1
ҩ ɹༀʹͳΔಈ২ΛΔΊͷʮຊʯ Ͱੜ·ΕɼΘͰݪӹ ݢʢ1630ʙ1714 ʣ ʹΑΓʮେຊʯஶΕͱɼຊ2016 12 ߸ͷຊཝͰհ 1ʣ ɻ ɹ1757ʢๅ 7ʣʹશͷಛΛΊຊͷതཡձΛ։ɼΕΛ ʹݩ1763ʢๅ 13ʣɼਤ ʮᯆʢͿΔͻΜʣʯΛߦץฏլ ݯʢ1728ʙ1779 ʣͷΔɻಈ২ʹݶΒɼ Ͱग़ΕΔΒརԼʹࡎͳΔༀΛ Δ๏ड़ΒΕɼேਓॽͷഓ๏ ๏ͷهड़Δ 2ʣ ɻ ɹਿݰനʢ1733ʙ1817 ʣɼ ʠའʡͷதͰʮ ͷஉɼۀຊՈʹɼੜΕಘཧʹͱɼහ ʹ࠽ɼΑͷਓʹؾͻੜΕͳΓʯͱฏլݯ ΛධΔ 3ʣ ɻ ɹՈͱɼ༡ͷΓʹखʹೖΕյΕ ΤϨΩςϧʢຎ੩ؾੜஔʣΛख୳ΓͷதͰ ݩɼʮΤϨΩςϧݟ٬ଟʯͱେʹݯ ͷΛߴΊɻେʢߴՈʣͱɼ ݝۄதʢᛜమʣͷ۷Ͱɼடதʹݯ ډΛΔɻ·ळݝѨਔʢʣͷ ѨਔঝͰͰΔɻඒज़Ոͱɼഅߐ ʢ1747ʙ1818 ʣɼখʢ1750ʙ1780 ʣͱ ΘΓɼղମ৽ॻͷදֆΛඳখɼ ݯΒӄӨ๏ͷ๏ΛΜͱΕΔɻ ɹʮਓΛޡΒΔʯͱݴΔɼଟ໘ ʹΘΔΛԿಥ٧ΊΑͱ Λଓಘͳɻ൩ͷݯɼΛ ΊΕ͵ʹɼΤϨΩςϧͷΓΛ༻ਓ ͷ৬ਓʹԣऔΓΕͱਓෆ৴ɼඃໝ େ൵ىΔɻ 1779 ʢӬ 8ʣ 11 20 ɼ ڮຊொͷݯΛ๚ΕେͱञΛҿΈ ɼݯ;ͱΊؾͱɼջʹೖΕ ഺͷਤͳɻͱʹʠ౪·Εʂʡ ͱ൴େʹ٧ΊدΓɼԡͷʹߴɼ ʹ 1 ਓΛΓ·ɻͷਤɼ ݯͷջͰͳɼଳͷΒग़ͷͰɻ 12 18 ɼഅொͷͰ 51 ͷ৺ೃ·͵ ੜΛऴɻҰઆʹڰͱɼ՞ͷইѱ Խই෩ݪҼͱΘΕΔ 4ʣ ɻ ɹ༑ਓਿݰനɼݯͷҨମΛҾऔΓɼઙ૯ઘ ʹຒʮᅀඇৗਓɼඇৗɼߦඇৗɼԿʯʢඇৗͷਓɼඇৗͷΛΈɼ ߦͻΕඇৗɼ ԿඇৗʹΔʣͱݯͷඪʹΈݯͷΛ Μɻਓ·ࠓʹͳΜͱΔɼഅ౯ͷΑ ࡏʹΓΛग़ͱɻݯ·ෆ۰ͷ ΛטΈΊͷͰͳΖɻ ɹݯͷڷނߴদΒ JR ߴಙઢͰ 30 ΄Ͳͷւ ͷΓΔ͵ࢤࢢͰΔɻฏլݯઌੜҨ Γɼچఛෑʹ෯ͷݯͷಔ ݐΔɻ౦ژڮʹΔݯͷঢ় ͰɼஈੴʹʮӬീݾҫೋീ ݟډ ฏլݯʯͱூΒΕΔɻ 参考資料 …………………………………………………………… 1ʣॾɼݪӹ ݢ, Isotope News, No.748, 25ʢ2016ʣ 2ʣҪ߂߁ɼຊ ฏլݯ , ߨஊબॻϝνΤʢ2008ʣ 3ʣਿݰനஶ , ॹ༤ߍமɼའ ,27, ؠݿʢ2015ʣ 4ʣ๕լపɼฏլݯ , 415, બॻ 379ʢ1989ʣ ʢຊઢձɹॾʣ 写真 2 平賀源内銅像 (平賀源内旧邸敷地内) 写真 3 平賀源内の墓 (東京都台東区橋場) 写真 1 平賀源内旧邸(香川県さぬき市) ฏլݯ 45 Isotope News 2017 年 4 月号 No.750

Isotope News 2017年4月号 No€¦ · 4)芳賀徹,平賀源内, 415, 朝日選書379(1989) (日本診療放射線技師会 諸澄邦彦) 写真2 平賀源内銅像 (平賀源内旧邸敷地内)

  • Upload
    others

  • View
    1

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: Isotope News 2017年4月号 No€¦ · 4)芳賀徹,平賀源内, 415, 朝日選書379(1989) (日本診療放射線技師会 諸澄邦彦) 写真2 平賀源内銅像 (平賀源内旧邸敷地内)

医療史跡

 薬になる動植物や鉱物を知るための学問「本草学」が中国で生まれ,わが国では貝原益軒(1630~1714年)により「大和本草」が著されたことは,本誌 2016年12月号の本欄で紹介した 1)。 1757(宝暦 7)年に全国の特産品を集めた日本最初の博覧会を開き,それを元に 1763(宝暦 13)年,図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行した平賀源内(1728~1779年)の功績がある。動植物に限らず,国内で産出される鉱物から利尿や下剤になる薬品を製造する方法が述べられ,朝鮮人参や甘藷の栽培法や製糖法の記述もある 2)。 杉田玄白(1733~1817年)は,“蘭学事始”の中で「この男,業は本草家にて,生れ得て理にさとく,敏才にして,よく時の人気に叶ひし生れなりき」と平賀源内を評している 3)。 発明家としては,長崎遊学のおりに手に入れた壊れたエレキテル(摩擦静電気発生装置)を手探りの中で復元製作し,「エレキテル見物客多し」と大いに源内の名声を高めた。大山師(高山家)としては,埼玉県中津川鉱山(硫砒鉄鉱)の発掘で,秩父山中に源内居を残している。また秋田県阿仁鉱山(金鉱)の足跡は阿仁伝承館で確認できる。美術家としては,司馬江漢(1747~1818年),小田野直武(1750~1780年)等と交わり,解体新書の表紙絵を描いた小田野直武は,源内から陰影法の技法を学んだとされている。 「才は人を誤らせる」という格言もあるが,多方面にわたる才能を持ちつつも何事も突き詰めようという姿勢を持ち続け得なかった。晩年の源内は,自分を認めてくれぬ世に憤慨し,エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって人間不信,被害妄想が拡大し悲劇が起きる。1779(安永 8)年 11月 20日,神田橋本町の源内宅を訪れた大工と酒を飲み明かした時,源内が明け方ふと目覚めて気が付くと,懐に入れておいた筈の普請図がない。とっさに“盗まれた!”と思った彼は大工に詰め寄り,押し問答の末に激高し,ついに 1人を斬り殺してしまう。だがその普請図は,源内の懐ではなく,帯の間から出てきたのであった。同年 12月 18日,伝馬町の獄内で 51歳の心馴じまぬ生涯を終えた。一説には発狂したとも,喧嘩の傷が悪化した破傷風が原因ともいわれる 4)。

 友人杉田玄白は,源内の遺体を引き取り,浅草総泉寺に埋葬し「嗟非常人,好非常事,行是非常,何死非常 」(ああ非常の人,非常の事を好み,行ひこれ非常,何ぞ非常に死するや)と源内の墓標に刻み源内の死を悼んだ。人は今まさに死なんとする時,走馬燈のように在りし日を思い出すという。源内自身もまた不遇の思いを噛みしめていたのではないだろうか。 源内の故郷は高松から JR高徳線で 30分ほどの海の香りがするさぬき市志度である。平賀源内先生遺品館があり,旧邸敷地内には恰幅のいい源内の銅像が建っている。東京都台東区橋場にある源内の墓は角塔状で笠付,上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と彫られている。

参考資料 ……………………………………………………………1)諸澄邦彦,貝原益軒 , Isotope News, No.748, 25(2016)2)土井康弘,本草学者 平賀源内 ,講談社選書メチエ(2008)3)杉田玄白著 ,緒方富雄校註,蘭学事始 ,27,岩波文庫(2015)4)芳賀徹,平賀源内 , 415,朝日選書 379(1989)

(日本診療放射線技師会 諸澄邦彦)

写真 2 平賀源内銅像(平賀源内旧邸敷地内)

写真 3 平賀源内の墓(東京都台東区橋場)

写真 1 平賀源内旧邸(香川県さぬき市)

平賀源内

45Isotope News 2017 年 4 月号 No.750