規『民主主義の作り方』(筑摩選書)。また、プラグマティズムは、問題解決という言葉の異様なほどの流行とも関わっている。閉塞感のある時代だからこそ、問題解決という言葉の魔力には抗しがいのだろうが、パタン(パターン)化、スキル化、ファシリティタ(ファシリテータ)の介在で対応できる問題など、本来はそもそも大した問題ではない。なお、ファシリティタについては、Cf.堀公俊『ファシリテーション入門』(日本経済新聞出版社)、森時彦『ファシリテーターの道具箱』(ダイヤモンド社)、同『ザ・ファシリテーター』(ダイヤモンド社)。出版社を見ると、実社会でこの本の需要が高まっていることがわかる。もちろん、これが一過性の現象かどうかは分からないが、これもいわばアメリカ化ではある。] [38: この本に限らないが、「歴史的展開」というおぞましい表現は何とかならないものだろうか。このヘーゲル流の、思想を実体化する発想は薄気味悪くて仕方が無い。]

正義の体系の数は余りにも多い。以下では、現在流通しているもののうち、決定の基準として一定程度一貫し、体系的であると思われる自由主義、ディモクラシ(民主主義)、功利主義、保守主義、社会(民主)主義、ナショナリズム、全体主義を説明する(共和主義は、時間の制約があること、西洋政治思想史で扱うことから省略した)。これらの概念は、認識象徴としてだけではなく、組織象徴としても用いられるからである。なお、平等主義という概念が現在ideologyとして流通しないのは、多かれ少なかれ、平等への配慮が現代政治で不可欠となっているからというよりも、平等を看板に掲げた場合、平等をめぐる厄介な問題に真正面から取り組まなければならないからだろう。それに、多くのideologyも平等を無視できない。例えば、国民の間の平等要求が、国民と外国人との差異を過度に強調する論理となれば、ナショナリズムと結びつくだろうが、「排外主義」との批判を仰ぐことになる。一方で、平等主義は貫けないという根本的な問題もある。差別化を図り、正当化する論理を用意していないと、平等の要請は説得力を失う[footnoteRef:39]。これも重要なポィントである。面白いことに、人間(性)を否定するideologyは存在しない。一見、そのように見えるideologyも、特定の集団に属する人間の人間性を否定するに留まるからである。 [39:  平等主義の問題点については、ハリー・G・フランクファート『不平等論』山形浩生他(筑摩書房)。平等論は、他者と比べて生きることになりやすい。貧困が問題であって、それは経済的な平等とは別の問題であって、大切なのは個別の自分を生きることであり、尊敬を受けることである。なお、同書は山形さんにしては翻訳が少々読みづらい。]

2.1.2  政治社会が安定して維持されるためには、多少同語反復気味だが、構成員の間に一定程度公共性(公共精神あるいは共通善:common good)が共有されている必要がある[footnoteRef:40]。ここで云う公共性の共有とは、個々人の利益からは独立した集団固有の利益(公益、public good)が存在し、後者が前者に優先される事態や場合があることの承認である。個人が自らの利益追求を我慢すべき場合がある。あるいは、我慢に関する同意がある。私益が尊重されるのも、個人の幸福が尊重されているからというよりは、個人の幸福追求という私的利益の尊重がその政治社会の維持に望ましいと考えられているからであり、私益の尊重も公益あるいは公共性に含まれると考えた方がいい[footnoteRef:41]。この共有は法律や神話、常識など様々な形で保持されている。もちろん人間が共同社会を維持できているのは、公共性を認識しているからという(共和主義にあるような)積極的な理由によるとは限らず、むしろ危害などが加えられない限り、お互いが他者に無関心であるからだという有力な反論もある。 [40:   公共性追求の議論が再び盛んである。東京大学出版会の『公共哲学』シリィズでは様々な分野から新しい公共性の模索が試みられている。従来の公私二分論への反発と公共性喪失という現状認識への危惧がある。] [41: この点で、そもそも刑法あるいは刑罰で、個人法益という概念が妥当かという疑問は拭いきれない。また、考えてみれば、そもそも「私法」という言葉自体が奇妙であるともいえる(Cf.市民法(羅語:ius)⇔公法(羅語:lex))。]

2.1.2.1 公共性論は20世紀末以降最も流行っているテェマの1つである。公共性の意味は多様である。この公共性をpublicの意味に限定しても、辞書風にいえば、公的(official)、共通(common)、公開(open)を指す。そして、それぞれの意味が衝突するところが厄介である(public schoolは私立学校である)。人びとの間に共有されているものが公共性であると考えれば、常識は公共性を担保することになるが、価値観の変化や構成員の交替により、常識は変化する。一方で、ディモクラシ論あるいは「啓蒙の政治」との関連では、公共性ないし公共空間とは、多種多様な、そして自由で自律する個人が、自らのidentityや生き甲斐を求めて、主として抑圧なき(相手の言論を封じない)議論を通じて(あるいは相互に応答する姿勢を保持して)社会関係に入り、社会連帯を育むことを指す[footnoteRef:42]。one and onlyである個々人が、自由を損なうことなく、連帯する仕組みという積極的な意味づけがなされる傾向がある。その意味で、公共性の獲得は過程であり、目指すべき運動の目的であって、「未完のプロジェクト」(J.ハーバーマス)なのかも知れないが、上手くいかないときはどうするの、「まともな人」の間ではリベラルな(公平で寛容な)態度は保てるけれども…という疑問は残り、相当に初な議論だという印象は自然だろう[footnoteRef:43]。 [42:   Cf. 齋藤純一『公共性』(岩波書店)] [43: もちろん、リベラルな立場からの真摯な問いかけもある。一例として、北田暁大『責任と正義』(勁草書房)、特に、「制度の他者」、「規範の他者」の取り扱いなどは参考になる。]

◎ 日本の「公」概念に問題があるとすれば、公的・共通・公開の中では公開だろう。公的なものは原則公開するが、事情があれば非公開とするというのが本来あるべき姿だろう。しかし、日本では原則が非公開で、場合によっては公開することが多い。このあたり、情報公開の議論をする以前の基本的な発想に問題がありそうではある。行政情報などを原則公開する(たとえ許認可制でも構わない)ことが中長期的に見れば、政府に対する信頼を高めることがなかなか永田町や霞ヶ関の方々には理解されないようである。

◎ 残念ながら解散したSMAP(クレージー・キャッツとドリフターズを合わせたほどの画期的な存在