25
1 Pina Bausch ―タンツテアターの魅力を探る― <目次> 1 はじめに 2 ピナ・バウシュとタンツテアター a)ピナ・バウシュ b)クルト・ヨース c)タンツテアター 3 作品 4 ピナ・バウシュの作品づくり a)作品制作 b)踊る=生きる 5 おわりに 資料1 註釈 参考資料一覧

Pina Bausch ―タンツテアターの魅力を探る― - ZEROgreen.zero.jp/noooh/Meiji_Theatre/Graduation_2014_files/...3 2 ピナ・バウシュとタンツテアター a)ピナ・バウシュ

  • Upload
    others

  • View
    1

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

  • 1

    Pina Bausch ―タンツテアターの魅力を探る―

    <目次>

    1 はじめに

    2 ピナ・バウシュとタンツテアター

    a)ピナ・バウシュ

    b)クルト・ヨース

    c)タンツテアター

    3 作品

    4 ピナ・バウシュの作品づくり

    a)作品制作

    b)踊る=生きる

    5 おわりに

    資料1

    註釈

    参考資料一覧

  • 2

    1 はじめに

    私がコンテンポラリーダンスというものの存在を知ったのは高校生の時だった。ダンス部の大会作品

    はテーマを決めてそれを表現する、「ダンス」というよりも「身体表現」という言葉が似合う、そんな作

    品だった。わけもわからず踊っていたものの、当時は何が面白いのか全く理解できなかった。今でも観

    ていて面白いかと聞かれるとよく分からないし、作品自体あまり理解はできないというのが正直なとこ

    ろである。コンテンポラリーダンスと言っても様々な作品がある。それはひとつに、定義づけすること

    が大変難しいジャンルだからということもあるだろう。振付師によって踊り方も魅せ方も様々なのであ

    る。そのような多種多様なコンテンポラリーダンス界の中で、その独特な世界観と作品によって世界中

    で注目を集めたダンサー・振付師がいた。それがピナ・バウシュである。今年の 3 月、ヴッパタール舞

    踏団が来日公演を行っていたので彼女の作品を実際に観に行った。演目は『コンタクトホーフ』。想像以

    上に長い超大作。正直わけがわからないまま終わってしまったが、カーテンコールはスタンディングオ

    ベーションだった。何が観客をそこまで魅了しているのか私にはさっぱりわからなかった。自分には全

    く良さが理解できなかったため、このテーマはやめようと一度は決めたが、やはりやってみることにし

    た。目線を変えることにしたのだ。観客としては楽しめなかった。しかし、自分がダンサーだったらど

    うだろうか。踊ってみたいと思った。踊りながら、今まで積み重ねてきた 25年間がフラッシュバックす

    るような経験をするかもしれないと思った。ピナ・バウシュの作品は演劇的だとしばしば言われる。演

    劇作品では、舞台は生モノで観客の反応が変われば役者も変わる、その時その空間でしか味わえないも

    のだというようなことがよく言われるが、身体や動きの美しさを見せるダンス(多くの人がダンスとい

    う言葉を聞いてイメージするものを指す)というのはほとんどのジャンルである程度決められた型を踊

    ることが多いため、生モノではあるが演劇と比較したときにとても再現性の高い表現となる。(これはあ

    くまでも私の主観的な感覚によるものである。)ピナ・バウシュの作品は特に中期以降、動きそのものを

    見せる種類のダンスではなくなり、その創作方法は個人のバックグラウンドが重要視されるものとなっ

    ていく。そうなると、踊り手の内面的な部分も大いに影響してくるに違いない。こうした点において「タ

    ンツテアター」と呼ばれるピナ・バウシュの作品は演劇に近いものだと感じる。演劇において役を演じ

    るという行為は、自分の経験の中から登場人物のキャラクターや感情を引き出してくるものであるから

    だ。(このとこについても様々な意見があるに違いないが、あくまでも私個人の見解である。)演劇にお

    いても個人のバックグラウンドはかなり大きな影響を及ぼす。ピナもダンサーも「演じる」という言葉

    を使うが、それにも納得できる。そこで注目したいのは、まずピナ・バウシュの作品の創作方法である。

    そして、舞台上で行われる「踊る」という行為が、他のダンスジャンルとどう違っているのかという部

    分にも注目したい。そこから、ピナ・バウシュ作品がなぜ多くの人々を魅了するのかを探っていこうと

    思う。

  • 3

    2 ピナ・バウシュとタンツテアター

    a)ピナ・バウシュ Pina Bausch

    どのような芸術作品においても、作者がどのような人でどんな人生を歩んできたのかという背景はと

    ても重要な要素であると思う。ピナ・バウシュの作品においては一層色濃く表れているようにも思う。

    そこでまずはピナ・バウシュという人物について略歴からみていくことにする。

    ドイツのゾーリンゲン生まれ。15 歳の時から表現主義ダンスの巨匠クルト・ヨースのフォルクヴァン

    ク・スタジオでダンスを学ぶ。58 年に成績優秀で卒業、翌年に国費学術交換留学生としてニューヨーク

    のジュリアード音楽院の特待生になる。アントニー・チューダー、ホセ・リモンなどに学び、ダンサー

    としても踊る。62 年にクルト・ヨースが作った<フォルクヴァンク・バレエ団>に参加するため帰国。

    ここでの「フラグメント」が初振付作品になる。72 年にヴッパタール歌劇場の依頼で振付けた「タンホ

    イザー」の酒宴の場が評価され、翌年同バレエ団の芸術監督兼振付家に招かれた。ピナはバレエ団の名

    前をヴッパタール・タンツテアターと変えたが、初期には過激さと、暴力や人の心の暗部を執拗に描く

    作品づくりのため、ダンサーたちが大挙離反するようなこともあった。ピナがダンサーに語りかけ、作

    品に反映していくスタイルになったのはそれからだという。そして、ローマに長期滞在して作った「ヴ

    ィクトール」以降、ピナは都市や劇場との協力提携によって、土地の自然や歴史を採り入れた作品づく

    りという方法をとるようになる。(1)

    ピナ・バウシュ 略年表

    1940 ドイツ西部の工業都市ゾーリンゲンに食堂の娘として生まれる。

    1955 フォルクヴァング学校に入学。ダンスを学び始める。

    1958 同校卒業。舞台舞踊と舞踊教育の資格を取得。

    1959 NY、ジュリアード音楽院に留学。ポール・サナサルドとドーニャ・フォイヤーのカンパニーに入

    団、ダンサーとして活動。

    1962 フォルクヴァング・ダンス・スタジオの団員になる。

    1967 「フラグメンテ(断章)」 初振付作品

    1969 フォルクヴァング・ダンス・スタジオの芸術監督に就任。

    1971 ヴッパタールの劇場監督アルノ・ヴュステンヘーファーから客演出の依頼を受けて「ダンサーの

    ためのアクション」振付。

    1973 ヴッパタール舞踊団の芸術監督に就任。「ヴッパタール・タンツテアター」と改名。

    1981 息子ロルフ・サロモン誕生。

    1984 ロサンゼルス・オリンピックの芸術プログラムに招待される。NY で初の客演。

    1997 「平和功労勲章」授与。

    パリ・オペラ座バレエ団の客演振付家として招かれる。「春の祭典」オペラ座上演。

    2009 6月 30日 ガンのため、68歳で死去。 (2)

  • 4

    ピナ・バウシュは 15歳でフォルクヴァング学校に入学している。現フォルクヴァング芸術大学。1927

    年設立の伝統あるドイツの芸術大学である。ピナは亡くなるまでこの大学のディレクターを務めていた。

    この大学の舞踊科を創設したのがクルト・ヨース(1901~1979)という人物である。ピナ・バウシュは

    クルト・ヨースに師事し、本格的にダンスを学び始める。そして卒業後はアメリカへ渡り、ジュリアー

    ド音楽院で学びつつダンサーとしても活動していた。彼女の踊りの基礎を築いたフォルクヴァングのク

    ルト・ヨースとアメリカ留学はピナ・バウシュの作品づくりに大きく影響を及ぼしていると考えられる。

    そして 1972 年にはヴッパタール舞踊団の芸術監督に就任。その後の生涯を共にする舞踊団である。ピ

    ナ・バウシュはこの舞踊団の名前を『ヴッパタール・タンツテアター』改名した。今日ピナ・バウシュ

    の作品が『タンツテアター』と呼ばれるのはおそらくここからきているのであろう。

    b)クルト・ヨース(独 1901~1979)

    ピナ・バウシュの作品づくりに影響を与えたであろう、クルト・ヨースという人物は何者なのかとい

    うことについて触れておこうと思う。ピナ・バウシュはフォルクヴァング学校でヨースに師事、そして

    1962年にヨースが設立したフォルクヴァング・ダンス・スタジオの団員にもなっている。彼女のダンス

    人生においてとても関わりの深い人物である。

    ピナが学んだクルト・ヨースは表現主義のひとつ、ノイエ・タンツの実践者だった。他の表現主義芸

    術と同様、旧態依然とした倫理観に反抗し、原初の生命観を解放させようとする精神の叫びを肉体言語

    によって表出しようとした。

    クルト・ヨースは若いころのピナをすでにこのように言っている。

    「舞踊を学んだあとはバレリーナの座に甘んじることなく、ダンサー、振付家、創作者、映画製作者、

    映画女優、舞踊学部長、フェスティバル主催者といった役割を自らに課している。2人あるいは 3人、あ

    るいはそれ以上の人間の人生を満たすほどクリエイティブな仕事に取組み、自分自身とヴッパタール舞

    踊団のダンサー、そして世界中の観客を、生きること、愛すること、活力ある生とは何かを感じさせる

    視覚的アートの世界へといざない、深く引き込んでいきます。愛に 1000の形があるとすれば、ピナはそ

    れを 1001枚の絵で表現して見せてくれるといえるでしょう。」(3)

    クルト・ヨースはユダヤ人作曲家フリッツ・コーエンと協力してダンスと音楽のみによって、演劇的効

    果のある作品を創ることを目指していました。ヨースはモダンダンスのテクニックのみならず、1926年

    にパリに留学し、クラシックバレエも学んでいます。クラシックバレエを否定する風潮の強かった時代

    のモダンダンサーとしては風変わりな傾向だったと言えるでしょう。

    1932年、パリで開催された国際振付コンクールに出品された作品『緑のテーブル』で、ヨースは首位

    を獲得しました。妖精物語ではなく、時事問題を扱う、時代に沿ったストーリー性のある作品を作るこ

    とを好んだヨースは『緑のテーブル』で戦争をテーマにしています。(4)

  • 5

    クルト・ヨースも演劇的な作品を作っていたが、ピナ・バウシュの作風とは異なり、プロットがあり

    音楽とダンスだけで物語を展開させるという意味で演劇的な作品であったようだ。同時代的な社会劇に

    取り組んでいた。一方ピナ・バウシュの作品に物語性はほぼない。後に出てくるが、バラバラのものを

    つなぎ合わせるコラージュの手法を多く用いており、メッセージや物語が語られることはほとんどない

    という点においてヨースの作品とは異なる。しかし、演劇的効果のある作品を創作していたことや、モ

    ダンダンスだけでなくクラシックバレエも取り入れたり、時事問題を扱ったりと「風変わりなダンサー」

    という表現がなされている彼の創作はピナにとって刺激となり、後の彼女の作品制作に大いに影響して

    いたであろうと考えられる。

    c)タンツテアター

    ピナ・バウシュの名前とともに有名なタンツテアター。一種のダンスジャンルのようにピナの作品に

    対して使われる言葉だが、この言葉はピナ・バウシュが作った言葉ではない。しかしその意味は時代に

    よって変化している。ピナ・バウシュは独自の「タンツテアター」を展開していた。ここでは「タンツ

    テアター」という舞踊について説明する。

    タンツテアターという言葉は、遅くとも 1920年代前半までには、表現舞踊のグループや表現舞踊作品

    の一ジャンルを表す言葉として姿を現している。「タンツテアター」という言葉を最初に使ったのはルド

    ルフ・フォン・ラバン(1879-1958)(5)。

    当時、舞踊は別の舞台芸術のための装飾であったが、そうではなく「舞踊による演劇」「舞踊による舞

    台」を制作しよう、舞踊こそ主役にしよう、ということで「舞踊が舞踊的な手段で」舞台芸術を制作す

    ることを用語の倒置によって表現した。

    「タンツテアター」という言葉のとらえ方は振付家によってさまざまだったが、「舞踊は添え物ではな

    く主役だ」というスローガンは表現舞踊家たちの共通のスローガンとして「タンツテアター」の意味の

    中核をなしていた。

    ピナ・バウシュは舞踊と演劇の垣根を取り払った「タンツテアター」という概念を打ち出し、革新的

    な作品を発表していった。彼女がアメリカで体験したモダンやポスト・モダン・ダンスは演劇性を排除

    し、純粋な肉体の動きを追求しようとするものが主流だったが、彼女はそれを逆に演劇的、心理的な表

    現メソッドとして取り込んだ。(6)

    資料にある通り、タンツテアターという言葉はピナ・バウシュが作った言葉ではない。しかしラバン

    のいうタンツテアターと、先ほど登場したクルト・ヨース、そしてピナ・バウシュのいう「タンツテア

    ター」は意味が異なる。ラバンは「舞踊は舞台の主役になる」という意味でタンツテアターという言葉

    を使ったのに対し、ヨースは「台本、音楽、そしてそれを演ずるダンサーにおいてなされるドラマ的振

    付の形式とテクニック」と定義している。(7) 形式とテクニック、方法論なのである。ピナ・バウシュの

    頃になると、バレエ教育は盛んになっていたし「ダンスが装飾」という時代ではなくなりもはや「舞踊

  • 6

    が主体」ということを考える必要はなくなっていた。そしてバレエに代わる新しいテクニックを確立さ

    せる必要もなくなったため、ヨースの定義したタンツテアターとも違う次元のものが求められた。ピナ・

    バウシュはとことん「テアター」の領域で舞踊を創った。舞踊と演劇の垣根を取り払った表現を「タン

    ツテアター」と呼んだ。ピナ・バウシュの「タンツテアター」はラバンともヨースとも違うものだった。

    3 作品

    この章では、いよいよピナ・バウシュの作品についてみていこうと思う。ピナ・バウシュは生涯に 50

    もの作品を創作している。ピナの作品が多くの人々を魅了する理由を探すために、50 作品の中から有名

    なものを何作か取り上げ、まずは彼女の作品の特徴を挙げていこうと思う。

    『春の祭典』(1975)

    ダンス文学のエベレスト山とも言われる作品。

    もっぱら純粋なエロスの祭りとして解釈される流行に対抗して、ピナ・バウシュの「春の祭典」は本来

    の<犠牲>という筋を拠り所にし、それを死刑宣告される女性の観点から描く。それは不安と同情に満

    ち、しかしはじけるようなエロティシズムと性であふれていた。

    舞台は、床に泥が厚くばらまかれ、人工的に作られた森の空き地。中央に置かれた赤く輝く布の上に、

    一人の若い女性が横たわっている。曲の最初の何小節かで、アンサンブルは次第にフルメンバー(初演

    の時は 13組の男女)に達する。初めはかなりの間、それぞれ神経質に踊る女性たちだけ、そのあとでよ

    うやく男のダンサーたちが加わる。赤い布はしだいに重要な役割を帯びてくる。それは犠牲(いけにえ)

    のシンボルであり、いけにえになる、あるいはいけにえを決定する、つまり死刑執行人になるというこ

    とが、男たちと女たちに呼び起こす感情のすべての触媒となる。魔術的な魅惑の混ざった恐怖、絶望、

    戦慄。最後に、その布はいけにえのための赤い衣裳となり、一人の女性から他の女性へとおどおど、お

    ずおず手渡され、ついに不幸な最後の女性の手に残ってしまう。その女性がフィナーレで、荒々しく抗

    うように、死の舞踏を踊るのだ。その周りでは世界が硬直していくように見える。

    その死との闘いの踊りのさなか、透明の赤い衣裳がダンサーの身体から滑り落ち、乳房がむき出しに

    なった。初日の観客は不運な偶然だと思い、それが集団から死刑宣告された少女の寄るべなさをいっそ

    う効果的に際立たせた。しかし上演が続くにつれ、それは女性の運命への観客の緊張と関心を高めるた

    めの、抜け目のないドラマトゥルギー上の手段であることが判明する。内部事情は知らないが、もちろ

    ん、初日に衣裳がずりおちたのは実際に計画されてはいなかったことで、ピナ・バウシュが偶然に与え

    られた機会を意識的につかまえたのだ、という可能性もある。のちに彼女はよく、偶然や事故すらドラ

    マトゥルギー上で効果的に利用できるし、振付に組み込むこともできる、と語っている。

    この二つのグルック作品は何年か後に再演されて大成功を収めたし、ストラヴィンスキーの『春の祭典』

    はヴッパタール舞踊団の固定演目のひとつとなり、ピナ・バウシュ・アンサンブルの名刺がわりのよう

    な作品にもなった。それらは確かに非凡なほど素晴らしい、しかしなお伝統の延長線上に立つダンス作

    品だ。モダンダンスの境界を超えることはなく、その囲いの柵が踏み倒されることもまだなかった。(8)

  • 7

    この作品は非常にダンサブルな作品である。あくまでもモダンダンスの領域の中で創られた作品だ。ピ

    ナの初期の作品はこの『春の祭典』のように伝統的なダンス作品も存在する。高度に完成したモダンダ

    ンスであった。この作品における大きなテーマは、男女間の関係の破綻、男性によってつくられ支配さ

    れている世界における女性の搾取というものである。これは何年にもわたってピナの核となるテーマと

    なった。

    『七つの大罪』(1976)

    ブレヒトの唯一のバレエ・リブレット「小市民の七つの大罪」をもとにした作品。1933年にバランシ

    ンの振付でパリのシャンゼリゼ劇場にて初演された作品で、ともに名前をアンナという二人の姉妹が「ル

    イジアナに小さな家を建てる」ためにアメリカ中を巡業する、という話である。妹のアンナは踊り子で、

    自分の体を売り、姉のアンナは歌手として妹の愚かな考えをたたき直し、生きるための美徳を他人から

    学ばせようとする。

    ピナはブレヒトのト書きや解説を無視した。バイアスのかかった教育劇ではなく、レヴューの光沢でコ

    ーティングする。この作品は二本立てで上演された。「七つの大罪」を第一部として、休憩をはさんで「怖

    がらないで」が第二部に上演された。

    実に大胆にバレエと演劇とショービジネスのバランスをとり、独創的に笑いと涙を配合したこの作品は、

    熱狂する観客の、観たい、楽しみたい、参加したい、という欲求を満足させる。ピナ・バウシュが猛烈

    に嘲っているのは、男たちが自分のために、そして自分に依存する女たちのためにつくった世界だ。そ

    の嘲りは、男たちが傲慢かつ滑稽な正体を現すところでピークに達する。舞台では男もうまく女を演じ

    られるというモットーのもとに、アンサンブルの男たちがスカートとドレスを着込み、服装倒錯者のシ

    ョーを演じるのだ。もはや自己目的でも「芸術」と呼ばれるものでもない、何より女性解放のメッセー

    ジを伝える手段となる。しかしピナは大事なのは女性解放ではなく、人間の解放だとも発言してきた。

    人類の半分をなす男性の解放も、それに依存している人類のもう一方の半分の解放と同じように重要な

    はずではないか、と。にもかかわらず、ピナの舞台では女性解放にこだわり続け、その作品は、女性と

    その運命を中心的なストーリーとし、そして世界における女性の地位をどう変えるのかをも示すのだ。

    (9)

    このあたりからピナの「タンツテアター」の概念が作品に表れてくる。『七つの大罪』はタンツテアタ

    ーを実現させた作品といえるが、この作品には原作があり、プロットがある。そして強いメッセージ性

    も感じられる。クルト・ヨースの演劇的なダンスに近いものがあるのかもしれない。今現在、タンツテ

    アターと呼ばれているピナ・バウシュの作品とはまだ少し異なる。

  • 8

    『カフェ・ミュラー』(1978)

    カフェの暗さと椅子が散在する中、すでにドラマがあった。何かを待ち受ける深刻さと残酷な匂いが

    舞台を支配していた。激しい男女の愛の葛藤、嫉妬、それらは愛のフィルターを通して見える人間の哀

    しみであろう。この哀しさゆえにピナは作品を創り続けているのだろうかとさえ思えることがある。こ

    の作品のピナは、“踊る”というにはあまりにも静かに動き続け、回転ドアの傍らに佇んでいるのだった。

    西ドイツ、ゾーリンゲンの片田舎で営まれていたカフェの片隅から大人たちの世界を覗いた少女。遠い

    過去からの風景に呼び戻されるように『カフェ・ミュラー』のなかで、ピナが蘇生させる光景。彼女が

    踊るのは、この作品以外にはない。

    カフェでは別離が起こっていた。去っていく男への怒りと狂おしいほどの失意に、女は椅子めがけて

    倒れ込む。ひとりの男が、倒れ込む女を傷つけまいとするかのように、椅子めがけて突進してくる女の

    そばから懸命に椅子をのける。だが、女はその男の存在に気づきもしないかのように、いつ果てること

    もなく絶望的なその行為を繰り返す。半狂乱になった女に、この男の眼差しが注がれることもない。互

    いの存在に手をさしのべることもない舞台の男と女の痛々しいこの光景を、観客は見続けるほかなかっ

    た。(10)

    『1980年―ピナ・バウシュの世界』(1980)

    一九八〇年一月二七日ロルフ・ボイツィク、白血病で死去。この年、人生で最愛のパートナー、ロル

    フを失ったピナは失意に沈み、果たして作品を創作できるか周囲の心配は募った。だがピナは創作に取

    りかかった。制作の年をタイトルにしたこの作品は、舞台一面が本物の芝生で覆われ、会場には、牧場

    の香りが漂う。観客を見つめる鹿が置かれている。ヴッパタールの動物園にいるあの鹿をすぐさま連想

    させる。現実の風景にはピナの生きた時間がある。舞台には必ず彼女の見慣れた光景が登場する。舞台

    という虚構を生きることは、彼女にとって、生きた事実そのものから出発することであった。“現実にま

    さるものはない”ということをロルフの死が彼女に告げたのだった。

    舞台一面に敷き詰められた芝生に腰をおろしているダンサーたち。華やかな夜会服に身を包んだ女が

    デカダンの匂いを振りまきながら登場する。広い邸宅の中庭に集う人々のなかで、“突然”女の甲高い笑

    い声が響く。ダンサー、アンヌ・マルタンが演ずる女であった。「人は、あまりに深い哀しみの淵にいる

    とき、どうしようもなく沈んでいる自分を突き放すように笑うことがあるわ!」とアンヌは言った。

    スプリンクラーの水しぶきを浴びて憑かれたように踊るスリップ姿のアンヌ・マルタン。激しく水し

    ぶきを浴びせかけるスプリンクラーとのデュオ。旋回する身体から滴り落ちる水滴、振り払ってもなお

    とめどない哀惜がこぼれ落ちるように、彼女のソロが続く。この舞台は、バイオレンスが影を潜め、他

    のどの作品にもないピナの記憶の海からのアリアが聞こえてくる。それはまるで深海に差し込む光の乱

    反射のようだ。ひとりの青年がつぶやき始める。少年の頃の記憶を。徹底したコラージュの手法で人間

    哀惜にみちた、容赦ない時の疾走を描くピナ。ジュディ―。ガーランドの歌う「虹の彼方に」が流れ、

    記憶の集積を美しさに変えていく。(11)

  • 9

    78 年以降、コラージュ、モンタージュという技法が多用されるようになる。断片をつなぎ合わせて大

    きな作品を創るのである。これはピナ・バウシュの作品の大きな特徴のひとつである。また、ダンス以

    外の動きも多用されるようになる。セリフ、歌、意味不明のしぐさや奇妙なコントなど、様々な要素が

    使われている。彼女の作品が演劇的だと言われる一要素である。また、言葉にできない抑圧された記憶

    や感情を表現しようとした。

    中期以降の作品制作において、ピナ・バウシュはダンサーたちのバックグラウンドを重要視した。ピ

    ナはダンサーたちに質問を投げかける。そしてそれに対してダンサーは即興で応えるのだ。ダンサーは

    ドイツはもとより、日本、フランス、イタリア、アメリカ、オランダ、スペイン、ロシア、ブラジル、

    アルゼンチン、ギリシャ、オーストリア、ベネズエラ、コロンビア、インドネシア、韓国などから優れ

    た身体能力を持った人たちが集まっていて各々が強烈な個性を前面に出してピナ・バウシュの意図する

    世界を展開する。さらにピナ・バウシュは創作する際ダンサーたちに 200 種類以上の様々な問いかけを

    し、ダンサーはひとりひとり考え、答え、その内容をもとにピナによって時間をかけて作品がつくられ

    ていった。まずピナ・バウシュが新しい作品をつくりはじめるとき、ほとんどが、舞台セット、音楽、

    脚本もない状態から始めるという。ダンサーたちは自身とその人生を作品に投入することで作品の「共

    同制作者」となり、踊り、演技し、自らを語ることで作品に関わっていく。最終決定権を握っていると

    はいえ、共同制作ではピナが基本ステップや振付を決めることはなく、ダンサーたちに問いかけ、彼等

    がそこから何を生み出すかを観察するというとても自由で平等な体制で作品は作られるようになる。ピ

    ナからの「質問」があること以外に何も制約はない。ダンサーはバレエのレッスンを怠ることはないの

    だが、作品自体はモダンダンスやクラシックバレエなどのテクニックによって表現するという決まりご

    ともないのだ。自由な表現の場であるのだ。そうなると、日常的なしぐさや演技がはいるようになるの

    は自然なことのようにも思える。この「ピナの質問」と「ダンサーの答え」による創作はピナの作品に

    おいて最も特徴的な方法である。

    ピナ・バウシュの作品には物語の展開はないし、パントマイムのようにひとつひとつの動きに意味を

    持たせたものでもない。しかし、作品にはとても深い意味やテーマを持つ舞踊である。

    4 ピナ・バウシュの作品づくり

    ピナの作品を初めて見た観客の多くは衝撃を受ける。「ダンスとはかくあるもの」という常識や手段、

    すでに確立されている様式や枠組みを取り払い、解放された作品は観客に大きなショックを与えるのだ。

    それはなぜなのか。その答えは、彼女の作品づくり、ダンサーとの関わり方に大いに表れている。作品

    の特徴で挙げた、『作品は、「ピナの質問」と「ダンサーの答え」によって創作される。ダンサーのバッ

    クグラウンドを作品に反映させている。』という部分に焦点を当ててみようと思う。

    私はピナ・バウシュが亡くなった後のヴッパタール舞踊団による公演しか観ていないし、その作品にテ

    ーマや物語性を求めてしまったがために何も感じ取ることができなかった。そのため、まずはじめに、

    当時リアルタイムでピナ・バウシュの作品に触れている方々の分析を見ていくこととする。

  • 10

    a) 作品制作

    まずは作品の創作方法に関する記述から見ていこうと思う。

    私の「ヴィクター」市田京美 より抜粋

    一番思い出深い作品は「ヴィクター」です。数あるピナ作品の中で、初めてローマ市と共同制作をし、

    それから以降の作品がそれぞれパレルモ、マドリッド、ウィーン各都市との共同制作となるきっかけを

    つくった作品でした。

    地元ヴッパタルで三か月間、そしてローマでは三週間のリハーサルを行いました。

    創作方法は、一九八〇年あたりからピナが採用してきた、短い質問テーマに応じる即興演技の形式で、

    例えばこんなふうに質問されます。

    「ネズミになって何かを物語る」「撃ち殺される真似」「何故ナイフを使わないのか」

    その質問やテーマに、ダンサーたちは、ヒラめいたことや考えついたことを表現して見せます。

    一つのテーマに、少なくとも半数近くのダンサーが何かを表現しますし、多いときには全員が即興に挑

    戦します。「ヴィクター」のリハーサルでは一五〇余の質問テーマがありましたから、それぞれの即興演

    技をみつめ、メモをし、記憶しているピナ自身にとっても大変な仕事量です。

    公演の約四週間前あたりになると、それら膨大な即興作品の中から、ピナ自身の感覚で取捨選択し、最

    構成し始めます。

    ダンサーの中には、演劇的にもみえるこの方法に抵抗を覚えるものもいますし、即興表現の苦手なダ

    ンサーもいるわけですが、とにかく何かを表現して見せないことには、新しい作品の中に、自分を生か

    す場がないのですから、必死にトライします。

    しかも無数の即興作品からピナが取り上げるのはほんのわずかで、大部分は捨て去られてしまい、ダン

    サーの自負はピナに対して複雑に反応します。

    しかしまた反面、思いがけないところから一つのシーンが構成されたりもします。私が厚かましいジ

    プシー娘を演じる場面は、ある日のリハーサルにローマのマーケットで買った“平底の赤い靴”をはい

    ていたところ、それがピナの目に止まり、そこから一気にコスチュームや状況がつくりあげられていっ

    たのでした。こんなハプニングがおこるのも新作づくりの刺激的なところです。

    わずか三週間でも、ローマの街で生活し、リハーサルをするのですから、街の印象や風景も作品に色濃

    く反映してきます。

    「横断歩道で、男は熱烈に口づけを求めているのに、女性は信号にばかり気をとられて、お座なりに唇

    だけをネジまげてキッスするイタリアンカップル」「タバコをふかした三人の中年ウェイトレスが、客に

    気怠く対応する、ローマのやる気のないレストラン」といった日常市井のチョットした切口に観客は共

    感の笑いをよせます。(12)

    「ピナのあばら骨」鷲田清一 より抜粋

    あるダンサーはリハーサルの時、突然ピナに「何か自分の得意なことをやってみせて」と言われ、習

    いたての手話でガーシュインの歌を口(手)ずさむ。『カーネーション』の舞台ではその両腕のフレーズ

  • 11

    が黒い背広を着たかれによって再現される。日常のなにげない動作の断片が、舞台の上を、そしてそこ

    にたたずむ身体のなかを、幻のようによぎる。(13)

    「愚かな身体をめぐって ―ピナ・バウシュの迂回と逡巡」遠藤暁子 より抜粋

    一九七七年、初めての、国外公演の前後からバウシュの作品は大きな変化を見せ始める。いわゆる振

    付的な要素が目立たなくなるとともに、ダンサーの個人的な背景や記憶、感情を重視した創作法への変

    化である。そのため、リハーサルの段階ではモティーフの抽出においてダンサーの即興性が大きな役割

    を果たす。「すべては『青ひげ』のリハーサルから始まったのです。その時はまだ時折用いられて、ほの

    めかされる程度でしたが。多くのシークエンスはピナが構想したある物語的なテーマを土台にして作り

    出されていました。しかし、時々ピナが私達に即興的に何かをさせるということが起こったのです。彼

    女はただただ問いだけを発し、私達は即興的に答えなければなりませんでした。最初のうち、この方法

    の真の意味はよく分かりませんでした。……皆が座って話しているだけの時間が何故費やされるのか自

    問したものです。」と、バウシュの就任時からのメンバーであるドミニク・メルシーは語っている。バウ

    シュは言う。「私は実際、ダンスがしたいのです。けれども、本当に困難なのはダンスのための的確なコ

    ンテクストを見つけること、……それ自身の存在意義を発揮するような役割を与えることなのです。」彼

    女はしばしば舞踊団のダンサーたちに問いかけることからリハーサルを始めるようになる。彼女の発す

    る数限りない問いは、愛・誇り・苦痛・憎しみ・笑い・喜び・悲しみ・気まずさなど、主に人間の感情・

    記憶・反応にその関心が向けられており、リハーサルではきわめて私的な行動様式をダンサーに言葉も

    含めた身体で表現させ、その中から彼等の生の一断面を切り取り、モティーフ化する。ある感情の痕跡

    をもつ多様なあるがままの身体的事実の、こまかな部分まで厳密に配慮された引用と、それらをコラー

    ジュすることによって作品を構成するその手法、あるいは「カフェ・ミュラー」(一九七八年)に典型的

    に見られるような自伝的モティーフの多用は、以後、バウシュの作品の主要な特徴を成し、非線形的な

    作品形成過程と、結果的に上演される作品のある取りとめの無さへと導いていく。「初めは何もなくて、

    (数々の問いに対する)答え、だれかが発したセンテンスや短いシーンだけがあるのです。それらはす

    べてバラバラですが、ある段階でこれだというものを見つけると、それを何か別のものと繋ぎ合せます。

    これとあれを、あれとまた別のものを、という風に。一つの事柄が様々な他の事柄と繋ぎ合わされます。

    次にこれだというものを見つけるまでには、最初にあった小さなものはすでにずっと大きく育っていま

    す。それからまた私はまったく違った方向へ踏み出すのです。」とバウシュが言うように、小さな発端か

    ら多方向へ(from inside outwards)作品は育まれ、二時間ないし三時間を超える巨大なパフォーマンス

    へと現実化する。(14)

    キーワード:短い質問テーマに応じる即興演技、日常市井のチョットした切口

    ここではピナ・バウシュの作品のもっとも特徴的なつくり方が示されている。

    ピナ・バウシュの最も有名な創作方法は、「即興ダンスの融合」である。ダンサーたちにテーマを与え、

    即興で踊らせる。そしてその即興でできたモチーフをピナが取捨選択し繋げていくことでひとつの作品

    として完成する。質問の内容は、「ネズミになって何かを物語る」「撃ち殺される真似」「何故ナイフを使

  • 12

    わないのか」「何か自分の得意なことをやってみせて」など様々だ。一般的に振付師の仕事は言葉通り振

    りを付けること、つまりあらかじめ振りを考えておいてダンサーに教えるという作業である。もちろん、

    即興的に踊ることもあるのであくまでも一般的なイメージでという意味においてではあるが、1980年以

    降のピナ・バウシュの作品創作においては一般的方法ではなく、「質問」をすることでダンサーたちから

    動きを引き出す方法をとった。これはとても珍しくピナ独自の手法と言えるだろう。「私の興味は人がど

    んなふうに動くかよりも、何が人を動かしているかにある」というピナの言葉がとても印象的だ。遠藤

    暁子氏の資料に「主に人間の感情・記憶・反応にその関心が向けられており、リハーサルではきわめて

    私的な行動様式をダンサーに言葉も含めた身体で表現させ、その中から彼等の生の一断面を切り取り、

    モティーフ化する。」と書かれている。観客は舞台上のダンサーの生の一断面を観ることで、その生々し

    さを感じずにはいられない。

    また、「日常市井のチョットした切り口」という部分をキーワードとして挙げた。即興で踊るというこ

    とは、踊り手の個性や経験などがそのまま表れるということだ。そして、リハーサルをしているまさに

    その時住んでいる街の雰囲気や目にする様々なモノ、人、現象は近しい記憶としてダンサーの肉体に宿

    っている。ピナの思考にも大きく影響を与えていたに違いない。日常で起こったことがそのままワンシ

    ーンになることもあれば、ちょっとした出来事(この資料では赤い靴のエピソード)から作品が膨らむ

    こともある。そうして街との共同制作という形式をとるようにもなっていった。ピナ・バウシュの作品

    創作において、「どこ」で創るのかということも重要な要素であり、その日常の何気ないカットに観客は

    親近感や面白さを覚えるであろう。

    b)踊る=生きる

    ダンス、演劇、日常の動作。さまざまな境界線が破られた作品はダンス作品であるのだろうかと言われ

    ることもしばしばある。舞台上でダンサーたちは人生を生きている。タンツテアターという表現を通し

    て、ダンサーたちの人生や生活や内面が語られるのである。その生々しい表現に観客は衝撃を受ける。

    これもまた彼女の作品の大きな特徴であり観客を魅了する要素のひとつであろう。

    「ピナ・バウシュ、生存の解剖学」 西谷修 より抜粋

    作品としてのダンスよりも、それを作り出すダンサーたちの身体的生存のほうが立ちまさっており、

    妙な言い方をさせてもらえば、ダンスという「存在」よりそれを生きる「存在者たち」(実存より実存す

    る者たち)を際立たせる舞台だということだ。・・・それがピナ・バウシュの舞台を、他のさまざまなダ

    ンスの舞台から決定的に隔てるあり様だ。(15)

    「Love Streams」 八角聡仁 より抜粋

    2ダンス/シアター

    あるインタヴューで「あなたはダンスを作るつもりなのか、それとも演劇を作るつもりなのか」とい

    う質問に対して、バウシュは「考えてみたこともない問いです」と答えたという。平凡な答えにすぎな

  • 13

    いといえばそれまでだが、なぜそうした問いが彼女にとって視界に入ってこなかったかという問題は、

    「タンツテアター」の本質に関わっているかもしれない。

    (途中省略)

    演劇と演劇ならざるものという対比について考えてみるならば、少なくとも「近代劇」において、人

    間がいて動いたり言葉を発するという営みを、「演劇」として成立させる条件は、その対比を時間的、空

    間的な枠組みとして「舞台」を設定し、それを見る者、すなわち「観客」と分割することである。そこ

    において、演劇ならざるものとは、つまり「世界」であり「現実」であり、それは「舞台」の外部にあ

    る。「舞台」はその外部の「世界」を表象しているという了解とともに、「観客」はそこに自己を投影す

    る。演劇とはある意味では、「舞台」と「観客」とを、現実と虚構とを、あるいは、演劇と演劇ならざる

    ものを、分割する線を引いていくシステムにほかならない。

    (途中省略)

    ダンス/ダンスならざるものの対比もまた、こうした「演劇」モデル、外部と内部の分割によるスタ

    ティックな構図に基づいていると一応は言える。

    (途中省略)

    「演劇」モデルにおいては、外部はつねに内部から投射されたイメージであり、その形式そのものを強

    化するものとなる。しかし、ピナ・バウシュにとって、ダンス/ダンスならざるものといった対立が重

    要でないのは、そうした「投射」システムによる演劇やダンスの自己証明を必要としないからである。

    ダンスはむしろ、ダンス/ダンスならざるもの、という対比そのものを無効にするようなものとして捉

    えられるだろう。

    (途中省略)

    しかし、バウシュの試みはただ、人生とダンスを近づけること、あるいは一致させることである。人

    生とは、内部と外部の対立の構図そのものの「外」にあるもののことだとしておこう。「舞台」という虚

    構/「観客席」という現実という対立は、もはや問題にならない。舞台の上のダンサーもまた現実を、

    人生を生きているからである。あえて言うなら、ダンスとダンスならざるものの閾は、「舞台」の枠組み

    ではなく、ダンサーの身体において求められる。そこでは、舞台の外にある何かが舞台の上で再現され

    るのではなく、閾そのものを舞台とすることで、ダンスは舞台の上でつねに新たに生まれることになる。

    3 パッション/エモーション (p262)

    もっとも、新たに生まれると言っても、それがつねにすでに反復であることには変わりはない。リハ

    ーサル=反復を始める(語彙矛盾だろうか?)ためには、現に人生を生きているダンサーたちに向かっ

    て、言葉を、身振りを差し出してみればいい。ある日、ピナが尋ねる・・・。愛という言葉から何を思

    い浮かべるか?今まで一番悲しかったことは?自国の誇りに思うものを三つ挙げよ・・・。どんな質問

    でもかまうまい。ただし問から「なぜ」は排される。問いを差し出すことによって、自己の投影ではな

    い「他者」を見いだすことは、相手の内に同じものを見つけて共有する身振りとは、はっきりと区別さ

    れなければならない。同じ問いに対しても、国籍や文化の異なるダンサーたちは、それぞれ異なった文

    化や社会に属した言葉や身振り(したがってそれは「なぜなら」という原因と結果をめぐる物語ではな

    く、具体的なアクションでなければならないわけだが)を返してくるだろう。そのプロセスから生まれ

    るシーンは、「なぜ」と「なぜなら」を欠いたまま、問いと答えの間で宙吊りになるほかない。また、同

  • 14

    じ質問が時を経て何度も問われてもかまわない。時間が、同じ人間の中にも変化を引き起こし、問いも

    またそのプロセスの中で変容していくのだから。どんな質問であれ、つねにすでに反復なのである。

    リハーサルによって人生は反復され、それはそのまま舞台へと続いていく。たとえば「コンタクトホー

    フ」の舞台装置は、彼らの稽古場がそのまま再現(というより反復)され、そこでダンサーたちはリハ

    ーサルらしきものを単調に繰り返すのだが、それは自己言及的な知的仕掛けでもなければ、ダンスの創

    造の秘密や苦悩(!)を描くものでもない。たとえばフェリーニの「81/2」とはまったく似ていないの

    である。ただ、ありきたりの動きやしぐさを続けるのにふさわしく、もっとも身近な(ということは、

    起源の物語へと遡行することのない)設定がとられているにすぎない。それぞれのシーンは、音楽の演

    奏を聴くかのように滑らかに繋がれていくのだが、それが物語の論理に奉仕することはない。そこには

    本質的に「始まり」もなければ、「終わり」というものもなく、人生そのもののように、なまなましく、

    退屈なのである。

    様々な作品の一つ一つの場面に、性をめぐる政治、男女の軋轢、大衆社会の戯画、孤独の表現、とい

    った意味を読み取ることは可能だし、それが必ずしも間違っているわけでもないにせよ、むしろそこか

    ら突出してくる細部のほうへと視線は視線は引き寄せられることになる。全員が一列になって観客に微

    笑みかけながら踊る場面では、コール・ド・バレエとは逆にひとりひとりのダンサーの手のしぐさや歩

    き方の些細な違いが強調されることになるし、同時にそれは前後のシーンから意味を剥ぎ取ってしまう

    かのようだ。

    ひとつひとつの身振りもまた、執拗に反復されることで普遍的、象徴的な意味は削ぎ落とされ、いか

    なる結論にもオーガニズムにも達することなく、物語は絶えず中断される。ダンサーたちの行為は、ま

    ぎれもなく強い情念を帯びているのだが、観客はそれを内面的、心理的な次元に還元することはできず、

    悲しみや喜びの状態、アクションはあっても、その理由や背景を決して眼にすることはない。もとより

    それは見えないものにはちがいないが、なぜ笑うのか、なぜ泣くのか、といった「物語」や「主題」が

    提示されれば、観客の視線は、今、ここに見える身振りそのものではなく、不可視であるはずのその背

    後へと向かってしまうだろう(それもまた「演劇」的な仕掛けであり、観客はそうすることで、「登場人

    物」と感覚を共有することになる)。本当は、そうした状態を悲しさや喜びの表現と見ることすら「物語」

    にとらわれていると言うべきかもしれない。実際、その舞台は悲劇とそのパロディーとが一体となって、

    安易な共感を退けるように、あらゆる身振りが表面へとせりあがってくる。

    舞台の上に、しばしば本物の土や芝生や水や樹木が持ち込まれるのも、それがいわゆる写実的な配慮

    でないことは明らかだろう。それは、「舞台」と「観客」との間で共有され交換される記号ではなく、観

    客が現実へと投射する象徴でもない。ダンサーの身体となまなましく触れ合う物質的、表層的な装置な

    のである。例外的にシンボリックな物語が語られるかにも見える「春の祭典」においても、そこでわれ

    われを震撼させるのは、死と再生の、血と大地の神話であるよりも、素足のダンサーたちが本物の土の

    上で駆けめぐり、剥き出しの身体が土にまみれる官能的な痛々しさではなかったか。

    身体は、ただ無垢のままにそこにあることなどできない。何もせずに立ち尽している時でさえ、われ

    われは重力に抗ってバランスを保ちながら大地を踏みしめている(「人生」とは重力との違和を調整しつ

    づけることでもあるだろう)。素足と土とが、あるいは身体と世界とが触れ合うとき、われわれはそれを

    ある痛みとともに引き受けることになる。人は普段、それを痛みと感じないことにおいて、世界と違和

    感なく結びついているように思い込むのにちがいない。

  • 15

    たとえば、ヴッパタール舞踊団の舞台に欠くことのできないハイヒールという装置は、その痛みを喚

    起する機能をも果たしていると言えはしないか。衣裳もまた、単なる装飾に止まらず、身体と世界との

    関係を規定する重要なファクターであることはいうまでもないし、ピナ・バウシュのコスチュームに対

    する感覚は瞠目すべきものだろう。もっともそれは、スーツやタキシードやイヴニング・ドレスやシュ

    ーズが、様々な意味や物語を引きずりながら関係のダイナミズムを織りなしていたり、歩き方や姿勢に

    影響を及ぼしていたりということばかりではない。煙草やグラスといった小道具や、椅子をはじめとす

    る舞台装置、そして舞台で発せられる言葉や、さらにはピナ・バウシュとヴッパタール舞踊団をめぐる

    様々な言説もまた、隠蔽と顕示といった両義的機能を果たしながら、身体に意味として、また視覚的、

    触覚的に纏いつく「衣裳」の変奏となっているはずである。

    素肌や素足や指で、あるいは身に纏ったコスチュームや言葉を通して、世界を、他者を、痛みとして

    経験すること。ピナ・バウシュの舞台を通じて、われわれの身体は確かにそうした経験を生きている。

    しかし、そこでわれわれは決してダンサーに「感情移入」しているわけではない。しばしばほとんどマ

    リオネットと化したダンサーが他者から動きを与えられるシーンに示されるように、そもそもそれは誰

    の感情であるかも定かではない。誰もが、感情を共有するのではなく、感情の生成する現場を生きるこ

    とで、もはや誰のものでもない情動=エモーション(もちろん、それはモーション=運動を内包してい

    るわけだが)に突き動かされるのである。ピナ・バウシュがしばしば自らの主題として口にする「愛」

    とは、まさにその非人称のエモーションのことにほかならない。われわれはその意味において、ときに

    唖然としないでもない彼女の紋切り型の発言を、文字通りに受け取ることができる。あるいは、「人がど

    のように動くか、ではなく、何が人を動かすのか」という、今や有名になった言葉をそこに重ね合わせ

    てみてもいいかもしれない。

    一人の人間がいて、他の人間との間に「愛」が生まれる、というのは、おそらく抽象的な「愛の神話」

    にしかすぎない。秩序も目的もなしに主体を、人間を、ダイナミックに通過して動かしていく過剰な力

    としての「愛」こそが先行してあったと言うべきだろう。そこでは、主体としての「人間」を必要とし

    ない。観客をも巻き込みながらピナ・バウシュの舞台に波うっているエモーションは、まさにそのよう

    なものだ(もちろんそれは、ダンサーひとりひとりが個性的であることと何ら背馳しない)。すでに「な

    ぜ」も「なぜなら」もないのだから、問題は「愛」とは何かといった形而上的な問いでもなければ、「愛」

    をめぐる物語でもない。「愛」を、いかなる物語や神話からも解き放ち、他者関係の零度、「人生の零度」

    として露出させること、そして、それに積極的に囚われた身体(「恋する虜」!)を提示すること。それ

    こそが、すべてが終わった場所に残されることになる。

    自己を他者へと投射することなく、他者と単に出会い、あるいは出会い損ねる、剥き出しの身体的関

    係性。コレオグラファーと呼ばれるとりあえずの主体は、それを観察し、露出させ、その機械的(それ

    は情動を欠いていることを意味しない)な結びつきのダイナミズムを持続させていく。そこでは、自分

    が自分でないことと、自分が自分であることとが身体において一致し、身体と他者との関わり、世界と

    の関わりが、「ダンス」と呼ばれ、それは「愛」とほとんど同義語となるだろう。(いつもヴッパタール

    舞踊団の公演が終わりに近づくにつれて、まだ終わってほしくないという奇妙な思いにとらわれる。し

    かし/そして、人生はつづく・・・)(16)

  • 16

    ここで重要なことを挙げておこう。

    『バウシュの試みはただ、人生とダンスを近づけること、あるいは一致させることである。人生とは、

    内部と外部の対立の構図そのものの「外」にあるもののことだとしておこう。「舞台」という虚構/「観

    客席」という現実という対立は、もはや問題にならない。舞台の上のダンサーもまた現実を、人生を生

    きているからである。』『そこでは、舞台の外にある何かが舞台の上で再現されるのではなく、閾そのも

    のを舞台とすることで、ダンスは舞台の上でつねに新たに生まれることになる。』とある。これはピナの

    作品が人々に衝撃を与える理由のひとつと言えよう。『誰もが、感情を共有するのではなく、感情の生成

    する現場を生きることで、もはや誰のものでもない情動=エモーション(もちろん、それはモーション

    =運動を内包しているわけだが)に突き動かされるのである。』ということも重要だ。感情を共有するの

    ではない。

    そしてピナの作品は演劇作品のように物語になることはない。『本質的に「始まり」もなければ、「終

    わり」というものもなく、人生そのもののように、なまなましく、退屈なのである。』とある。

    『自分が自分でないことと、自分が自分であることとが身体において一致し、身体と他者との関わり、

    世界との関わりが、「ダンス」と呼ばれ、それは「愛」とほとんど同義語となるだろう。』生きること、

    それは人と関わること、世界と関わること、それがダンスであるというのだ。

    観客は舞台上で感情が生まれる瞬間を目の当たりにし、ダンサーに感情移入するのではなく、観客自

    身も感情を生成する存在として内面に刺激を受ける。それが、衝撃や当惑、ショックといった言葉で表

    現されるものであるに違いない。それぞれの言葉の意味は微妙に違うが、それは人によって受け取り方

    が違うということに他ならない。

    「ダンサーとの共生関係」 より抜粋

    ダンスはメンバーの出入りが激しく、その所属もせいぜい数年という芸術形式なのだが、ヴッパター

    ル舞踊団はその点でも異例だ。二十年かそれ以上アンサンブルに所属していたり、あるいはしばらく留

    守をしてまた戻ってきたダンサーもたくさんいる。…そういうベテランたちの卓越性や人生経験が何よ

    り、ダンスの世界では比類のない人間の振る舞い方の表現というヴッパタール舞踊団の独自の能力を高

    めてもいるのである。(17)

    「ピナ・バウシュと共に生きること それは、ほんの小さな扉を開くこと」織田 要 より抜粋

    一九九五年 東京

    ピナが舞台をつくる作業を、私たちがどう生きるのかという問題としてとらえていけたらと思う。

    誠実さ。ピナの舞台ほど誠実さというものを感じさせられる作品は、他にあまり見たことがない。

    私たちの記憶の底に消え入りそうになっているある感情が、強く揺さぶりをかけられ目覚めさせられる。

    それは、何かと本当に誠実に向かい合いたいという感情である。隣に座っている友人に対して。ひとり

    のある男に対して。ある女に対して。道ばたの一本の木に対して。ぬけるような青空に対して。太陽や

    月に対して。部屋の片隅に置かれた椅子に対して。尻尾を振り続けている犬にたいして。あなたと、そ

  • 17

    して私の体の底から発する言葉とおこないに対して。誠実に向いあい、生まれて初めて呼吸し、初めて

    出会ったような新鮮さでもって、かかわりたい、愛したい、憎しみたい、生きたい。社会のいろいろな

    システムや、お金のことや、自分を守ろうとするありとあらゆる欲望など関係なく、勇気をもって誠実

    に向いあうことの中へと入って生きていきたいという感情である。ピナの作品を観るたびに、そのよう

    な感情が自分の中に巻き起こる。いろんな人の中に、それぞれ、自分が今とっている形とは別の生の可

    能性を求める衝動、誠実さへ向かおうとする種がねむっているように思う。ピナの舞台、そして作業は、

    ピナとは無縁のところで生きている人たちにとってもまた、重要な、生の新しいイメージの投げかけ、

    問いかけであるだろう。(18)

    織田氏によれば、「ピナが舞台をつくる作業」は「私たちがどう生きるのかという問題」なのだという。

    ここでも「生きる」というキーワードが出てくる。『何かと本当に誠実に向かい合いたいという感情』を

    感じる。そしてそれは舞台上のダンサーたちだけではない。『いろんな人の中に、それぞれ、自分が今と

    っている形とは別の生の可能性を求める衝動、誠実さへ向かおうとする種がねむっているように思う。

    ピナの舞台、そして作業は、ピナとは無縁のところで生きている人たちにとってもまた、重要な、生の

    新しいイメージの投げかけ、問いかけであるだろう。』とある。つまり、観ている観客もまた、ダンサー

    と同じ立ち位置において自分の生をみつめるきっかけとなるということである。

    「モダンダンスの肝っ玉おっ母」ヨッヘン・シュミット/福島博彦訳 より抜粋

    この時点(19)からピナ・バウシュの創作は、一回性の「ワーク・イン・プログレス」と見做し得る。

    それは、人間の共生の難しさに関する聡明で思いやりのある探究であり、同時に、ダンスでもことばで

    も表し得ないことを表現する身体言語の開発の試みでもあった。

    もちろん、この新しい身体言語は新たな文法を必要とする。バウシュの、身体言語の普遍言語は、ます

    ますことばを取り込んでゆく。言語と発話が新たな機能を獲得する。ピナが、ほんの小さな核となる事

    柄をめぐってダンサーたちに問いかけ続け、内面から外へと展開したテーマをもった作品、『貞女伝説』

    (一九七九)、『一九八〇年―ピナ・バウシュの世界』、『ワルツ』(一九八二年)では、『青ひげ』(一九七

    七)にはまだあったソロのダンスナンバーに替わって、大規模な発話によるアリアやレヴューダンスに

    発展したダンサーたちの控えめなフォーメーションが、作品のテーマをことばで表現する発話のフーガ

    を補うものとして登場する。しかし、だからといってこれらの作品は演劇作品ではない。作品の構造は

    音楽的である。ピナ・バウシュはメロディー、ライトモティーフ、主題、対比主題、反復、フーガ、変

    奏などを使って振付ける。つまり、作品は一種の視覚化されたシンフォニーなのである。

    しかし、決してダンスが放棄されているのではない。「私はいつも、そう、いつもいつもダンスするとい

    う全く絶望的な努力をしています」と、ピナ・バウシュは一九七八年のアルインタヴューで語っている

    が、これは、今日までまったく変わっていない。問題はただひとつ、ダンスとは何か、である。彼女自

    身も答えを知らない。しかし、彼女はこう反論する。「どこでダンスというものが始まるのでしょうか、

    どこなら始まらないのでしょうか。どこが始まりなのでしょうか。ひとはいつダンスと呼ぶのでしょう

    か。このことは何か意識と、身体の意識と関係があるのです。そして、ひとがどのように何かあるもの

    を形にするのか、ということと関係するのです。でも、そのことは、伝統的な美的な形式を持つ必要は

  • 18

    ないのです。それは、全く別のものであり得るし、それでもダンスであり続けるのです。」劇作家ハイナ

    ー・ミュラーはこのことを全く同様にとらえていた。「ダンス空間は、バレエか演劇かどちらかの文法に

    よって脅かされているが、ダンスの逃走線は、これらふたつの占領地に対抗して独自の空間を確保する

    のだ。」(20)

    観客の当惑の理由に関する記述

    理由① テーマの選択

    食べて寝る以上の人生が少なくともときおり提起しなければならないような、人間存在の中心的問題

    を扱っている。(愛と不安、憧れと孤独、フラストレーションとテロル、人間による人間の搾取、男性に

    よる女性の搾取、幼年時代と死、想起と忘却、環境の汚染と破壊への憂慮・・・)

    人間の共生の難しさを知りぬき、二人もしくはそれ以上の人間の間の隔たりを小さくする方法を探し

    ている。絶望しながらしかし勇敢に、時に楽観的な笑みを浮かべて、これまで使われてきた言語や話し

    方では不可能だと思われていたコミュニケーションを可能にする言葉を展開させ続ける。

    理由② この振付師が実存的、社会的または美学的な問題を提起する、その誰もが感じる容赦のなさ

    作品が扱う葛藤は、かわされたり、調和させられたりせずに、とことんつきつめられる。ピナは自分

    にも観客にも言い逃れを許さない。全員に、自分の不十分さや永続的な憤りを思い出させ、単調さや精

    神的な怠惰、思いやりのなさを振り捨て、互いの信頼や尊敬、配慮、パートナーシップへの思いを引き

    起こそうとする。 (21)

    キーワード:生きる、人生、人間の振る舞い方の表現、他者との関わり、新しい身体言語

    ピナ・バウシュはそれまでになかった新しい表現を生み出した。それはダンスとも演劇とも言えない

    新しい身体言語であると言えるのではないだろうか。その、常軌を逸した表現そのものが観客に衝撃を

    与えているという一面もあったであろう。また、舞台上には物語は存在しない。しかし、ダンサー一人

    一人の人生という意味においては深い物語が存在する。それは作品を創る際に色濃く表れる。ピナから

    の質問に対して誠実に必死に答えるダンサーたち。そこから生まれる感情や動きは誠実であり、リアル

    であり、まっすぐに観客の心に突き刺さる。それを見た観客は自分自身を見つめなおすことがあるかも

    しれないし、ただ茫然と、この生々しく荒々しい作品を傍観するかもしれない。それが観客が受ける衝

    撃であり、しばしば起きる当惑なのである。

    《ピナ・バウシュの言葉》

    ここまで、ピナ・バウシュの作品を観た人たちが考えたこと、分析したこと、感じたことがまとめら

    れた資料を示してきたが、最後に少しだけ、ピナ・バウシュ本人の言葉も見ておこうと思う。これまで

    の分析を納得させる材料となるだろう。

    「いつも『現在』について語りかけます」

  • 19

    「あるのは人生と私たちだけで、その作品を作るときや、ところなども作品に大きな影響を与えます。

    いつも『現在』について語りかけます。でもそれは私たちについて語りかけているのです。

    例えば、あなたや私のダンサーのこと、私個人でなく観客も含めた私たち自身の「愛や人生」がテーマ

    なのです。」

    「私も含め、観客は作品の一部なのです。作品に対して感情移入されるあらゆることが作品なのです。

    対象に対する感情が多彩であるほどその作品は豊かになります。舞台の出来事は私たち自身を描いてい

    るのですから。ダンスであれ音楽であれ観客が身を委ねることができるかどうかです。」

    「私も踊るつもりで作品をつくっています。私と誰かのためにつくっているのです。」

    「大事なことは、どんな表現も必然性をもっていて、自然にあるべきだということです。」

    「常に慎重に舞台を見つめているのです。舞台はよりよく発展しようとする「生きもの」ですから。」

    「期限があるのは、私には非常にいいことです。新作のために突然 1 年の時間をもらっても、いいこ

    とはないでしょうね。長く続きすぎるときっとまとまらないという気になるし、いくつかのものは私と

    は関係なくなってしまうでしょう。一年もたつと感じ方も違ってくるから、始めたことが今の気持ちと

    一致しなくなってしまう。一年後にまだ同じ作品に取り組んでいたら、きっとうまくいかない。最初に

    これだと考えたときとは全く違うものを、つくりたくなると思う」。

    ピナ・バウシュの共同制作では、音楽や歴史や様々な出来事にふれて表現の世界を広げている。

    「人は一緒にいると思いがけずとても親しくなれるものです。ある都市を訪ね、そこを探求して、見て、

    感じ、味わい、匂いを嗅ぐような諸々の体験を通じて内面的なつながりを持ったものを見つけます。私

    はこのような作業をそれぞれの国でずっと続けてきました。」

    ピナ・バウシュは一つの都市に長期滞在してその都市をモチーフにして創作する「国際共同制作」を

    1986年以来続けていた。そこに住む人々との接触や探索によって共感を得、自分自身と距離をおいてい

    たものを近づけ、自国の文化や西欧の様式や文化の伝統を超えて、他の文化、世界観、人生観、神話・

    伝説との遭遇を大きな収穫としてつかみとり、また舞踊制作の動的要素にして、いわゆる“エスニック

    な舞踊”と呼ばれるようなものではない、「ピナ・バウシュの世界」を明確に表現してきた。

    「自分の中に強くあるものをどのように表現すればよいのか、どう取り組んだらよいのか……

    かかわり合いの中からインスピレーションが湧き起こってくるのです。様々な事柄を自分の中に取り込

    むのです。私たちは、作品を次から次へとつくり続けています。作品は、その事情や関係でこみいって

    くるのです。ですから私たちのしなくてはならないことは無限に続き、終わらせることができません。

    永遠に完成されないのです・・・。」

    ピナ・バウシュは自分の創造したスタイルを固定することはなかった。自らの形式を反復するような安

    易な表現の方法をとらない。自分のスタイルを壊しながら進んでいく方法をとった。(22)

  • 20

    5 おわりに

    ピナ・バウシュという人は、何を表現したかったのか。それは、美しい身体の動きではなく、舞台に

    登場する人物のストーリーでもなければ、なにかのメッセージでもない。そこには、人間が生きること

    が純粋に表現されている。これはダンスなのか演劇なのかという質問に対してピナ・バウシュは「考え

    てみたことがない」と答えた。そして、とあるインタヴューでは「私はいつも、そう、いつもいつもダ

    ンスするという全く絶望的な努力をしています。」とも言っている。ダンスがしたい。そのためのコンテ

    クストを見つけるためにダンサーへ質問をなげかける。それはつまり、彼女にとっては生きる上で行わ

    れるすべての動作がダンスになり得るということだと解釈したい。舞台の上のダンサーたちは「生きる」

    という作業をしているのである。

    ピナ・バウシュはダンサー全員が舞台上で生きる姿を観客に見せることができるように、作品を創作

    する際にはまずダンサーたちに質問をなげかける。正直、踊りで表現するには難解な質問ばかりである。

    「自分の得意なことをやってみせて」という、質問とは言い難い要求をすることさえあった。質問を投

    げかける相手は、特定のダンサーの場合もあったであろうが、多いときには全員がひとつの質問の答え

    を探して即興を試みることもあったというから驚きだ。ピナ・バウシュが投げかける言葉に応えようと

    ダンサー全員が必死に即興をする。そこには、ダンサーひとりひとりの背景が詰まっているのである。

    だからこそ、生々しいだとか、暴力的だといった解釈がなされる場合もあるのだろう。

    こうしてダンサーたちが必死に絞り出したムーヴメント、モチーフをピナ・バウシュが拾い集め、つ

    なぎ合わせていく。これがコラージュという作業である。ピナ・バウシュの作品の特徴であるコラージ

    ュという技法。違うモチーフをつなぎ合わせることで、そこからは物語性や意味性がかなり薄れる。さ

    らに、「ひとつひとつのモチーフは執拗な反復を繰り返されることで普遍的、象徴的な意味が削ぎ落とさ

    れ、物語は絶えず中断される。」と資料にあったように、「動きを繰り返す」という、これまたピナ・バ

    ウシュ独特の創作によりその動きそのものは意味を持たなくなる。そういったことが起因して、観客は

    目の前で踊るダンサーに対して感情移入することがなくなる。

    おそらくこれが、私が感じた「違和感」である。物語を上演する際、多くの観客は主人公に感情移入

    し、主人公と共に一喜一憂する。しかし、ピナ・バウシュの作品においてこの「感情移入」という現象

    は起こらない。(もちろん、全ての人がすべての作品に対してあてはまるわけではない。)なぜなら物語

    の主人公がストーリーに沿って一喜一憂するわけではないからである。ぶつ切りのシーンが次々と展開

    される上に、ダンサーひとりひとりの極めて個人的な感情が目の前で示される。したがって、私は「感

    情を共有するのではなく、感情の生成する現場を生きることで、もはや誰のものでもない情動に突き動

    かされるのである。」という意見に賛成する。「踊ってみたい」と思った理由はおそらくここにある。舞

    台上で生きているダンサーたちを観て、感動はしなかった。しかし衝撃的で、時間はあっという間に過

    ぎた。目の前で行われる感情の生成とその荒々しく生々しい様に突き動かされて、踊りたくなったとい

    うことなのだ。彼女の創作のテーマは何かといわれると、一言では言い表せないし、そもそも言葉で表

    現することが正しいのかとさえ思う。しかし、インタビューや彼女や作品に関する記述を読んでいて感

    じたのは、大きな「愛」が彼女の中にあるということである。こんなエピソードがある。

    あるトークイベントが行われた際、そのイベントの進行役の男性が歓迎の意味を込めて数十本の赤い

    バラをステージ一面に散りばめておいた。イベント終了後、彼はピナを食事に誘った。ピナはバラを一

    本拾い、楽屋でも移動中のバスの中でもずっと手にしていた。そして、レストランのテーブルに着くと、

  • 21

    自分と向かいに座った進行役の男性とのちょうど真ん中に、赤いバラをそっと置いたという。

    たったこれだけのエピソードなのだが、なんとなく、彼女の人柄がでているように思える。これを読

    んだとき、私ははっとした。彼女の作品は、おそらくこういったことの積み重ねによってできているの

    だと感じる。舞台の上でダンサーが生きている。人生そのものが作品になっている。それを観て、私の

    場合は踊りたくなった。それは私が普段から踊りを嗜んでいる人間であるからであるが、おそらく劇場

    にいた観客の半数はそうでない人たちだ。ダンサーではない人たちまでもがスタンディングオベーショ

    ンで、拍手喝采を送っていた理由については、今回明らかにすることはできなかった。

    彼女は亡くなる直前まで舞台に立っていた。今となっては後の祭りだが、彼女が踊る姿を生で見るこ

    とができなかったことが悔やまれる。論文を書き始めた当初は理論的に観客を惹きつける要因を見つけ

    出そうと思っていたが、それはとても無意味な気がしてならなくなった。結果として論文としては極め

    て結論の見えにくいものとなってしまったが、私自身はピナ・バウシュのタンツテアターが持つ魅力を

    少しだけ、理解できた気がする。この先ヴッパタール舞踊団がどのような未来を行くのか分からないが、

    ピナ・バウシュの人生と愛が途絶えぬことを願う。

  • 22

    資料1

    <作品一覧>

    ※日本公開題名に準ずる

    年 作品名 音楽 (テキスト) 舞台 (衣裳) 初演場所

    1968 フラグメンテ(断章) ベラ・バルトーク ヘルマン・マルカルド エッセン

    1969 時の風の中で ミルコ・ドルナー エッセン

    1970 ナッハヌル(零の後で) イヴォ・マレック クリスチャン・パイパー ミュンヘン

    1971 ダンサーのためのアクション ギュンター・ベッカー ヴッパタール

    1972 タンホイザー リヒャルト・ワーグナー ヴッパタール

    1972 子守歌 童謡「コガネムシとんだ」 エッセン

    1974 フリッツ グスタフ・マーラー ヴォルフガング・フ

    ーフシュミット ヘルマン・マルカルド ヴッパタール

    1974 タウリスのイフィゲネイア クリストフ・W・グルック ユンゲン・ドライアー ピナ・バウシュ ヴッパタール

    1974 二本のネクタイ ミーシャ・スポリアンスキー ヴッパタール

    1974 あなたを殺す ダンス音楽 カール・クナイドル ヴッパタール

    1974 アダージョ グスタフ・マーラーの五つの歌曲 グスタフ・マーラー カール・クナイドル ヴッパタール

    1975 オルフェウスとエウリディーチェ クリストフ・W・グルック ロルフ・ボルツィク ヴッパタール

    1975 春の祭典 イーゴリ・ストラヴィンスキー ロルフ・ボルツィク ヴッパタール

    1976 七つの大罪/怖がらないで クルト・ヴァイル (ベルトル

    ト・ブレヒト) ロルフ・ボルツィク ヴッパタール

    1977 青髭/ベラ・バルトークのオペラ ベラ・バルトーク ロルフ・ボルツィク ヴッパタール

    「青髭公の城」のテープを聴きながら

    1977 私と踊って 民謡 ロルフ・ボルツィク ヴッパタール

    1977 レナーテの移住 ヒット曲、流行歌、スタンダード・ナ

    ンバー ロルフ・ボルツィク ヴッパタール

    1978 彼は彼女の手を取り城に誘う ペール・ラーベン ロルフ・ボルツィク ボーフム

    ― 皆もあとに従う (シェイクスピア「マクベス」より)

    1978 カフェ・ミュラー ヘンリー・パーセル ロルフ・ボルツィク ヴッパタール

    1978 コンタクトホーフ(ふれあいの館) コラージュ ロルフ・ボルツィク ヴッパタール

    1979 コラージュ ロルフ・ボルツィク ヴッパタール

    1979 アリア/貞女伝説 コラージュ (オヴィディウス・ヴェ

    ーデキント) ロルフ・ボルツィク ヴッパタール

    1980 1980年―ピナ・バウシュの世界 コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1980 バンドネオン 南米のタンゴ グラルフ・エザード・ハッペン(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1982 ワルツ コラージュ ウルリヒ・ベルクフェルダー(マリオン・スィトー) アムステルダム

    1982 カーネーション コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

  • 23

    1984 山の上で叫び声が聞こえた コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1985 闇の中の二本のたばこ コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1986 ヴィクトール コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1987 アーネン(祖先) コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1989 パレルモ パレルモ コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1991 タンツアーベント(ダンスの夕べ)Ⅱ コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1993 船と共に/ピナ・バウシュの世界 コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1994 悲劇 コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1995 ダンソン(ダンス狂) コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1996 あなただけ コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1997 フェンスタープッツァー(窓を拭く男) コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1998 炎のマズルカ コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    1999 おお、デッドー コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    2000 緑の大地 コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) ヴッパタール

    2001 アグア コラージュ ペーター・パープスト(マリオン・スィトー) �