20
27 シュペーナー 『敬虔なる願望』 (PIA DESIDERIA 1675) コ、 引訂 〔訳者まえがき〕 二二に資料としてかかげたものは,SPener,Pia Desideriaの試訳(抄訳)である。当初はこれを,私な もつと解きほぐし・必要と思われる註解を本文のなかに挿入しながら,なにほどか論文に近い形をとってみたいと 考えていたのであるが,Spenerについては別の機会に少しく論じたこともあり〔p,また本書は言及されること の多い反面・その紹介はなされていないと思われるので,とりあえず試訳としてかかげることとし,註は一一主と して割註〔……〕において一一事実に関するものに限って最少限度入れるにとどめた。 二のような事情から,また紙数の制限もあって.圧縮の程度や文体に,いささか不統一が見られる。もとよりし かし,抄訳部分の選択は,訳者なりの視点と関心からなされている。(M.Schmidt編による抄本は非常に参考と なったが,必ずしもそれに従わなかったのも,必要以上に原語を挿入したのも,このためである。) 〔緒言〕の部 分では挨拶に関する部分を省いて,執筆に至る事情を取り上げ,〔第1部〕を比較的丹念に訳したのは,これを通 じて当寺の現状を生まの形で知るための思想史的関心によるものであり,〔第田部〕の諸提案のなかでは,2 〔精 神的司祭制〕と,5〔敬虔集会〕とに重点をおいた。本書はr敬虔主義(Pietismus)の概念と実践的行動プ・グ ラム」を提示したところに特色があるからである。 たしかに本書は,著者がしばしば引き合いに出しているルターで言えば,さしずめ彼の「キリスト教界の改善に 関してドイツのキリスト教貴族に与える書」(1520)に相当するものであって,本書が,後に「附録」とともに単 行本として「別に」aPart出版されたときには,「指導者と牧師たちに」(VorstehemundHirten 題をもって始められている。・2)しかし,ドイツ敬虔派を,いわば「ドイツにおげるピュウリタニズム」として捉え ようとする訳者の関心からすれば、Spenerをも横との比較史的考察に委ねる必要が生じてこよう。(3) 1 「’底本」PhiliPP Jacob Spener,Pia Desideria:oder Hertzliche gesalliger Besserung der wahren Evangelischen Kirchen, 2durchgese hene Auflage(Berhn:Walter de Gruyter1955). ”A1,と略してそのページ数を欄外に附記した。訳註における人名・生年・書名・聖書の参照箇所は同書の脚註 二多くを負っている。 2Derselbe・Ausder”PiaDesideria’fin:KlassikerdesP desPietismus’Hrsg・v・nMartinSchmidt(Bremen:Car1Sch 体に直された抄録である。 ”M”と略してそのページ数を欄外に附記し・同書に収録されていない部分は’一M、、として示した。 31bid-PiaDesideria・translatededitedandwithanlnt (Philadelphia:Fortress Press1964).(1)を底本とした最初の全文英訳本である。 ”T そのページ数は目次らり対照表にの入掲げた。英訳者によって,見出しがつげられている。 底イ〔泉文は,占いドイツ字(語)体が用いられ.ラテン語・外来語・人名・書名などは,ラテン文字で印刷され で.・る。引用の場合は,これを現代語体に改め,後者はイタリック体で示した。特別な場合を除いて,とくに引用 符r………」を用いなかった。省略・中略・後略箇所は………で示した。 〔………〕は訳者による挿入を・臆し,註 もすべて訳者によるものである。見出しは原文にはなく・英訳を参考にして, 〔………〕内に入れた。

シュペーナー 『敬虔なる願望』 (PIA DESIDERIA 1675)...gesalliger Besserung der wahren Evangelischen Kirchen,Hrsg.von Kurt Aland 2durchgese hene Auflage(Berhn:Walter

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27

シュペーナー 『敬虔なる願望』

(PIA DESIDERIA 1675)

堀 孝  彦 コ、引

〔訳者まえがき〕

 二二に資料としてかかげたものは,SPener,Pia Desideriaの試訳(抄訳)である。当初はこれを,私なりに

もつと解きほぐし・必要と思われる註解を本文のなかに挿入しながら,なにほどか論文に近い形をとってみたいと

考えていたのであるが,Spenerについては別の機会に少しく論じたこともあり〔p,また本書は言及されること

の多い反面・その紹介はなされていないと思われるので,とりあえず試訳としてかかげることとし,註は一一主と

して割註〔……〕において一一事実に関するものに限って最少限度入れるにとどめた。

 二のような事情から,また紙数の制限もあって.圧縮の程度や文体に,いささか不統一が見られる。もとよりし

かし,抄訳部分の選択は,訳者なりの視点と関心からなされている。(M.Schmidt編による抄本は非常に参考と

なったが,必ずしもそれに従わなかったのも,必要以上に原語を挿入したのも,このためである。) 〔緒言〕の部

分では挨拶に関する部分を省いて,執筆に至る事情を取り上げ,〔第1部〕を比較的丹念に訳したのは,これを通

じて当寺の現状を生まの形で知るための思想史的関心によるものであり,〔第田部〕の諸提案のなかでは,2 〔精

神的司祭制〕と,5〔敬虔集会〕とに重点をおいた。本書はr敬虔主義(Pietismus)の概念と実践的行動プ・グ

ラム」を提示したところに特色があるからである。

 たしかに本書は,著者がしばしば引き合いに出しているルターで言えば,さしずめ彼の「キリスト教界の改善に

関してドイツのキリスト教貴族に与える書」(1520)に相当するものであって,本書が,後に「附録」とともに単

行本として「別に」aPart出版されたときには,「指導者と牧師たちに」(VorstehemundHirten)という献

題をもって始められている。・2)しかし,ドイツ敬虔派を,いわば「ドイツにおげるピュウリタニズム」として捉え

ようとする訳者の関心からすれば、Spenerをも横との比較史的考察に委ねる必要が生じてこよう。(3)

1 「’底本」PhiliPP Jacob Spener,Pia Desideria:oder Hertzliches Verlangen Nach Gott-

 gesalliger Besserung der wahren Evangelischen Kirchen,Hrsg.von Kurt Aland

 2durchgese hene Auflage(Berhn:Walter de Gruyter1955).

 ”A1,と略してそのページ数を欄外に附記した。訳註における人名・生年・書名・聖書の参照箇所は同書の脚註

 二多くを負っている。

2Derselbe・Ausder”PiaDesideria’fin:KlassikerdesPr・testantismusBd.VI,ZeltalterdesPietismus’Hrsg・v・nMartinSchmidt(Bremen:Car1Schunemann1965).これは馴ぴイツ語

 体に直された抄録である。

 ”M”と略してそのページ数を欄外に附記し・同書に収録されていない部分は’一M、、として示した。

31bid-PiaDesideria・translatededitedandwithanlntr。ducti。nbyThe・d・reG.TapPert (Philadelphia:Fortress Press1964).(1)を底本とした最初の全文英訳本である。 ”T、、と略すが.

 そのページ数は目次らり対照表にの入掲げた。英訳者によって,見出しがつげられている。

 底イ〔泉文は,占いドイツ字(語)体が用いられ.ラテン語・外来語・人名・書名などは,ラテン文字で印刷され

で.・る。引用の場合は,これを現代語体に改め,後者はイタリック体で示した。特別な場合を除いて,とくに引用

符r………」を用いなかった。省略・中略・後略箇所は………で示した。 〔………〕は訳者による挿入を・臆し,註

もすべて訳者によるものである。見出しは原文にはなく・英訳を参考にして, 〔………〕内に入れた。

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28

〔目 次 対 照 表〕

 部12345部部123456

言I     H皿

緒第     銘銘

挨拶と執筆の事情

現状の批判

教会腐敗の原因

世俗的権力におげる欠陥

聖職者の欠陥

第三身分の欠陥

上述の欠陥から生じる罪

教会改善の可能性

教会改善の諸提案

聖書の広範な使用

精神的司祭制

知識と実践

宗教論争のあり方

教育改革とcollegia Pietatis

建徳のための説教

附 録〔目  次〕

    A

3頁  S.1

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25

b3030鈎401製 註(訳者まえがき)

 1 拙稿「ドイツ敬虔派の思想と運動一シュペーナーの場合一」 (論文編集上の都合で発表がお

くれている)。

 2 両書ともに,支配的身分への勧告という形をとっていることは,これを例えば(時代は下るが)

フランクリンの An Advi㏄to a Yomg Tradesman,1748と対比すれば,題名上からも興味深い

ものがある。

 3 すでにM.Weberは,Richard BaxterのChristian Dir㏄tory(2.ed・,1678)を,Spener

のTheologische Bedenken(1700-02),Robert Barclay(クエイカ一派)のApology(1675)など

との対比において取りあげている。VgL Die prot。Ethik und der Geist des Kapitalismus.

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シュペーナー『敬虔なる願望』 29

PIA DESIDERIA  の

 のへ

 会善

ち教改

わ義た

な主つ

す音な

 福か

 のに

 真意

  神

敬 慶 な る 願 望

の,一  目的を素朴に目ざした

若干の提案を附してフランクフルト・アム・マインの牧師兼主任

博士フィリップ・ヤコブ・シュベーナ一

二 人になす

者蓋附

学有を

神て禁

教め考

トわの

スきヘ

リに書

キ徳上

の建同

よ る

すべてのキリストの福音主義教会の忠実なる

指導者と牧師たちにわれわれの大牧者であるイエス・キリストにあって

愛され敬われた私の父たちと兄弟たちに

  〔緒言 挨拶と執筆の事情〕

謂   半年前〔1675年春〕に,アルント(Joham Amdt〔1555-1621〕)のr説教集」Postilla,

   〔Auslegung der罰ntagsevangelien1616〕の新版の出版者〔Johann David Zunner〕が

   この愛する作品の序文(P■∂∫40露。π)を書くよう求めてきたとき,私は,長い間わたしを嘆か

   せ良心を悩ませてきた多くのことを,この序文(Vorrede)に書きこもうと考えた。私と同様に

   嘆き,悲しむべき苦情を交互にもらしている無数に多くの人がいるのを,私は知っている。

    困窮と病気を見たら,その治療方法を探すのが自然である。キリストの聖なるからだ〔教会〕

謡  は,今や困窮と病気に悩んでおり,適当な薬を見いだして治療するのが,われわれの義務であ

   る。もっとも効果ある方法は,以前なら宗教会議を開催することであった。………敬虔な人びと

   (gottselige GemUter)は,それをどんなに待ち望んでいることであろう。しかしそれを待つ

   ていたら,われわれの願いが実現する前に,われわれは死んでしまい.改善(Besserung)は無

   期延期されてしまう。

一M   〔だから〕牧師たち(Prediger)が,これらの重要なことを互いに書くだけでなく,相互に

   公刊して論じ合うならば,それが今の時代に適した方法ではないだろうか。

    他のまじめな神学者たちは,はるかに以前から,まさにこのことを彼らの公刊書で行なってき

   たから,私はこのような提案をする最初の者ではない。……いくつかの会合においては投票の順

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30 福島大学教育学部論集第18号 1966-10

   序は下から始められ,最下層の者(die Unterste)は上層の者(die Obere)よりも偏見(P■4-

   oσoゆ4∫foπ)なしに,より自由に自分たちの意中を述べる機会を与えられているから,私がこ

   のような序文を書いたとしても僣越ではあるまい。

A5  一人よがりの判断にならないように……私はこの論文(Aufsatz)を,多くの同僚や同職者の

   前で一語一語よみ上げ,・1)それに異議を唱える十分な自由を与え,彼らが与えてくれたいくつ

   かの助言を,私は喜んで挿入した。その他の部分に関して,彼らはすべて私に賛意を表し,私を

   励ましてくれたので,私はこの序文を印刷へ廻したのである。

    〔その後〕多くの人が,この〔シュペーナーの〕序文だけを独立に入手したいと望んだので,

   私はよろこんで新版の準備を急がせた。

    私が一層その気になったのは,第一版が出た数か月のうちに,非常に有益で啓発的な批評的考

   察(Bedenken)を受けとったからである。それは,私の求めに応じて,ある地方監督 Super-

   intendent〔]oham Heinrich Horb1645-95〕(2.一が書いたもので,それを出版することの方

   が,取るにたらぬ私自身の著作よりも,一層有益だと思った。

A6  この批評的考察をよみ終ろうとしたとき,もう一つの批評(Judicium)が届いた。それは毛一

   が父と仰いできた一神学者〔Joachim Sto111615-78〕(3)によるものであり,これをも印刷し

   て人びとに伝えたいと望んだ。……そこでこれをも附録(Anh2mg)として収めることにした。(4)

    二,三の点において彼らは私の考えと離れてはいるが,われわれの間に公正に保持されるべき

A7 自由にしたがって,それらの批評はそのままにしておいたので,最も正当と思うものを読者は自

   由に選ぶことができる。

   フランクフルト・アム・マインにて    1675年9月8日

                       博士  フィリップ・ヤコブ・シュベーナー

〔第1部 現状の批判〕

〔1 教会腐敗の原因〕

魏   (時代のしるしとその特徴を説明するため)いくらか開明せるキリスト教徒の目を通して,今

   日のキリスト教界全体を見るならば,われわれはエレミヤの嘆きのことばをもって始めるのが至

A10 当であろう。rああ,わたしの頭が水となり,わたしの目が涙の泉となればよいのに,そうすれ

   ば,わたしは民の娘の殺された者のために昼も夜も嘆くことができる」(9:1)。……

一M  われわれは,外面的には信条が一致しているわれわれの福音主義的教会に視野を限る二とにし

   よう。ここでは前世紀〔16世紀〕に,神の恵まれた道具(seliges Rustzeug Gottes)でま、る

A11ルター博士によって今一度活気づけられたものの,再び悲しい状態に落ちこんでいる。

    現世の状態(das Leibliche)を注目すると,永い間,帝国と諸邦は悪疫・飢饉の惨禍,不断

   の戦争を経験してきたが,現世の繁栄による一層の絶望よりもまだましかも知れない。……

    むしろ,われわれの貧しい教会の宗教上の悲惨(geistliches Elend)の方が,一層危険てあ

   る。これには主として二つの原因がある。

    その一つは・反キリスト的バベルAntichristlichesBabel〔・一マ・カトリック教会〕によ

   る迫害である。……

A12 それは暴力的な血の迫害に失敗するや,別の形をとり,脅かしたり,現世の栄光を約束したり

   するが,この種の迫害の方が一層危険である。

    迫害は却って信徒を増し,教会の強力な肥料となるけれども,それにもかかわらず,やはり・

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シュペーナー『敬虔なる願望』 31

A13 一マ教皇権は,福音の真理が受け入れられた地方を取りもどしたので,これらの地方では福音の

   真理の告白者はいなくなり,真の教会の外面的概念はせばまった。

    したがってわれわれは,迫害そのものによる被害より以上に,その不幸な結果について心痛し

   ている。

A14 悲嘆の第二の主な原因は,われわれの教会そのものにおいて,到るところで何かが欠けている

   ことである。キリスト教の規律(Regel)が要求しているような状態にあることを,われわれが

   誇るにたる〔社会的〕身分(Stand)は,どこにあるだろうか?

〔2 世俗的権力における欠陥〕

・M8) われわれが,世俗的身分(weltlicher Stand)を観察し,その身分のうち,聖書にしるされ

   た神聖な約束(Esa.49:23)に従って教会の養父および乳母たるべき人びと〔王と王妃たち〕を

   見るとぎ,神が彼らに王権と統治杖とを与えたのは,彼らの権力(Gewalt)を神の国の促進の

   ために用いるためであったことを記憶している者は,彼らのなかで何と少いことであろう。大領

   主だち(groβeHerren)と関係をもっている人びとは,通常,宮廷生活によってもたらされ,

   それと不可分だと見なされているいろいろの罪や,あらゆる世俗の歓楽に生きているのでばなか

   ろうか。他のマギストラートたちMagistrate〔=Stadt-Obrigkeiten〕1ま.自分らの利益を

   追い,キリスト教の何たるかを知っているものさえ少く,ましてやキリスト教的生活を実践する

   ことなどて}きなL・。

盒11 彼らは,在来の純粋な宗教(die hergebrachte reine Religion)の維持や,偽宗教の防止

   に力をそそがず,それなのに,今なお十戒を承認し,教会のために貢献していると、思いこんでい

   る。だから表面的な宗教熱にすぎず,それは真理を愛することからではなくして,党派精神

   (∫σo’foπ),すなわち政治的利益(politisches1鋭8rθssε)を目ざしてなされるものである。

    神は,数百年前に教皇権主義(papstische Clerisei)の輔から彼らを解放したのに,彼らは

   教会の促進のために与えられた筈の権力を悪用して,教会を抑圧し,皇帝教皇主義(Cσ2sσro一

   ♪4ρfs規粥)を採用してしまった。そのために,住民が信奉しているのと同じ宗教を認める〔領

   邦〕政府のもとで生きるよりも(5),むしろ政府と住民の宗教〔叉は宗派〕が異なっている地方

   の教団(Gemeinde)の方が一層具合がよいとさえ言える。というのは,前者においては.政府

   による奨励よりも却って妨害をうけるのに反し,後者においては,なるほど多くを堪えねばなら

   ないにせよ,建徳(Erbauung)に役立つものの訓練は妨げられないからである。

〔3 聖職者たちの欠陥〕

    世俗的身分の状態が嘆かわしいのと同じく,聖職者の身分(geistlicher Stand)にあるわれ

M10 われ牧師でさえも,全く腐敗していることを,われわれは否定できない。教団における腐敗の多

   くは,これら二つの上層身分にその根源をもっている。かって昔,ある教父〔JohannesChri-

   sostomus407残〕が結論したようにr根は悪くないのに葉がしぼんでいる木を見るときと同じ

A16 く,民衆(ρσ,ρ堀”s,Volk)に規律がないのを見るときには,疑いもなく彼らの司祭階級(3σ08r-

   40∫伽加,Priesterschaft)が神聖でないことを,あなたは悟らねばならない。」私は,よろこん

   で,われわれの召命(Beruf)の神聖さを知っている。私はPアσε’or伽s〔Stephan Pratorius

   (1603残)ではなく・Christian Hohburg(1607-75)のことらしい。ラジカルな神秘主義的教会批判者の代

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32 福島大学教育学部論集第18号 1966-10

   表〕のように極端に走る気もないし,また浴水とともに児をすてる〔角を驕めて牛を殺す〕こと

   もしない。それにもかかわらず,われわれの身分のなかで,われわれ牧師たちが,いかなる身分

   が必要としているよりも多くの改革(Reforma“on)を必要としていると,言わざるを得ない。

   神が改革を計画されるときには,聖職者の身分から始められるのが常であった。

M11 真のキリスト教(das wahre Christentum)とは,単に外面的な悪徳を避け,外面的な道徳的に

A17 よい生活(auβerliches moral-gutes Leben)をおくるということ以上のものである。世俗的

   流行(Welt Mode)に魅せられた目を通して見るならば,聖職者たちは非難されるべきでない

   ように見えるかも知れないけれども,彼らの生活は,現世的快楽・目の保養・高慢な暮しに示さ

   れるような世俗的精神(Welt Geist)を,あからさまにではないにしても表わしている。

    彼らは昇進・教区から教区への転任・あらゆる種類の策謀の追求に汲々とし,……依然として

   古い家柄(alte Geburt)にぴったりとくっついており,再生の真のしるし(die rechten

   Kennzeichen der Wiedergebuft)を本当にはもっていない。

    民衆(die Leute)は,われわれの本性(Natur)が堕落しているために,つねに教訓よりも

   実例によって判断するからして,民衆は目前に見る腐敗した牧師たちのうちに真のキリスト教を

   見てしまう。醜聞(Argemis)があるということのみならず,それが醜聞として自覚されないと

M12 ころに,最大の醜聞がある。彼らが信仰だと思っているものは,実は人間の想像物(menschli-

   che Einbildung)にすぎない。他の人たちが彼らの研究分野で何ものか〔知識〕を学んでいる

   ように,これらの牧師たちは,たしかに彼ら自身の人間的努力によって,聖霊の働きなしに聖書

   の文字から何かを得,真の教説(rechte Lehre)を把握し,それを他人に説教する二とは知っ

   ていても,彼らは真の・信仰の神聖な光と生活(himmlichesLichtundLeben)からは遠く

   距っている。

    しかし私は,以上のことから,かかる人びとと彼らの働きによってはどんなよいことも成就さ

   れず,真実の信仰と回心(Bekehrung)はもたらされないと,結論しょうとは思わない。み

   ことばは,その神的力をそれ自身のうちにこそもっているのであり,み二とばを宣教する人間

A18 (Person)のうちにはもたないからである。……真実の信仰を自らもたぬ人びとは,みことばを

   通して聴衆に信仰を覚醒させるために彼らの職務(Amt)を遂行することはできない。……わ

   れわれ教師の多くが,われわれの教団に向って,パウロのようにrわたしがキリストにならう者

   であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい」(LCor・11:1)と,顔を赤らめ

   ることなくよびかけうる者であったとしたら,われわれは直ちに,一つの全く異なる教会(eine

   ganz andere Kirche)をもっことになるであろうのに。

M13  まじめな内面的敬虔(innerliche Gottseligkeit)の説教は,ある人たちには隠されていて,

   知られていないので,熱心にそれを追う者は,秘密教皇主義者・ヴァイゲノレ主義者(Weigelian-

   er)(6),クエイカー教徒(Quakers)という嫌疑を免れることができない有様である。

ム1島  至当な称賛に価するものを追求することのうちに,嫌疑や悪評の動機を求めるということ以上

   に,大きな悲惨と腐敗の証拠はない。r基(もとい)が取りこわされるならば,正しい者は伺をな

   し得ようか」(Ps、11:3)(7)。

編£  われわれは,真理に従うために真理を知るべきであるのみならず,誤謬に対処するために誤謬

   をも知るべきである。……それなのに教皇政治礼讃者(Papist)や改革派(Reformierte),再

   洗礼派(Wiedertaufer〔Anabaptist〕)などの誤りに答える方法さえ知っていれば,万事う

   まくいくと考えているのである。……

A22 多くのよそよそしい(fremd),役にたたぬ(unnUtz)ものや,世俗の知恵(Welt Weisheit

   哲学)を思い出させるものが,ここかしこで次第に神学のなかに導入されている。ルターがエル

    フルトの民衆に語ったように (Tom.2Altehb.pag.160.b), rサタンに注意しなさい。

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シュペーナー『敬虔なる願望』 33

M14彼は従来’哲学(philosophia)という手段を通じて大学においてやっていたように,役にたた

   ない質問をあびせてくる。」(8)

一M @ 親愛なルターの著作を・彼と同時代または少し後の他の神学者の今なお残存している書物や,

   今日出版されている大部分の本と比較してみれば容易にわかる。ルターにおいては偉大な霊の力

   と,高度の素朴さ(Einfalt)のうちに示された知恵に出会うのに反して,後者は空虚であり,

   近刊書においては’派手な人間的学識(menschliche8r忽4舜∫oπ)の道具だてに充ちている。

(M14)もし,われわれの聖ルター博士が再び立ち上がるとしたら,われわれのアカデミーにおけるあれ

A23 @これを,彼はしばしば非難しないかどうか,私は怪しむ。それらは,まさに彼が.当時熱心に非

   難ずべきものとして叱責したものにほかならない。……

〔4 第三身分の欠陥〕

A28 @ r第三身分(der(1ritte Stand)と,そのなかの大部分(die meisten)とを支配して,彼ら

   を真の敬虔へと導くべき〔上述の二つの〕身分における状態が以上のごとくであるから,第三身

   分における状態がどんなものであるかを推測するのは容易である。すなわち,キリストの規律

   (Rege1)が何ひとつとして行なわれていないことは,叉もやあきらかである。

    われわれの救い主は,その昔,「互いに愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたし

   の弟子であることを,すべての者が認めるであろう」(Joh・13:35)というメルクマールを与え

   られた。ここにおいて,愛(Liebe)が目印となっている。このような愛は,ヘルツのなかにい

   だかれているだけで実を結ばぬ(unfruchtbar)うわべの愛ではなくして,自己自身を公然と現

   わす愛である。IJoh・3:18〔言葉や口先で愛するのではなく,行いと真実とによって愛しあお

   うではないか。〕この目印によって判断するならば,大多数のうわべだけのキリスト教徒のなか

   から・きわめて少数の正しい真のキリストの弟子を見いだすことは困難である。……

    われわれは「ルター派教徒」(die Lutherische)とよばれているが,親愛なルターの教説を

   生きた信仰(1ebendiger Glaube)によっては理解していないから,かかる名前に値いしない。

M15私は,世間でも不正だと認められている悪徳については言うまい。このような醜聞は,究極的に

   はそれほど大きな損失をもたらさないからである。一層重大なのは,もはや罪(SUnde)として

   は認められないか,重大視されないような罪から由来するものである。このような醜聞のなかに

   数えられるべきものは・酩酊(Trunkenheit)である。それは単に,聖職者や世俗の身分におい

   て,高貴な場所や下賎な場所で流行しているのみでない。飲食業者は,酩酊が罪を犯すことにな

   ると容認しつつも,ひんぱんにならぬかぎり時折,友人の健康のために飲むのは決して罪ではな

   い,または咎めるに値せぬ罪だとして弁護する。だからこのような罪は,なんら後悔の必要ある

   (buβfertig)ものとは認められていない。甲…

A30 @つぎに・訴訟(Rechtsprozeβ)の一般的慣習を見てみよう。キリスト教的愛に外れないやり

M16@方で,それぞれの側によって運ばれる法廷は,むしろ稀である。………これらの請願においてわ

   れわれは,人びとからしてほしいと望むすべてのことを,隣人に対してなすべきである〔Jon.7

    12〕。このようなことが一般に行なわれておらず,大ていの訴訟当時者は,法廷を彼らの復し

   ゆう心・不公正・不作法の貪欲の道具としてのみ使用しているのは,これまた罪であるが,それ

   は罪とは見なされず,したがって懺悔のなかではそれについて殆ど述べられないのである。

一M@ 商業(Handlung)・手工業(Handwerk)および生計維持のためのその他の職業を見ると,

   すべてがキリストの規律にしたがって整えられておらず,これらの職業における多くの公的規定

   や伝統的慣例が’むしろキリストの規律と正反対に対立しているのを見いだすであろう。彼がほ

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34 福島大学教育学部論集第18号 1966-10

   とんどすべての注意をそれに向げている自分自身の必要の維持と取得 (Erwerbung)のみでな

   く,神の栄光(Gottes Ehre)と隣人の福祉(des Nachste Best)が,彼の〔生活〕状態におい

   てなすすべての目標であることを覚えている人がどこにいようか。たとい同胞(Nebenmensch)

   に厄介をかけ,彼らを抑えて搾取(aussaugen)しょうとも,世間では悪評を蒙らず,むしろ如

   才なく・ぬかりないと称賛されるような策略を良心に現じずにおこなっている。(g)一・…

(M16)  〔エルサレムにおける原始〕教会にあったキリスト教徒たちの共同体 (die Gemeinschaft)

   は,命じられなかったにもかかわらず,一つの別な財産の共有(eineandereGemeinschaftder

A31GUter)が全く必要だと,一体ゼれが考えたのだろうか〔Apostel.2:44;4:32〕。私は自

   分自身のものを一切もたず,すべては神の所有であって,私はその管理者(H&ushalter)に指

   名されているにすぎず,私の所有物を私が欲するときに自分のものにすることは許されていない

   ということを,私は知っているからである。しかし逆に,家長(Hausvater)の体面と,私の召

   使(Mitknecht)の必要のために,私の所有物を用いるよう愛が要求するのを見たら,それを共

   同の財産(gemeinschaftliches Gut)として提供するのを,躊躇してはならない。たしかに同

   胞は,共同の財産を世俗の法(weltliches Recht)によって要求することはできないが,私け神

   的な愛の法(96ttliches Recht der Liebe)をそこなわずに,それを与えるのである。・…・・〔そ

   れは〕キリスト教的愛の必然的帰結であって,原始教会を通じてずっと現われたので,誰も自分

   の所有物をもたない完全な財産の共有(ganze Gemeinschaft)ということが,徳とキリスト教

   的愛への機会をやめさせることもなく,また世俗的所有物 (das weltliches Eigentum)が,

   兄弟愛の妨げとなることもなかったのである。

M17  したがって原始教会においては,富んでいる者たち(die Reichen)は,よきわざ (gutes

   Werk)においても富んでいなければならねということと(L Tim.6:18),財産を管理する

   配慮と辛労をもっているということ以外に,どんな特権も持たなかった。彼らが神と隣人への愛

   をそれによって確証(bezeugen)できるとき,そしてその必要を見たときには,いつなりとも

   その財産を用いる用意を彼らはしていた。 〔他方〕貧しい者たち(die Armen)は、彼らが自活

   するのではなくして,同信者たちの助力によって生きるということ以外にはどんな重荷(もしそ

   れを重荷というならば)も持たなかった。そして兄弟たちのもとにあっては,物乞い(Bettel)

   の必要などなかったし,そのようなものが現われたら,彼らにとってたしかに不相応だと考えら

   れた。旧約聖書における神は,ユダヤ人に対し,そのよく整備された国家制度(Polizei)におい

   て.物乞いを許そうとしなかった(DeuteL15:4)。しかし今や物乞いは,全く当りまえのこ

   ととなったばかりでなく,一それは多くの恐るべき罪の手段・奨励・かくれみのとして,本当

   の困窮者の虐待として,そして叉キリスト教的慈善(Mildigkeit)に好意をよせる者にとって

   も,公共(das gemeine Wesen)の危険な弊害どころかキリスト教の汚点にさえなると見なさ

   れるべきなのに一それのみではなく,大ていの人は貧しい隣人に善をほどこす方法としては,

   ただ時たま,物乞いに不承不承,数ヘラー〔小銅貨〕を投げ与える義務をしか思いつかない。qg)

   彼らの生計が施し物の支出によって顕著に影響をうけようとも,このような愛の行為を実行する

A32 責務のあることを,彼らは全く理解しないのである。旧約の人びとは,(律法から知られるよう

   に数種類の十分の一種Zehnteがあったので)祭司職の維持・神の奉仕・貧しい者のために,教

   会によって十分の一以上をたくわえて,与えねばならなかったのに反して,われわれは.旧約の

M18 人たちが受けとったのよりも一層ゆたかに,キリストによって示された施しが,われわれに義務

   づけられている二とも,また隣人の必要がそれを要求したときには,われわれの所有するすべて

   を与える用意をしておくべぎことも,考えていない。……

一M  ここでは,すべてを一々挙げつくすことはできないが,これらの例は,このような罪が(それ

   は罪とば考えられていないだけに,一層損失が大きい)われわれの間で優勢なことを示すのに十

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シュペーナー『敬虔なる願望』 35

   分であろう。

    われわれは更に,大多数の民衆(der groβe Haufen)が,「神への奉仕」についてどのよう

   に考えているのかを見よう。それはPσ躍丁σrπoび〔1562-1633〕博士が,『新しい福音につい

   ての講演』0〆観ioπ48蜘”Emπ8θ1ioo〔t624年,Rostockでなされた〕のなかで見事に述

   べているように,有益なわれわれの教説に適合していない。

rM18) われわれは,よろこんで次のことを承認する。qDただ信仰のみによって(einig und allein

   durch den Glauben)救われなければならないこと,そしてわれわれの「わざ」(Werk)や敬

   塵な生活は,祝福〔救済Seligkeit〕を何ら増減しないこと。神はすでに,われわれの信仰に,

   正義と祝福を与え給うたのであるから,われわれのrわざ」は信仰の果実(eine Frucht des

   Glaubens) として,われわれが神に対して負っている感謝に関係づけられていることを。……

   われわれはまた,神のことばが語られるとき,その力をよろこんで承認する。それは「すべて信

   じる者に救いを得させる神のカである」 (R6m.1:16)からで友,る。われわれが神のことばを

   聴くようにさせられているのは,そのように命じられているからばかりではなく,それが信者に

A33恩恵を提供する神聖な手であるからであり,ことばそれ自身が聖霊を通じて信者に恩恵をよび起

   すのである。私は,洗礼(Taufe)とその力とをどれほど高く称賛してよいかわからない。それ

   はr〔わたしたちの行った義のわざによってではなく,ただ神のあわれみによって〕再生(Wie-

   dergeburt)の洗いを受け,聖霊により新たにされる(Emeuerung)」 (Tit.3:5)ことであ

   ると,私は信じている。あるいはルターが〔小〕教理問答書で述べているように,洗礼は罪を許

   し’死と悪魔から解放し・永遠の救済を(約束するのみならず)与える働きをする〔iv.6〕。

   私は・聖さんにおいて’主の体と血を,ただ単に精神的にいただくのみではなく,サクラメント

   として口ずから拝領するとき,栄光ある力を,よろこんで承認する。この点に関して私は,改革

   派(Refomierte)の見解に心から反対する。彼らは,救いの保証(Pfander)を,パンとブド

   ウ酒とのなかに(in),それとともに(mit),それの下に(unter)得ることを拒否し,またそ

M19 @の力を弱め,サクラメントを精神的に拝領すること (geistliche Niessung)以外にも存在する

   ものを,まったく認めないからである。私は,われわれ〔ルター〕教会のこれらの教説のすべて

   に’ヘルツと口とをもって従い・他のいかなる著者よりもルターの著作のうちに一層多くのよろ

   こびを見いだすけれども,〔その反面〕福音的とよばれている多くの人びとが,われわれの教説

   と信条に反した異なる思想(andere Gedanken)や想像をもっているのを,私は否定できない。

    公然と非キリスト者的生活を送り,あらゆる点で規律を犯していることを自ら否認できないほ

   どになっている人や’自分たちのやり方を将来改善する意図もないのに,救われることを固く信

   じていると自負する人が’何と多いことであろう。……そオ1・ゆえ彼らは,救いを得させる信仰の

   代1)に,信仰の世俗的幻想をいだいているのである。これこそは悪魔の恐るべき購着であ1),救

   済を人間の妄想に帰着させるものである。これは,われわれのルターが信仰について語っている

   ことと,いかに異っていることか。

A34  一信仰宏丸ある人たちが信仰だと思っているような人間的な妄想や夢ではない。生活の改善(Besserung

M20  des Lebens)も,よぎわざ(gute Werke)も結果しないのを見,しかも信仰についていろいろと聴い

    たり語ったりできるときに,彼らは誤謬におちいって,敬虔(fromm)となり〔義とされ〕祝福されよ

    うとするには信仰は不充分であって,わざをなさねばなうぬと彼らは言う。これがために彼らは,福音を

    聴いても上滑りし,自分の力からヘルツのうちに一つ・ラ思想を作りだして『わたしは信じる』と言い,二

    れこそ本当の信仰であると見なす。しかしそれは,ヘルツの底の全く関知しない人間的な作りごとと思い

    つきにすぎないので、それは何をもなし得ないし,そ二から何の改善をも生じない。しかし信仰は,われ

    われにおける神りわざであり,われわれを変えて新しく神から生オtさせ(Joh.1:13),古いアダムを殺

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36 福島大学教育学部論集第18号 1966-10

し,ヘルツも精神もおもいもすべての力も,われわれを全く別人となす。……これこそ,信仰についての

生ける・活動的な・能動的なものであって,それが不断に善を働きださないということはありえない。一

…」(13)

一M  われわれの側からの(von unser Seiten)救いの唯一の方法としての信仰についての,〔上述

   した〕空しい想像が多くの損失をもたらすのと同じように,みことばとサクラメントという神の

A35 側からの方法(von Seiten der g6ttlichen Mitte1)もまた,行為の単なる外面的遂行(opus

   operatumなされたる仕事)という恥ずべき観念をもたらす。これは,多くの人を永劫の罰に導

   き,真の信仰の誤まった観念を強め,教会にとって少なからず有害である。……少くとも官憲

   (Obrigkeit)によって罰せられない生活を送るならば,〔それでよいと〕思っている人たちが

   多い。・

(M20) もちろん神は,あなたが唯一度受洗するように,あなたに洗礼を施す。しかし神はあなたと契

   約(Bund)を結んだのであって,それは神の側では、監恵の契約であり,あなた〔人間〕の側で

   は信仰とよき良心(Glaube und gutes Gewissen)の契約である。この契約は,あなたの全生

   涯を通じて継続しなければならない。もしあなたの側で,信仰と,よき良心の契約を守らないな

   らば,洗礼と救いの恩恵を享受するのは無駄である。……

    神のことばを聴くことは正しいが,それを耳(Ohr)できくのでは不十分である。みことばを,

M21あなたのヘルツ(Herz)へ内面的に滲透させ,そこで聖なる糧(かて)を消化し,かくしてみこ

A36 とばの活力と力を,あなたは受け取る。さもなければ,一方の耳から入って他方の耳から抜ける

   ことになってしまう。前者であれば,「めぐまれているのは,ことばをきいてそれを守る人たち

   である。」(Luk.11:28)という主のことばが,あなたに当てはまる。……

    われわれの福音主義的ルター教会は,真の教会であり,その教説(Lehre)においては純粋

   (rein)であるけれども,不幸にしてその外面的形態(auβerliche Gestalt)においては,悲し

   むべき状態にあるのである。

〔5 上述の欠陥から生じる罪〕

    このような事態について,もっとも憤激しているのは,われわれの周囲に住んでいるユダヤ人

A37たち(〕uden)である。彼らはその不信仰を強められ,それどころか主のみ名を冒漬するよう扇

   動されている。われわれは,その人の命令に全く服従しないようなキリストを真の神だと見なす

M22 のであるが,彼らユダヤ教徒は,そのようなことが可能だと信じることはできないし,もしイエ

   スとその教説を,われわれ〔キリスト教徒の堕落した〕生活から判断するならば・イエスは悪人

   であったにちがいないと,彼らは結論するであろう。われわれがこれらの貧しい人に与えてきた

   憤激が,ユダヤ人の今までのかたくなさの主な原因であり,彼らを改宗させることの主たる妨げ

   であったことを,われわれは否定できない。

A38 ユダヤ人に加えて,あらゆる種類の異端者(die Irrglaubige)が,われわれによって憤激さ

   せられている。とくにわれわれに対して敵対的な教皇政治礼讃者(Papist)は,これが〔われわ

   れキリスト教徒のかかる生活が〕あたかも福音主義の教説と,ルターの改革 (Reformation

   Lutheri)との果実であるかのように,そのことについて自慢しつづけている。

A39 彼らのほかに,われわれは,ローマ教会と同じく,バベルに閉じこもっているので,そこから

   立ち去りえたと自慢するわけにはいかない,と結論する人たちが,気だてのよい人びとを含めて,

   多くいる。

    このような〔悲劇的な〕状況があるために,他の異端の教団とくにローマ教会のもとにあって,

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シュベーナー『敬虔なる願望』 37

   しかもこの忌まわしい行為をかなりよく認識している気だてのよい人びとが,かって彼らがなし

   たように.われわれの自由になる 〔われわれと合同する〕ことを妨げているのである。 (その

   上,信じがたいと思われるだろうが,外面的にはローマ教会のうちにありながら,教皇とその司

   教が,神によって予告された反キリスト(Antichrist)であると真に考えている人びとがおり,

   その人びとのヘルツの底には,ときどき哀れな悲嘆の色をうかばせている。)……

A40 たしかに,これらの人びとは,われわれの教会の教説を理解する機会を十分にもっているのだ

   から,われわれは彼らを弁護することはできない。さらに,われわれの教説が神のことばと一致

   し,彼らの教説がみことばと矛盾するのを,もし彼らが知るならば,彼らは少くとも教説におい

   ては純粋な(rein)q4)教会と合同する(zugesellen)ことを,彼らの良心において余儀なくさ

   れるであろう。……

〔第1部教会改善の可能性〕

舗3  もし,われわれが聖書を顧慮するならば,神が,地上の教会のよりよき状態 (besserer

   Zustan(i)を,約束し給うたことを,われわれは疑うことができない。……

脇差  つぎに,われわれは,教皇ローマにおける一層大きな没落をも期待できる。もっとも,ローマ

   はわれわれの聖ルター氏によって著しい打撃をうけたが,その精神的な力はなお非常に強いので,

M23 〔ヨハネ黙示録〕18章と19章の啓示における予言が完全に充たされたとは言えない。

    これら二つの事柄が生じるならば,すべての真の教会が,現在のそれよりも一層栄光あるすば

   らしい状態におかれるであろう。ユダヤ教徒を改宗させるには,すでに真の教会が現在よりも一

   層神聖な状態にあらねばならず,そのような神聖な生活が,同時にユダヤ教徒改宗の一方法とな

   り,少くとも改宗の障害(それは,さきに見たように,これまで彼らを憤激させてきたことのう

A45 ちに存した)を除去する。他方,もしユダヤ教徒が,われわれには今なお予見不可能な方法で,

   神の力によって改宗するならば,この新しく改宗した人びと(彼らはキリスト教徒に改宗した最

   初の異邦人の場合と同じ熱心さを疑いもなく示すであろう)の実例が,われわれの教会における

   顕著な変化と改善を惹き起すであろう。むしろユダヤ人と異邦人とから成るすべての神の教会

   が,いわば競争しながら,一つの信仰とその豊かな果実において神に仕え,聖なる熱心さをもつ

   て,相互に啓発し合うことが希望されるべきである。

    約束の成就を希望するためには,われわれはそれを無為に待ち望むだけでは不十分である。一

M尉 方ではユダヤ教徒を改宗させ,教皇権の宗教上の力を弱め,他方でわれわれの教会を改善するた

   めに,できるだけのことをするのが,われわれすべての義務である。

A47 われわれが,ここであまりに多くを意図し求めているとは考えないでほしい。われわれはブラ

   トγの理想国家(紹ερπ房∫0σP1部伽尭σ)1こ住んでいるのではないから,すべてを完全に,規

   律通りにもつことは不可能である。だから〔われわれの〕時代の悪しき状態(b6se Beschaffen-

   heit der Zeit)を,憤って嘆くよりも,憐れみをもって耐える(tragen)ことである。……し

A48 かし,たといこの世では,何ものもっけ加え得ぬほどの完全性(Vollkommenheit)には達しえ

   ないとしても,それにもかかわらず,ある程度の完全性に達する責務がわれわれにはある。……

    われわれが教会によって要求されている完全性は,一人の偽善者も教会に見いだせないほどの

M25 完全性だとは思わない。そうではなくして〔われわれの意味するものは〕,教会は明白なつまず

A49 きから自由であるべきこと,かかるつまずきを負っているものは何人も,相当の叱責と,究極的

   には排除(15)なしには教会のうちにとどまることを許されるべきでないこと,しかし教会の真の

   成員は〔信仰の〕多くの果実でもって豊かに充たされているべきことである。…

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38 福島大学教育学部論集第18号 1966-10

    このことが不可能だと、思うならば,原始キリスト教会(erste christliche Kirche)を例とし

   て挙げよう。そのとき可能であったものが,〔今日〕絶対に不可能であるとは証明でぎない。原

   始教会においては,キリスト教徒は一般にその敬虔な生活によって知られ,それによって他の人

   びとと区別されるというような至福な状態にあったことを,教会曳くdie Kirchenhistorien)が

   証明している。・…一

A52  その時代の〔原始〕キリスト教会の状態は,われわれの悲惨な状態を恥じ入らせるにもかかわ

   らず,われわれの求めているものが不可能ではないことを示している。・…一

    われわれのすべてにかかわることにおいて,すべてのキリスト教徒,とくに主が各地で教会の

   守護者に任じた人びとは,教会のその時々の状態を診断し,その改善方法を考える責務がある。

A53  ・だから大胆にも私は言おう。聖書に導かれた敬虔な考察によって・私は有益で必要と認める

   ものを,ここに書きとめよう。

    神の祝福を信頼し,教会にとって最善なものを告知している他の人びとによろこんで服しつつ,

一M このことについての和、のったない考えは,次のようなものである。一…・(たとえば,最も重要な

   教会規律Kirchenzuchtの確立,青年の教育Auferziehung der]ugendなど。)

〔第1部 教会改善の諸提案〕

1〔聖書の広範な使用〕

(M25) われわれの間に,神のことば(Wort Gottes)を,一層ゆたかに,もたらすよう考慮されるベ

ーM  きこと。われわれは,生来(von Natur),なんらの善をわれわれのうちにもつていない。われ

   われのうちに何かよいものがあるとすれば,それは神によってもたらされたものでなければなら

   ない。神のことばは,この目的のための強力な手段である。信仰は福音を通じて燃えたたせられ

   ねばならず,律法はrよきわざ」の規律と,それらを追求するための推進力(Antrieb)とを与

A54 えるからである。神のことばが・われわれの間に・一層ゆかたに宿るほど,信仰とその果実が一層

   多く得られる。神のことばは,いろいろの場所において(そしてこの都市〔フランクフルト・ア

   ム・マイン〕においても)日々(taglich)どこか他のところで,しかもしばしば講壇から説教さ

   れているので,(ゆわれわれの間に十分に宿ると思われる。……

M26 指定された聖書の章句(Text)についてのおぎまりの説教〔キリスト教暦年(Kirchen」ahr)

   の指定日課書,聖書抜粋(Perikope)〕のほかに,それとは別の方法で,人びとを広範に聖書

   (H。Schrift)へ導くように,教会は助言されているべきである。

    1 このことは第1に,聖書そのもの,とくに新約聖書を熱心に読むこと(Lesung)によって

   果たされる。すべての家長(HaUSvater)が彼のバイブルを,少くとも新約聖書を手もとにおい

   て,毎日少しよみ,もし家長がよめなかった身)誰かによませることは困難でない筈だ。…

1}薪5  2 次に,人びとを励すためプライベートによむこと(privat Lection)が望ましい。すなわ

   ち,公開の教団で一定の時間,聖書を(短い要約をつけ加えるよう希望されないかぎり)それ以

〔M26)上の註釈なしに,順々に(nacheinander)よむのがよい。これは聖書を全くよめないか,すらす

   らは読めない人,聖書をもっていない人たちの徳性の橘養(Erbauung)に役立つ。

    3 古代の使徒たちの教会集会の方法を再興するのが便利である。われわれのおきまりの説教

   のほかに,バウロが述べているような仕方で(L Kor。14:26-40〔二,三人が順々に語り,一

   人がそれを解く〕),別の集会(andere Versammlung)が催される。一人だけが説教のために

   立つのではなく,天分と経験に恵まれた他の人たちも,混舌しや喧噪なしに語り,提示された素材

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シュペーナー『敬虔なる願望』 39

   について敬虔な意見を提供して,残りの人たちの判断に委ねる。このような方法は,ある時に牧

   師職から何人かが(すなわち多くの牧師がいる所〔都市〕においては)会合するか,さらには,

   神についてかなりの認識を有し,それを増したいと願っている別の数人の者(andere mehrere)

M27 が教団から,牧師の指導のもとに会合して,聖書をとりあげ音読し,素朴な理解と,建徳に役立

   つものを得るため,各節について親しく語り合うことによって,都合よくなされる。……

A57 神のことばの熱心な行使(Handlung)こそが,何かを改善する主要な方法である。みことば

   は・単に説教を聴くこと(Anh6mng)のみにではなく,読み・省察し・語’)合うこと(Lesen,

   Betrachten・davon Unterreden)にある。みことばは,われわれのうちに善を成長させる稜子

   (Same)であり・この生命の書のうちに喜びを見いだすようになれば,その人は全く別人(ganz

   andereLeute)となるであろう。

    ルターが述べているように(17一,……教皇制度(Papstum)における根本的な誤りの一つは一

   一そのことによって教皇政治的国家理性(papstliche S∫αα∫舘躍foπ)は身を守り,民衆(die

A58 @Leute)を無知にし,かくして民衆の良心(Gewissen)に対する絶対的権力(v611ige Gewalt)

   を保持したのであるが  聖書をよむことを禁じ,叉できるだけ禁止しようとしたことであった。

   それに対して宗教改革(Reformation)の主な目的の一つは,腰掛の下にかくされたままであっ

   た神のことばを,再び民衆に返還したことである。今や教会は,よりよき状態におかれることを

   再び必要としているから,上述のことが根本的な方法となるであろう。

2〔精神的司祭制〕

M28  しばしば言及してきルター博士は,第1の方法と両立するもう一つの方法を提案している。す

   なわち,精神的司祭制 (geistliches Priestertum) の確立と,その熱心な練習である。牧師

   (Prediger)のみではなく,すべてのキリスト教徒 (alle Christen) が救世主によって司祭

   (Priester)とされ,聖職者として司祭の役目に献身することである。ペテロが「あなたがたは.

   選ばれた種族,祭司の国.聖なる国民,神につける民である」と書いたとき(1.Petrus2:9)

   それはペテロが,牧師たちだけに話しかけたのではない。このことについての,われわれの師

   Lehrer〔・レター〕の見解ぽ,ボヘミア人への書に詳しい。(18)教会のしもべを,どのようにして

   選び,任ずるべきかについて述べられている。そこにおいて,すべてのキリスト教徒に,差別な

   く(ohne Unterschied)聖職者の職務が帰属する。たといその職務の正規の公的遂行は,この

   目的のために指名されたしもべ(Diener牧師)に委任されるとはいえ,緊急の場合には他の人

   によっても遂行できる。とくに公的な行事に属さないことは,つねに家庭で,日常生活のなかで

   (immer zu Haus und in dem gemeinen Leben) すべての人によってなされるべきであ

   る。……

A59  すべてのキリスト教徒は,彼自身と彼がもつもの,彼の祈り・感謝・よきわざ・慈善(Almosen)

M29 などを提供するのみでなく,主のことばを熱心に学び,授けられた恩恵にしたがって,他の人た

   ち,とくに家族の着たちを……教化(erbauen)する責務がある。……他方,これらの教説が知

   られず実行されないところがら,自己満足と怠惰(Sicherheit undTr~igheit)が生じる。すべ

   ての人は,これが自分に関わることだとは考えていない。そうではなくして,各人はその官職・

   商業・手工業(Amt,Handel,Handwerk)などに召命されている(bemfen)が,牧師(Pfarrer)

   はこのような職業に召命されず,そこで働くこともないのに反して,牧師は聖職の遂行のみに召

   命され,その他の人びとは〔聖職に〕かかわるべきではなく,それど二ろか彼が聖職に関係すれ

A60 ば’それは牧師の職務に干渉することになるかのように,想像している。……この司祭制度をき

   ちんと行使することによって,牧師職に損害は与えないだろう。牧師職がなすべきすべての二と

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40 福島大学教育学部論集第18号 1966-10

   を実行できない主な原因は,普遍司祭制(gemeines Priestertum)の助力なしには,それがあ

   まりにも弱く,牧師一人では多人数の建徳に必要なことをすべて果たすことは不可能だからであ

   る。もし〔一般の〕司祭たちが彼らの職務を果たすならば,牧師は彼らの指導者・長兄として,

   彼の職務における立派な助力をもつことになり,牧師の重荷は非常に重くはならないであろう。

一M  ルターの時代以降,ほとんど追求されることのなかったこれらすべてのことを,いかにして人

   びとに周知させるかということのみでなく(そのためにはJohannVielitz〔1600-80〕の敬虔

   な説教集が役に立つ),もっとよく実行する方法が講じられるべきである。私に関して言えば,

   それぞれの教団において数名の者が,これら二つの活動(神のことばの熱心な行使と,司祭の義

   務の実践)を勝ちとれば……非常に多くのことが得られ,ついには教会は目に見えて改善される

   と確信している。

3〔知識と実践〕

M30 以上二つの提案と関連して第3の提案は:キリスト教の知識(Wissen)をもつだけでは決し

A61 て十分ではなく,キリスト教はむしろ実践(ρrσ廓S)のうちにあることを,人びとに信じさせる

   ことである。・

    もしわれわれがキリスト教徒のなかに,先ず最初は相互間に,ついですべての人間に対して(兄

   弟愛と普遍的愛とは相互に補い合わねばならない。2PetL1:7),熱烈な愛をかきたてて.

   この愛を実践できるならば,われわれの望むすべては成就されるであろう。……

4〔宗教論争のあり方〕

A62 これに関連して第4の提案がある:われわれは,不信者または異端者(Un-oder Falsch-

   glaubige)との宗教論争(Religionsstrittigkeit)において,どのように振舞うか用心しなけ

   ればならない。・

M31  1 われわれは,神が迷える者たち(die Irrende)に光を照らし給うように,……熱心に祈

   る義務を負っている。

    2 われわれは,彼らにょい例を与え,決して彼らを憤激させぬよう最大の注意を払わねばな

   らない。

    3 われわれのもっている真理は,謙虚なものではあるが確固としており,それがキリストの

A63 教説の素朴さに基づいていることを,彼らに指摘できる。同時に彼らの誤りが,いかに神のこと

M32ばと低触し危験であるかを,寛大に,しかし力強く示すべきである。これらはすべて彼らへの心

   からの愛からなされていることを,彼らがわかるような仕方でなされるべきであり,罵言や個人

   的あてこすりを戒めなければならない。……

    4 不信者や異端者に対しては,むしろ激しく反対すべきであるが,人間生活に属する他の事

   柄においては,普遍的被造物の権利と遍在する神の愛にしたがって(再生Wiedergeburtにし

   たがってではないが),彼らを隣人・兄弟とみなしていることを示すべきである。……

    〔5〕もしキリスト教徒の諸宗派の間に合同(Vereinigung)の見込みがあるならば,それを

A64達成する最も近い道は,すべてを論争(Disputieren)に賭けないことであろう。現在の人間の

一M 性向は肉欲的・精神的激情に充ち,論争を不毛に終わらせるからである。……r教説と神のこと

   ばの濁りなさは,論争によってではなく,真のざんげ (Buβe) と神聖な生活によって保たれ

   る」 (Amdt,Wahres Christentum〔L39,S.257ff〕)。一一

A65 それゆえに,(1)必ずしもすべての論争は有益かつ善ではないのと同様に,(2)真の論争は真理を

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シュペーナー『敬虔なる願望』 41

M33 主張する唯一の方法ではなく,そのほかの別の方法を要求する。たとい論争の目的を整えて,真

   の教説が神のことばと一致することを人間悟性(menschliches Verstand)が認識することに限

一M @定しても,……神は祝福を与え殿であろう。(このことがあてはまるのは,多くの人をルター教

   徒に仕立てることしか考えない人たちの場合である。彼らは,しん底まで真のキリスト者(wah-

   re Kem=Christen)となることこそ重要なのだとは考えず,信仰告白を,自分らの〔ルター〕

説諭党派(ノσofloπ)を強化する手段としてのみ考えている。)……このような真理の〔知的〕確信

   (oo”毎。ヴof擢ε〃80∫郷)は信仰から遠く距っており,信仰にはより以上のものが属してい

   る。……とくに・われわれが〔真理だと〕認識しているものを・自分自身と他のすべての人に適

   用して神の栄光(Ehre Gottes)を増し,この光のうちで神に奉仕しようとする欲望(Begierde)

   がなくてはならない。……

M34  だから論争は,真理を主張したり,それを迷える者に伝えるだけでは足りず,神の愛が必要で

   ある。・

5〔教育改革と collegia pietatis〕

A67 @牧師たちは教会の改善(der Kirche Besserung)において,全力をあげて職務(Amt)を遂

   行せねばならないから’彼らに欠陥があれば,それだけ損失も多くなる。したがって教会改善の

   ためには’適任者のみが召命(berufen)されること,すべての職務行為(Berufswerk)におい

   ては’神の栄光以外のものは心に留めないことが必要である。このことは,好意・友情・贈物

   (Gunst,Freundgchaft,Geschenk)などの現世的意図を目ざしたものを一切除外すること

   を意味する。

    ところでこのような適任者は,ともかくも手に入れられねばならず,したがってわれわれの学

   校と大学(Schulen und Universitaten)において教育されねばならない。……

A68 @学生たち (3’μ4iosi) は,勤勉と研究に着手するのと同様に,敬虔な生活 (gottseliges

   Leben)に着手すべきである。敬虔な生活なしの研究は,価値がない。・…一

A71  もし教授(」ρ〆0∫θ330r)が学生たちの生活と研究の両面に注意を払ってやれば,非常な助けと

森羅 なる。……たとい研究においては人後におちても,敬婁な生活を導く学生こそ,第一に推薦され

   るべき者であり,才能はすぐれていても功名に走る学生は,行為の仕方を変えないかぎり推薦す

   べきではない。……

    〔だから〕すべての学生に’その能力や勤勉のみでなく・敬婁な生活に関する証明書(Zeugni9

   を,大学から出すようにすればよい。

    もし教授たちが,彼ら本来の熟達さをもって,各学生の天分・祖国(Vaterland)・職業上の

   希望などにしたがって・どのような研究が有益で必要で左)るかを観察すれば・非常によい。湊,る

M36 者は,もっと熱心に公然と(8%ρro∫召∬0,職業上の準備のために),論争(CO’〆0兜rsfσ8)を

   追求することも,たしかに必要である。教会は常に,真理の敵と言い争うために十分武装された

   人を必要としているからである。

A74  しかし不必要な論争は,奨励するよりも短縮すべきである。すべての神学は,使徒たちのよう

   な素朴さ (Einfalt) に再び帰るべきである。……学生たちに.『ドイツ神学』  (Deutsche

   T加0108iε)のようなな素朴な小著を,ついでタウラー(Johannes T且uler 〔1300-61〕)の

   著作を一一いわば,そこから,聖書についで親愛な,われわれのルターが生まれたのであった一

   一すすめることも有益である。これは・しター自身の勧めであった。「もしあなたがドイツ語で書

   かれた,昔の純粋な神学をよみたいならば,タウラーの説教集を得ることができる。……これ以

   上に純粋で健全な (rein und heilsam)神学は見いだせない」(Luther,23.Eρ∫3fε1an

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42 福島大学教育学部論集第18号 1966-10

   Sρα1σ∫i%〔14、Dezember1516〕)。『ドイツ神学』に関してルターは,意見を述べている(ル

盒奮 ターは,本書をもタウラーに帰しているが,のちに書かれたもの〔1380?〕であり,それは,ここ

   フランクフルトで書かれたと推定されるかぎり(1g),このわれわれの都市の特別の名誉と思う)。

   r私が,神・キリスト・人間およびすべてのものが何であるかを学びえた書は,聖書と聖アウグ

   スチヌスについで,本書のほかにはなかった」 〔Theologia deutsch,1518年版へのルターの序

   交。WA I,378〕。だから同書も,親愛なア・レソトによって序文をつけて再干1Jされた。……以

金器 上二書のほかに,トマス・ア・ケンピス(丁加㎜s a Kθ勉ρ∫s 〔1380-1471〕)の『キリスト

   にならいて』(NachfolgungChristi)が挙げられるべきである。これらの小著は,その時代の

   暗黒(Finstemis ihrer Zeit)が,それにつきまとってはいるが,非常に高く評価されるもの

   である。…一・

    神学は,まさに実践的態度(肋δ∫fμsρ■σo∫ioμs)であり,単なる知識の学問(Wissenschaft)

   にあるのではないという理由によって,研究もまた単なる蓄積や知識の伝受では十分でない。し

   たがって学生が,実践とその教化(Erbauung)に属することに慣れ,それを経験できるような

   訓練を種々設ける方法が考えられるべきである。もしこのような材料が,ある講義(Co”θ9伽泌)

   において熱心に扱われ,とくに救世主とその使徒たちから得る生活の規律(Lebensrege1)を学

   生に印象づけるなら,それは望ましいことである。……

A77  どのようにしてこの訓練が試みられるかは,教授に任せられねばならないが,もし私に提案が

M39許されるならば,次のようなことが役に立つと思う。敬凄な神学者(einfrommerT加0108μ3)

   が,多数の学生とではなく,すでに高潔なキリスト者たらんという心からの願望 (herzliche

   Begierde)をもっている聴講者のなかの少数の者だけとともに,訓練を始めることである。彼

   〔神学者〕は,博識(Erdition)に属することなどは考慮せずに,学生の徳性の涵養に役立つこ

   とのみに注意を向けて,新約聖書を扱うよう企てるべきである。それぞれの学生が,各館につい

   て考えを述べ,教授は指導者(Direktor)として補足し,学生が正しい目的から逸れたら。その

   目的を,やさしく,はっきりとテクストから示してやり,あれこれの規律を実行する機会を学生

   に示すべきである。彼らは学んだことの実行を相互に勧奨するだけでなく,生活の規律が今まで

   見られなかったところでは互いに探求し,それを直ちに実行するといった信頼と親切が,学生間

   にうちたてられるべきである。また彼らは,互いに監督し合う合意に達して,それに適した親密

   な勧告をもって,お互いが如何にして和解できるかを見るべきである。実際彼らは,各状況にお

   いて自分たちが与えられた規律に照らしてどのように振舞うかを,相互に,そして教授に説明し

金器 なければならない。教授は経験者として,それぞれの場合に考えていることを,われわれの唯一

   の権威(Meister)である神の二とばに基いて学生たちに示すこと以外の,いかなる権威(Mei-

   sterschaft)をも,彼に託されている良心(Gewissen)に要求しない。学生が次第に訓練をつ

   むにつれて,教授は同僚として(oo11θgiσ1i加r)彼らと協議できるようになるべきである。

6〔建徳のための説教〕

 学生たちのキリスト教〔的生活〕に役立つ訓練と並んで,彼らが牧師職に就いたときに扱わね

ばならぬ事柄につ1・・て,あらかじめ準備しておくのは,有益であろう。たとえば無学者の教育・

病人の慰謝,とくに説教の実践がある。説教は徳性の涵養を目ざしてなされることを’学生に指

摘すべきである。私はこれを第6の提案として加える:すなわち,説教(die Predigten)は・

その目的である信仰とその果実が聴衆に可能なかぎり達せられるように準備されるべきである。

説教が十分になされていないという欠陥をもつ,われわれの教会は,たしかに殆んどないであろ

う(20)。……しかし聴衆は何も理解しえないのに,学識を振りまわしたり外国語を多く引用した

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シュペーナー『敬虔なる願望』 43

   りする説教家がいる。……説教壇は人間の技能(Kunst)を誇・1二する場所ではない。……少数

M41の教養人(die Gelehrte)に対してよりも,聴衆の大部分をなす庶民(die Einfaltige)に対し

   て,より多くの目が向けられていなくてはならない。

    次のことが最も重要である。われわれのキリスト教全体は,内なる人(inner Mensch),ある

   いは新しい人(neuer Mensch)に存し,彼らの魂が信仰であと),彼らの働きが生命の果実であ

A80 るから・すべての説教は二のことを目ざすべきである。一方において,この内なる人に向けられ

   た神の施し物は,信仰とそこにおける内なる人とが,不断に強められるように提供されるべき

   である。他方においてわれわれは,人びとを外面的悪徳から遠ざけ,外面的徳 (‘uβerliche

   Tugend)を訓練し,かくして異教徒の倫理(die heidnische E∫hi々)ても果せるような外なる

   人(激βerlicher Mensch)とのみ関係をもつことで満足してはならない。そうではなくして,

M42 われわれは,ヘルツのう宅)に基礎を正しくおき,この基礎から来ないものは単なる偽善であるこ

   とを示し,まず内的なもの(daq Innerliche)を働1う・せる一神の愛と隣人愛を覚醒させる一

   ことに人びとを慣れさせ’しかるのち初めて,それに応じて活動することに慣れさせる。それゆ

   えに,みことばとサクラメントの神聖な手段は,かかる内なる人と関係をもっていることが,強

   調されるべきである。だから,みことばを外的な耳(auβerliches Ohr)によって聴くことだけ

   では不十分で湊)り’それをヘルツに滲透させねばならぬ。かくしてそこで,聖霊を聴くことがで

   きる。すなわち震える感動と慰めをもって,聖霊の証印(Versiegelung保証〔Eph。1:14;

   4:30〕)と,みことばの力を感じることができる。洗礼をうけるだけでは十分でなく,内なる

   人が,キリストに合う洗礼を受けたところで,キリストを着つづけ〔GaL 3:27〕,われわれ

   の外的生活において,あかしを立てねばならぬ。聖さんを外的に受けとるのでは不十分で,内な

   る人が・かかる聖なる食事を通じて食べねばならぬ。外面的に,われわれの口で祈るのでは不十

   分で,真の祈り,最上の祈りは内なる人において起こる。外的会堂(auβerlicher Tempel)で

   礼拝するのでは不十分で,内なる人が彼自身の会堂(eigener Tempel)で礼拝するのが最善で

   歯)る。そのとき彼が,外的会堂にいようと,いまいとも。すべてのキリスト教の力は,ここにあ

   るのだから,説教がこのような方向にむけられていれば,徳性の涵養は今よりも一層確実に,多

M43 くの結果を生むであろう。われわれは,そのすばらしい実例を,アルントの『説教集』のうちに

   もっている。〔私が,いま書いているのは,それに対する序文である。〕このすぐれたルターの

   継承者(Nachfolger)である彼は一その語法においても,いくつかの誤解,したがって誤釈を

A81 含めて,・レターを先行者にもっていた一曲の著述において,すべてを真の核心に,内なる人に

   向けたように,今ここに完全な新版としてキリスト教会に提供されるr説教集』においても,同

   じ主目的に向っている。これらの説教によって,傾聴者はその生涯を通じておどろくほど啓発さ

   れ・数千の敬虔な魂(fromme Seele)は,彼の方法(methodus)と敬虔な著述の力を強く感じ

   るであろう。・…一

念ll 多くの教師たちが,これを模範(Modell)として,彼らの説教のなかでキリスト教の核心を,

   素朴さと力強さとをもって追求されんことを。総じてこれを,さきにわれわれが心から嘆いた教

A85 会の悲惨な状態を更に改善するための一つ方法とされんことを。……

フランクフルト・アム・マインにて

 1675年3月24日

   フランクフルトの牧師兼牧師団主任

博士 フィリップ・ヤコブ・シュペーナー

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44 福島大学教育学部論集第18号 1966-10

訳  註

 1 Spener(1635-1705)は,1666年以降,フラγクフルト・アム・マインの牧師団主任(Min・

Se臨)であったので,当地における全牧師の監督の地位にあった。

 2 」.H.Horb(1645-95),ストラスブールで神学を学び,敬虔主義の感化をうけ生涯,正統主義と

の戦いをつづけた。フランスのトルバッハの牧師となったが(’71),敬虔主義のために論争を起こし免

職される(’78)。Spenerの義弟に当り,1679年以降はWindsheimの地方監督。 Erfordertes

Bedencken Auff Hn.Philipp Jacob Speners……Teutsche Vorrede zu dess seligen Arndii

Postill(S.163-314)を書いた。

 3 」.Stoll(1615-78),1647年以降,Rapl}01tsteinの宮廷牧師。Spenerの師であり,義兄に当

る。Femeres Bedencken Eines andem Christlichen md Wolerfahrenen Theologi(S。315-344)

を書く。

 4 Spener自身のPiaDesideriaは162頁であるが,上掲二人によるコメントは,それよりも長

く,合わせて182頁からなる(S.163-344)。この附録の目次のみは,A(S・87-89)およびT(P・123

-125)に掲載されている。くわしくは,Kurt Aland:Spener-Studien,Arbeiten zur Geschichte

des Pietismus I(Walter de Gruyter1943)を参照。

 5 culus regio,eius religio(領邦の寓する人に宗教も寓す)の原則,すなわち領邦教会制度に基

づく弊害への痛列な批判。

 6Valentin Weige1(1533-88)は,ドイツの神秘的汎神論者。μWeigelianer’というレッテル

 は17世紀においては異端・反福音的・信用できぬものを意味した。

 7 この節の中に出てくる聖職者の人名を少し挙げれば,B.Meisner(1587-1626)」。L.Hart-

mann(1640-80),Johann Gerhard(1582-1637),N、Selnecker(1530-92),」・Dincke1(1545-

1601),」.V.Andreae(1586-1654)などであり,後出のP・Tamov(1562-1633)の場合と同じ

く.Spenerは.現状に批判的なのは自分だけでなく,同憂の先輩や同僚の多いことを力説している。

 8  Luther,Epistel oder Unterricht von den Heiligen an die Kirche zu Erfurt1522,

WA(コWeimar Ausgabe)101,165f・ g Horbのコメントは,Spenerの論旨の順斥にそって述べられ,大部分は賛意を表して一層詳細

に展開している。たとえば,この箇所でSpenerが商業について簡約にしか書いていないことに不満を

もらし,商人が利子をとり,商店員をやとうことを正当と見,問屋が何パーセントをとることを許され

るかなどについて,述べている(S.191-211)。しかし改革の可能性については,より悲観的である。

VgL K。AIand,ibid、,S.37f・

 10Spenerは,すでにストラスブール時代(1663-66)に,物乞いを蔓延させるだけに終る無計画な

慈善に反対して,かかる物乞いを放任している教会にも責任のあることを指摘し・このフラγクフルト

時代(1666-86)に,同市の救貧事業の組織化にあたっていた。彼の救貧論と社会倫理については,前

掲の拙稿を参照。

 11 以下において,彼は,自分がいかにルターの「教説」に忠実であるかを述べ,それにもかかわら

ず,そのr外面的形態」における堕落を批判する。

 12 彼は,聖さん論におけるルターの実在説(real presence theory)の上に立って,改革派を批判

している。なおVgL M、Weber,ibid.,in:G・A・z。RS・L S94,107.カノレヴィニズムにおいて

は,サクラメントは恩恵をうるための手段ではなく,主観的に(subiektiv)ただ信仰の外的な補助で

あるにすぎなくなっているが,ルターはまだ神秘的・呪術的要素に固執し,その廃棄はルタートゥムで

はまだ十分に徹底されていない。

 13 Luther,Vorrede auf die Epistel Sankt Pauli zu den R6mem,1522(Deutsche Bibel)

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シュペーナー『敬虔なる願望』 45

WA7,9-10。「聖・くウロの・一マ人にあたえた手紙への序言」石原謙訳『新訳 キリスト者の自由・

聖書への序言』 (岩波文庫 1955)74頁.

 14M.Schmidt版における,sein‘(M22)は,,rein‘の誤植であろう(A40)。なお(M34)にお

ける,Fleisch‘(これは,Fleiβ‘の誤り)のごとく,Schmidt版には誤植がある。

 15 底本原文は「排除」(Auβschliessung)となっているが(A49),これでは意味がつながらな

い。M.Schmidt版ではAufschlieβungとなっている(M25)。心のうちを打ちあけること。開示。

これは散髪主義のtypische Re(1ensartである。たとえば”lm Jahre1685bekam ich aufs erste

den.ムuf§q蜘βder heiligen Offenbamng Jesu Christi.”VgL August Langen:Der Wort-

schatz des deutschen Pietismus(TUbingen:Max Niemeyer1954)S80f.

 16Spenerの勧めもあって,17世紀ドイツの各都市では,有力な後援者の援助のもとに.日曜日以

外にもしばしば説教がなされていた。

 17 (Luther,)VgL z.B.WA Tischreden W,87,432f;V,661ff.u.d.藤田孫太郎(抄)訳

『ルター自伝一卓上語録による一』 (新教新書 1959 );佐藤繁彦 (抄)訳『卓上語録』 (ルタ

ー研究会 1929).

 18 Luther,De instituendis ministris Ecclesiae ad Clarissimum Senatum Pragensem

Bohemiae1523,WA12,169-196、

 19 原文の序に,この小著の著者は「その昔,ドイツ騎士にして聖職にあり,フランクフルトにおけ

るドイツ騎士団会館の管理者であった。……1とある。ルター編『ドイツ神学』徳沢得二訳(新教出版

社 1949).

 20 上掲の訳註(16)を参照.

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46 福島大学教育学部論集第18号 1966-10

Takahiko Hori An abridged Translation

ofPJSpener, P招Dε3f4θr躍(1675)

  Spener had presented,in this famous classics,a notion and practical programs of the

German Pietism.  The original text of this Japanese version is Kurt Aland’s critical edition・an(i I tried

to abridge it from my view-point,for my chief concem has been to approach to the

German Pietism,in the history of s㏄ial thought,as what may be called ”Purltanism

inGemany”、   Translators notes are only a few.