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Title ティムール朝 Shah Rukh 麾下の中核 amir Author(s) 安藤, 志朗 Citation 東洋史研究 (1985), 43(4): 692-726 Issue Date 1985-03-31 URL https://doi.org/10.14989/153970 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title ティムール朝 Shah Rukh 麾下の中核 amir 東洋史研究 ......amir (AR: 539) @Khidr Khwaja 同定可能な人物が 2 名存在 @Khw 亙 nd Sa ‘ id @J Shibli @Md

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  • Title ティムール朝 Shah Rukh 麾下の中核 amir

    Author(s) 安藤, 志朗

    Citation 東洋史研究 (1985), 43(4): 692-726

    Issue Date 1985-03-31

    URL https://doi.org/10.14989/153970

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 692

    アイ

    ムール靭

    ω}戸川町}戸

    河口付げ

    屠下の中核山口回目円

    士心

    序〉haぷNN

    とB

    除去向守からの曲目町名の抽出

    EH岡山町

    遠の系譜と

    ωEFHNzrr政権参奥の具鐙相

    E

    。。

    ティム

    lル朝第三代君主

    ωZY河口rr(一四

    O九|一四四七在位〉は、園都国民営を自らの政権の援黙とし、父叶日

    BR

    (一三七Ol一四O五在位)の硯後分裂の傾向にあった諸地方を再統一、〉

    SRE三宮--H同21町長同与

    を除く父の奮領を支配

    下に置き、ティム

    lル朝約二ニ

    O年の内最も波凱の少ない安定した一時期を現出した。

    本稿は、ティム

    lル朝時代支配階級に位置しつづけ、就中軍事上の有力スタッフとしてしばしばベルシア語諸史料に登

    場する

    自己円と呼ばれる一群の人びとの内、この

    ω}戸削「剛山戸

    wrの麿下にあって自口町層の中援を占めた人びとの性格を

    解明しようとする試みである。

    ティム

    lル朝史、特に叶目白骨硬後のそれについては、この回同口町に閲する問題も含めて未解決の問題は極めて多く、

    (l〉

    擦るべき研究成果は必ずしもその解明に十分寄輿しているとは言い難い。筆者はティム

    lル朝史の理解の篤には、人的要

  • 表1

    出amlr

    名|職

    掌|

    1 2 3 4 5 6 7 8 9 10印

    刷附

    |所

    領・そ

    の他

    ①Miq.

    r亘b会A

    D,T

    0000000 0

    Qunduz. Baghlan

    ②Ibrahim SI.

    会A

    D,T

    00000

    Qunduz.Baghl亙n,

    I~fahãn

    ③SI.

    Md.

    AD,

    T

    Qunduz・Baghl亙n

    @‘AIi

    ③SI.

    B亙yazid

    AD

    。Qutl

    亘nBarl

    亙s⑥Shaykh Luqman

    T

    。。0000 0

    000

    Bakharz

    ⑦Pir

    Luqman

    T

    。B亙kharz

    ③SI.

    Shah

    AD

    。。

    。⑨Tukal

    。。

    ⑬Nushirw亘口

    o 0

    0000 0

    0

    ⑪Ijel

    Mirza

    。⑫

    'AIi

    AD

    0000 0

    0

    ⑬l:lasan ~ufï

    食A

    D,T

    000 0

    00 0

    00

    0

    ⑬Mil}.r亙b

    AD

    Fushanj

    Tarkh亙n

    ⑮Md. ~ufï

    AD,

    T

    。。

    000 0

    ⑬Yusuf

    ⑫Khusraw

    ⑬Md. Ghiy亘th

    'Alika(家)

    ⑬‘Alik

    a

    AD

    00 0

    0000 0

    00 0

    0

    Marw, Sarakhs

    ⑫Shaykh Abu al-Faq.

    1 A

    D

    。Marw, Sarakhs

    @Firuz Shah

    女AD

    0000000

    00

    000

    Abarquh, hf

    ahan

    @Al}.mad

    AD

    0>

    αコ

    同市山田

  • 司自由Arghun

    ⑫Khwand Shah

    。I写fa

    han

    Sh亙h

    (家)

    @Ml).d.

    Sh亙h

    I寺fahan

    @Sa‘亘dat

    I~fahãn

    ⑧Sayyid

    Khwaja

    カA

    DO

    x

    R互d

    k亙n

    (Fa号il).

    : 279)

    Shaykh

    ⑫Ilyas K

    hwaja

    A

    D

    0000 。

    R亙d

    kan

    (Fa寺il).

    : 279)

    , Ray, Qum

    ‘Ali (家〉

    ⑮Yusuf K

    hwaja

    A

    D

    。。

    00

    0

    Ray, Qum, Luri

    stan

    ⑫Sayyid Y

    usuf

    AD,M

    Rãdkãnσa~ï

    l). : 279)

    @'Uthman

    AD

    1396

    年庭7flJ

    (Yazdi: 278b)

    Qipchaq

    @l;Iasan Jand亙r

    。。Tabas (

    Mirkhwand: 545

    ),反

    逆(AR:108

    )

    @Yusuf Jalil

    。ム

    Tab

    as (尽

    A:61a),反

    逆(AR:108)

    @l;Iasan Aqa

    AD, T

    反逆

    @Malik

    l;Iusayn

    Y

    Ozbeg

    ③Farrukh l;I

    usayn

    Y

    @Chaharshanba

    Y

    。。。

    。。Nukuz

    ⑨Musaka

    AD

    000

    Ulugh Beg

    に輿えられる

    ⑧‘Abd al-

    $amad

    AD, T

    Ox

    ム。

    Garmsir (l;I

    A :

    302 a) I~fah互

    n(Zoche :

    117)

    Belkut

    @Shah Malik

    AD

    0

    0 0

    0000 0

    Khwarazm

    Durbat

    @Jahan M

    alik A

    D, T

    000

    1408年

    庭刑

    (AR:109

    )

    Dughlat

    @Sulayman Shah

    *A

    D

    ×

    N亙yman

    @Lutf Allah

    AD

    0

    0 0

    1414

    年Shiraz

    の支配を更

    迭さる(l;IA:234a)

    Arlat @

    Y亙d

    g亘rShah

    。。0

    0 0

    00

    Mirza 'Al亘,

    al-Dawla

    の義父

    (AR:650)

    @Farman Shaykh

    B

    00

    00

    00

    0 。

    g

  • ~

    @Mus亙Rigm亙l

    o 0

    00 0

    @Ardashir

    T

    1417年第

    2回

    遁明

    使節

    O;IA

    :298a)

    (AR: 309)

    ⑫‘Ajabshir

    。。。

    ⑬Pir M

    d.

    AD

    λmul, Sari

    , 1405

    年底知Ij

    (AR: 16)

    ⑬Sayyidi

    1441/42年

    F亙rs

    で死

    残(AR:757)

    不明

    @Yunus

    Baysunghur

    の大

    amir

    (AR: 539)

    @Khidr Khwaja

    同定

    可能

    な人

    物が

    2名

    存在

    @Khw亙ndSa‘id

    @JShibli

    @Md. 'Abbas

    年代

    記側

    から

    @Md. Pirzad

    アー

    タな

    ⑧SI.

    Qabul

    @B亘y

    du

    o Shah R

    ukh麿

    下に

    存在

    ×反

    逆ム

    投降

    1< amir al-umara'

    にな

    った

    amir

    Md.=Mu1).a

    mmad

    M1).d

    .= Ma1).m

    ud

    SI.=Sult亙n

    AD=amir-i diwan

    T=tuwachi

    Y=yasaul

    M=muhrd五r

    B=barschi

    出自欄で(家)とあるのは,部族名が不明な矯,一族の内最も早くティムーノレ朝下で活躍した人物の名を以って,便宜上集園名と

    し7こ

    もの。

    (出典)

    Barlas部,

    Tarkhan

    部,'Alika

    家,Arghun Shah家

    に関

    して

    は本

    文参

    照。

    その

    他は

    ,特

    に注

    記せ

    ぬ限

    りMu'izz:97a,

    132 b, 133 a

    , 134 a

    , 135 a

    に擦る。

    1 Kh

    urasan

    卒定

    (1405)

    (I:IA :

    13 b-17 a, 28 a-3

    1 b,

    48 a-51 a) 2第

    1衣

    Mazandaran卒

    定(1406)

    CI:IA: 58b-74b,

    Taj: 107

    a)

    3 Balkh卒

    定(1407)

    CAR: 101-104,

    Faeyi1).:

    176)

    F・40>

  • umu

    4第

    2* Mazandaran卒定(1407

    )(AR :

    104-106)

    5 Sistan

    卒定(1408

    )(AR: 12

    ト127)

    6第

    1次

    Mawar亙,

    al-N

    ahr ZP:定(1409

    )

    (AR: 129-132,

    140-151, Fa

    寺市:188,

    192-194)

    7第

    2* M

    a wara'

    al-N

    ahr卒

    定(1410

    )

    (I;IA :

    124 a-139 a)

    8 Khwarazm卒定(1413

    )

    (I;IA: 196a-198 b

    )

    9第nた‘

    Iraq-i‘Ajam

    ,F亙rs

    平定

    (1413

    -1414)

    (I;IA :

    221 b-248 a,

    AR: 275)

    10第

    2次

    Fars卒定(1415

    )

    (I;IA: 261 b,

    266 b

    -278 a,

    AR: 317,

    Fa~il:t: 222)

    11 Kirman進

    軍(1416

    )(I;IA

    : 285 b-288 b)

    12 Qandahar

    方面卒定

    (1417-18)

    (I;IA :

    298 a-302 a, Fa号il:t:

    229)

    13 Badak

    hshan卒

    定(1418

    )

    (I;IA: 303a-305b)

    14第

    1* Adharb亘YJ

    亙n遠

    征(1420-21)

    (I;IA :

    322 a-340 b, 344 b-374 b

    , AR: 408

    )

    15第

    2*

    Adharb亙yj

    亙n遠

    征(1429-30)

    (AR :

    600-633, Fa~

    il:t: 266)

    16‘Ir

    亙q-i'Ajam進

    軍(1446-47)

    (AR :

    862-882)

    1ほo樹酎

    !後~臨時Ia'者~~*ま士事*~必時久

    j時Pば点。時J~手当*1寵

    :!;!~0さ士事保

    01

    !曜会

    l 轄.oí'\..,Gl 0..lJ~t-(l

    iミωmê

    .oí'\。。。0>

    同Mu'izz al-Ansab

    iミ心o

    amir ~0君沼

    (C¥l) amir ~0

    ~喜望以翠

    ,_)'~話料~蝋J制よ

    j 制í'

    .;2腔5祭会

    l輔さ誌がぬ民主:!;!

    Mu'izz al-Ansab

    ~-\Q的。

    JL制,

    ~J 0 M

    u‘izz 0

    (的)

    Shah R

    ukh 0道互いば同れJ~ν

    ムt-(lamir !!I出

    会)rShah R

    ukh闇

    f-'-0

    amir

    淵J

    ..lJ~挙,_)'時J0-fトム

  • 向、その他特筆すべき黙を掲げたものである。

    さて、この表ーをベlスに

    ωZF岡山口

    ry曙下の中一核回日町を窺うならば、切白HE田部、叶RWEロ部、メ

    E内同家、〉同

    mrE

    ωEr家の四つの集園を無視することはできまい。何故なら、

    ωzrmzry在世中一貫して同ロ岡山同ム呂

    B削ロを輩出しつづ

    かっこの四つの集固には各戦役の際毎回の如くその名の記される曲目町が存在する、と

    いう事賓が表ーより窺われ、このことはこの四つの集園が

    ω『岱河口}岳

    躍下で看過し難き勢力を所有しつづけたことの

    反映と思われるからである。そこで次一章ではこの四つの集固に所属する同BWムEBEについて、その系譜、地位・職

    けた集圏はこの四つに限定され、

    務、所領等を検討することにしたい。その結果、彼らが紛れもなく

    ωZF河口

    rr瞳下の中接曲目同円であったことを明らか

    にし、あわせて各集圏の持つ特徴も浮彫りにしたいと思う。向、個個の自己円の検討の手順は、原則として先ず彼らの略

    歴を端的に停える

    ZE--NNの記述を示し、次に他の史料から特筆すべき貼を述べていくこととした。

    E

    曲目可達の系譜と

    ωEr岡山口rr政権参輿の具鐙相

    - 93ー

    (1)

    回目富田部

    周知の如く、、H,HB旨をはじめとするティムlル朝王家の人びとはこの切回ユ営部に所属する。従って表1に示す切回ユ官

    部の曲目町一一名は皆、

    ωZYHNEw-Mと同族ということになる。系譜上では

    PR削nr同が共通の祖先である

    oPRry宵と

    (6)

    7〉

    はチンギス・ハンによってチャガタイの王停に任。せられた千戸長の一人に他ならぬ。

    系譜1に見るように、⑮Z口印YH同省削ロ

    を除く一

    O名の自己円について、その血縁関係を確定することができる。ここでは地位・職務、所領に閲してまとまった

    、lJ、lJ、1J、1J

    情報の得られる、系譜1の系統

    abceに属す由吉町八名をとり暴げることとする。

    rikrtkrll、rtー、

    、lJ

    系統

    ar--、

    697

  • 698

    Barl亙s部系譜1

    Qarachar

    Yesunta Munka

    Jahangir

    ⑥Shaykh Luqman

    ⑦pjr Luqman

    1Gh柿出f川 ni Nur Malik

    i⑤ちldEyazld

    Shirgha

    Mubarak

    Chaku

    Jahan Shah

    Buru|rlduq

    ④‘All

    ②lbrahim Sl.

    ③Sl.Md.

    ①Midrab

    ( c)

    Lala

    Y?dgEr

    ⑨Tukal

    〕冒

    hu

    r'tl、

    ljel Nuyan

    Taraghay

    Tim日r

    MIrErl|Sh泊

    。ijelMirza

    (a)

    Ildar

    Mubarak Shah

    ③Sl.Shah

    DR削nEHの六男

    ωE円mEの流れを汲む、

    (UZE

    に始まる家系である。考察劃象は①冨主同問ダ②

    FEESω-J①

    ω--冨仏・

    ④・〉ロの四名である。

    B円円

    富三円削σ

    〉同国同門

    t土

    ①冨与刊号||この

    ω削fEC可制ロ陛下

    (H叶同門出口同)の御前で田口比三

    門出毛削ロであった。〉BHHω島田σDH円削ロ陛下

    〕P+A

    r--、

    は、彼を紳の恩寵を受けたる

    rrg同Pωzr

    河口

    rr目白ゲ包日に興えていた。阿ハゲ己創印刷ロへ

    移った。曲目HH色

    tE口氏問

    であった。

    ZB削ロ

    - 94ー

    を所有した。

    pcロ【ZNと

    aZEの民は、

    彼が知ろしめていた。陛下

    (HωY削『河口rr)

    (8)

    35の支配権

    (fEEECを彼に興えた

    〔巴〕

    が、同じ頃紳の慈悲の許へ身罷ったハ

    ERS

    。Nず)。

    3EFHNzfyの許で〉曲目同ヱ門回目当削ロであっ

    た。

    ZB削ロを所有した。

    zd司副nEでもあっ

    た(冨ロニ

    NNHENS。

    ( d)

    ①冨手同与は二三九七年

    ω『削FHNEWYが同

    rzza

    印刷ロの統治を委ねられ民民営へ赴いた際、吋

    EZH

  • の命によって彼に伺候した

    gMM同の一人である(ペ自含

    HN由。る。彼は

    ωEV河口wrの圏内秩序の再編成が始まる一因。

    (9〉

    五年以降、麿下にあづて片腕として多大な貢献をなす。殊に一四

    O六年

    @ωauユ仏関rdZVが失脚して以後、

    BMH同名の列

    事の際には如何なる史料においても必ずその筆頭に彼の名が記され、

    瞳下最有力の

    BH同であったと思われる

    oZENN

    記載の

    mgH同色目ロ自由同制JEd『削nEという地位・職務は、彼の

    ωZV河口-岳政権下での最高責任者たるを如貫に語ってく

    れる。所

    領面に閲しては、

    ER仲良から

    P戸同

    HEN-切mwmE削ロ方面と明町田方面と、が認められる。

    先ず

    Cロロ

    EN白aEE方面について言えば、これが彼の父のgrpに由来する、目白骨時代からの世襲の地であり、

    ハ日〉

    かっその地にユルトを持つ切口日

    Eaなる部族に射する支配権を伴うものであることは、既に関野英二氏の指摘されると

    (ロ)

    ころである。

    - 95ー

    一方司副ロ方面の所領に関しては、年代記より次の如く跡附けられる。

    一四一四年、

    ωzrmzrrは富山門N削rwg門-R7・CBRωyarrr・、H,HgRに矛先を向けた第一次・

    rzム

    a

    〉』自ロ・問削同凹

    卒定行動を敢行。同年夏

    rpEロを攻略後、既に降伏していた

    ωZHRに下馬、その際①宮年同削σに

    35の支配権を

    授ける。か

    の園の統治権

    (qFC、かの地の支配擢を世界で最も光輝ある曲目町、最も公正なる自己尺〉

    gw冨芯同息切与包日

    西は関r口NUSロ、南は回目白ロNに至るまでのかの領域を治めるよう一寓騎程が定められた

    に任じた。彼に伺候し、

    (恒〉H

    U

    山岳P

    〉初日い山∞AFN∞ω〉。

    しかしこの委任も束の聞、彼は病窺。兵砧の守りとして

    rrrEに残留していた呂町品目日EBω己窃ロゲ・

    ωzrHNc-岳

    が召され、以後司副円印の支配は彼が司ることとなる(恒〉一

    N8y〉MNHN∞∞〉。

    ①HV円削ESω----tこの

    FH削ZSωロ-Sロは、〉BHH冨主円与の残後

    EHMH牛ロ

    BR削.となった。

    FMEE3

    699

    の日目削ロ

  • 700

    の支配権を彼は所有した。そこに居た。彼は罪を犯し、彼を〉BMHN削Edzmy∞諸

    問口HW削ロの許へ迭った。その地で残した(宮尺尽いお印)。

    は彼が知ろしめた

    orprE

    3zrHTMWげの許で)(同SH同ム〉門同日当官であった。

    zsEを所有した。

    zd〈削ロ宮でもあった(冨ロニNNHHSS。

    FH削古Bω--の初出は①呂田仏門間σ窺後牢年を経た

    一四一五年春(司〉い

    NEY〉剛山口MWC∞〉。

    zc.FNNに見える自己門田「

    55吋削JEH弓削口Eという地位・

    職務から、彼の

    ωzr河口wr麿下での買力の程が窺えるが、必ずしも但B町中の最高者

    であったとは断言できない。というのは、彼とほぼ同時期、後述する叶

    Rrrg部の⑬恒82ω口問問も同門口町包

    EES円削.と

    zd司削nEを任じており、むしろ後者の方が有力であったように見受けられるからである。

    所領に闘してγpaHNN

    は切口BE々の呂ヨ削ロと

    rrzpの支配権とを記す。切回目E与

    ZB削ロについては、それ

    が先述の如く

    DS仏口N

    ・∞aEEの支配に閲わるものである故、①冨主同早からの相繍と見倣せようc

    この場合の呂BE

    (

    )

    とは、「一高人の軍園を編成できる程の遊牧部族の一意味」とする関野氏の考えに従いたい。一方

    rrrEの支配権につい

    (比)

    ては、トF4白同日より一四二九/三O年にこの②

    FEE目白・が

    rprEに居たことが知られている。しかしながら、その

    支配擦が如何なる内容を伴っていたのか、果して恒常的に②

    FEESω「

    au

    nwd

    に興えられていたものなのか等、疑問黙が残

    (日)

    る。何故なら既にこの時期

    rrEロは後述する〉晶冨ロ

    ωZF家の所領になっているからである(一一

    O頁〉。

    彼に闘する記録は、右記の一四二九/三O年を以って途絶える。冨ロぷNN

    は彼が罪科を負ったことを記すが、諸年代記

    はその件に閲して黙して語らぬ。

    結局、②巨品EB巴・は一四一五年から一四二九/三

    O年までの約一五年間、

    轄下の有

    力曲目町として名を留めたことになる。

    さて、②

    FH笹山ヨ巴・

    以後約八年の空白を置いて、

    一四三八|三九〉・

    0・¥八四二〉・出・

    この家系の成員が年代記に

    登場する。①戸冨仏・

    である。

    ①ω--冨仏・ー

    lこの

    ω己芯ロ冨忌曲目日包は曲目町ム門出羽削コであった。

    ρロロ門古N

    と回同mEEの支配は彼が知ろしめて

  • いた(宮口ぷNNH呂田)。

    また年代記側の記述とは、

    かの陛下ハHωr削vmcrr〉は、〉ヨ日同ω己-A

    削ロ昌三百BB包

    σ・〉日間同Fr削口一ω「削}回切RE印に恩寵を施し、曲目町ムロ

    -e

    とした。zd『間ロ冨の職位と軍の阻SMH職(BE胡mfzdanE35削『丘二grECを彼の善き采配に委ねた。大同日間同

    (ロ自由円削.1J3B)の列

    r配せられた(〉河川、口3。

    という内容のものである。

    (日間〉

    先ず地位・職務に闘し、自民同ム己ロmwzd『間口Eが確認される。いま、同HUH-己口凹の寅態については情報を絞くが、

    zd品nEとか軍の曲目町職といった重要職が併記されていることから察して、彼が富岡山ZZB削ロとしてトyプクラスに

    あったことだけは認めうる。

    この家系にはあと一人、年代記には登場せぬ④メロがいる。以下に冨c.FNNの記述のみを記す。

    @メロ||このメロは曲目町-F呂田宮であった。紳の恩寵を受けたる

    ωzr河口wr回忌包日に仕えた(冨竺-NNH呂田)。

    系統b

    考察封象は⑤巴・切削司自民である。

    - 97ー

    所領面では、DロロLE・∞同mEEの支配権が依然確認される。

    @ω--M凶同百NE--aこのω己付制ロ切削可印刷正は曲目日HSF呂田削ロであった。DEEロ(日開rEE〉の支配擢を彼は所有した。

    〉自日刊誌門凶mw

    冨ロ官ヨヨ包甘-両日

    (σ・ωzrH凶己目円HH)の許で

    Zd『削口宮であった(冨ロニNNH沼田〉。

    3grHNzrrの許で)同ヨ同HaH円凶ZEであった。gsEを所有した(冨戸ニNNHHωω白)。

    701

    一四一四年と一四四六年の僚にωzrHNcrrに従軍したことが記録される(司〉

    二ωω

    。p〉河川

    UN3・

    230この三

    O年齢の記録上の空白期聞には、宮ロニ誌が記すZcf回目B包EEに仕えた時期が存在すると思われる。

    ⑤ (j)

    切削可REは、

  • 702

    一四二七年

    czmy回認がウズベクの切REと戦った際、冨ログ釦ヨヨ包甘Eは自分自身の親属の

    EBE(55E4Frrg哲11

    後三四四四|四五〉・ロ¥八四八〉・出・

    51Mgとこの⑤包・切司自民を率い

    て援軍に赴い

    ている(司〉

    HtNS。一四四六年の従軍記録は、宮口官

    55邑

    EE残

    硬)、再び

    ω「削FHNCWY麿下に入ったことを示すと思われる。

    ところで彼の父

    za円富田-FWについて、冨ロニ

    NNは以下のことを俸える。

    この

    Z骨玄白

    -FWは

    RUHZsgruロであ

    った。

    ω削HVFD回同副ロ陛下の時代、吋日wg削ロの民は彼が指揮した。〉日目同

    制削乞

    σPFHE陛下は、彼を彼の軍と共に、紳の恩龍を受けたる

    EXE-ωErHNZWY∞匝EEHに輿えていた

    (yp・FNa

    NHむH

    ゲ〉。

    〉日目同

    Z口同冨白

    Ew--PEEロの支配権を持っていた

    (ZENNニgyωzrHTHrrの

    Ed『削ロ冨の項〉。

    これらの記述から、先ず⑤巴・

    切asEの

    ωgr岡山口WV政権参輿は、買はその父

    ZRZ色野が

    dB骨によって

    ωzr

    。onu

    河口

    wrに興えられたという経緯に由来することがわかる。更に気附くのは、

    ZR冨色野

    、が、口B日の時代、自己同

    達の統

    (

    )

    属関係では

    SHWa-zsEよりも下位に位置したと思しき戸HUH-ρ5Y口ロであったという貼である。きれば⑤戸切削3NHL

    ωgymcrrの時代田口MM225叫ロであったということは、

    ωF削『剛山口rvの新たな

    mwHHHH1HEHHM削ロの抜擢ということに

    なろう。

    所領については心三釘ロが父子世襲の地として

    EC・RNから窺われるが、他の年代記からそれを裏附ける記述は見出せ

    :、o

    fh守、LV系

    統C

    PR削nEHの四男

    JpmES冨

    E

    Eの家系に所属する

    EM--ZB削ロの考察を行なう。考察劃象は⑥ωFafrrBBE-

    HVH同FCρB削ロ父子である。

    この

    ωrarrrsBEは

    ZgEを所有した。切削rZ同国の支配権は彼に属した。

    zd〈削ロEであった。彼の残後、彼

  • の息子司同門戸ZB皆、彼にその父が所有したと同じ職務(自国nE〉が任ぜられた(冨ztNH吉田)。

    〉BH同ωZU『wrFZBEll切削WEHNの支配援を所有した。

    (mm)

    〉日目円吋WFZBE--父の窺後、(切削rrRN)の支配擢は彼に委ねられた(宮口ぷNNLωωyωEFHUH-HFの

    Zd司削口宮

    の項)。

    上記より

    Ed『削nEという地位・職務及び切削WERという所領が認められ、いずれもこの父子の聞で相繍されたことが

    わかる。一方年代記では一四三七年の僚にその相績の記録が見出される。

    円回目d『削ロム

    Ed『剖ロ百において田BHH早口自民間・であり、阿PEEBFωち仏陛下

    (HωEV河口WV〉に劉し、近侍の築審と

    かの陛下は、彼の職務と地位を、その

    親族の関係を持っていた〉B町

    ωrawvFロABEFE削印が現世を後にした。

    正嫡百円戸口ρg削ロに賜わった(〉閉山い

    J33。

    。日削gcに任ぜられ、捺印した(〉

    Hfsc。

    - 99ー

    (八四一年)刻印官民

    I月一一一一日(一四三七年九月二三日)、〉日目門司HHFロρBEは円回目当剖ロム

    -SFE同において田BHH職

    円山Hd『削ロ・ご戸当副円古

    (Ed匂削nE鹿)、或いは

    岳若宮EF-srrR(軍隊の官腐)が、ωEY河口ry政権の門町当官の機構全鐙の中で

    (MW)

    具睦的に如何に位置づけられるものなのか、いま論及すべき材料は提供されていない。ここでは冨竺HNNw〉閉山

    隻方の記

    述から導き出される最小限の事賓として、

    @ωrawvT55Eが門回目当削ロム

    Zd司剖ロ宮に所属する

    Zd司削nEとして、

    mwgH吋

    (

    )

    曲目'cgR削w(ω日町中の間

    55と表記される程の高い地位を保持していたこと、そして彼の地位・

    職務は子の⑦回同

    FZ一gE

    へ継承されたということを確認するに留めたい。年代記からの裏附けはとれないものの、切阻害曲目の所領相摘も地位・職

    務の相績と同時に、つまり一四三七年になされたはずである。

    ところで

    JFN含は、

    一三八

    O年

    WN削冨WEωZFσ・吋円50同が州内FgH削印刷ロの統治を委ねられた際、彼に伺候し、

    703

    家族と共に阿岳民同印刷ロへ移るよう

    H,

    HB骨に命ぜられた回目HH達の筆頭に

    @ωZユVF己ρg削ロの父』与削ロ∞HHの名を記

  • 704

    す(

    Jへ回N含一

    H25。また宮口

    aFNNはこの』白

    }MEm-同について以下の如く俸える。

    rfrE同副ロの時代、同門出回円

    1HA57口ロであった。切削

    rERの支配権は彼に麗した(宮ロニ

    NNH∞∞σ)。

    このJ

    円自門回目と冨ロ

    aFNNの記録を考え合わせるならば、』出

    }MEm四日円は吋日ヨロ円の時代田ヨ円三宮∞ゲロロであり、

    開ハ

    72削凹削ロに移住して以後四削

    rrRNに所領を持

    ったと見倣すことができる。されば、

    rrEmF@ωrafyF25削P

    一三八

    O年

    HJHFC門戸gEと三代に亙るこの家系について以下の貼が指摘されよう。すなわち、⑤

    ωrarrFZBEが

    gL155E

    であることは、

    ωzr河口

    rrの新たな回

    BH255Eの抜擢であったということ、

    及、ひ

    切削

    rZRの所領は

    γyEm可の

    阿ハ『口同削印刷ロ移住に由来し、叶吉岡口同の時代からこの家系の世襲であったということの二貼である。

    、11〆

    系統

    erjl、

    考察封象は心回同削岳町の次男-一仏国吋の流れを汲む

    @ω一・

    ωzrである。

    ③巴・

    ωEr--この

    ω巳判官

    ωEYは最初

    ωE同削Nで〉ヨ円円乱含

    EBZSω巳神宮(ゲ・盟副

    YHNzrr〉に仕えた。その後

    関白色宮へ行き、何ハ白・

    Eから畏ると同ハ

    ZAEiFω由民日仏陛下

    ωzrmcrrω三百ロに仕えた。〉ヨ可色合宮口

    Z55邑EE-100一

    (σ・

    ω}凶削ゲ河口付どにも仕えた(宮

    ENNH850

    理下にあったことが知られる(〉河川

    Er

    ω]・ωZYは一四

    O九年の第

    一次冨削者向刊と・2同町卒定及び一四一三年の同

    r老町田

    NB卒定に際し、

    ωzrHNcry

    恒〉

    HHφ寸寸)。冨己ぷ

    NNは、最初公司耳目一

    )ω宮同削

    Nで

    FEESω己神間ロに仕えた

    それまでは

    ω『削Y

    河口

    rr轄下にあった

    と記すが、

    FBEBω己百ロが

    ωゲ可制

    Nへ赴くのは一四一四年のことであるから、

    と考えるべきである。

    ZE--NNの記す彼の

    阿内田正同行きの正確な時期はわからない。

    FEESω三件削ロの残後とすれば、

    四三五年以降ということになる。聞内田示白から戻り、再び

    ω「削rHNzry麿下に入った③

    ω「

    ω『悶「は、

    一四四四|四五〉・

    0・¥八四八〉

    -E・三度年代記に登場する。

    52削ロtppt陛下は、〉

    g回同冨

    E住民主'り

    zpgロωgrFユ削∞|ーその頃

    FH-官王家において彼より年長で

  • かつ知恵を有する者はいなかったーーを

    gHZ仏

    Z

    Eとした。含唱削ロの重要事の慮理、

    王園の諸事の掌握を、彼

    の善き知恵と経験に委ねた(〉河口∞お)。

    (幻)

    ここに至って漸く彼は同gHHBF門HZEという地位・

    職務を以って、園家の重要事に大きく閥わることになるのである。彼

    ωEVHNC-岳の残年まで瞳下にあった(〉河川∞一

    g・∞叶N〉。

    以上で、切回己創印部の曲目回同

    aFZBEの個別的検討を終える。

    (2)

    4HH同一層RVME部

    叶同HWEロ部に所属する

    gHHHの個別的検討を行なう前に、この血縁集圏そのものについて言及せねばならない。

    先ず

    g円wrEなる語であるが、これがモンゴル語

    EHAgtERS、トルコ語

    SEElgRgに由来するものであ

    り、特権所有者の稽放であることは周知の如くである。しかしここに現われたる

    SHWEロが部族集圏の名稀であること

    は、冨ロニNNが⑭冨宇品ゲについて、「叶RrrE部出身(回目官dqHHユ吋REE)」(冨ロニNNHSSと記していることから明ら

    (m)

    かである。門出問看ヨという語は宮口ぷNNでは全て部族集圏の意味で使われている。

    (お)

    系譜上、現段階最も湖りうる人物は、系譜2に示すのEZF曲目白山口吋Rry削ロであるが、彼は「(U75何回N間宮ロ

    が広島冨ロ

    とした

    DFmy--Eの家系に属す」という(

    J

    円自丘二hg。これが異質ならば、この家系は『元史』巻二三ハ、仏ロ刺仏口孫俸

    に「擢啓土日躍篤千戸、賜競答刺翠」と記され、『元朝秘史』にも、チンギス・ハンによってダルカンの特権を援けられた

    (泊)

    として名高いキシリクにまで湖ることになり、その名の起源はやはり稀競たる宮島町戸削ロに求められよう。しかしながら

    emE-Eと

    OEZF早口Z叶RWEロとの聞を結ぶ系譜は、今のところ未確認である。また、この吋RWYE部に属す

    (

    )

    曲目可達が、買際

    g同町冨ロに由来する特穫を保持していたことを示す関連記事は、管見の限り見出せない。

    この一族と

    ω『削ymzrvとの関係について註目すべきは、。yqgy回-sUFロ叶RWY削ロの娘。担当FRωr包一か

    ωr削vmcrr

    - 101ー

    705

  • 706

    系譜 2 Tarkhan部

    Ghiyath al-Din Tarkhan

    Hamza Sayyid A):Jmad -l

    ,aTA -u

    QU・

    --n

    y

    a

    P3 u

    H・

    ⑬Md. $ufi ⑬Basan $ufi

    ⑬Mi):Jrab

    ⑫‘Ali

    Ni氾g亙訂rAgh 互 Sa'a亙da討tSu叫Ilt恒an1

    (…h凶…mmadd)Hrr「「(f「「「Rh恥Rust凶凶s坑t叫口b. '句Uma釘rSha勾ykhI I Sha可ykh1 b. Timurの妻 ) '-b. Timurの妻

    Sh亙hRukh=Gawhar Shad Agha

    の第一夫人であったという事貫である

    (玄己ぷ

    NN一

    ωNσ)。すなわち、この一族は

    ω}戸削ゲ河口}ハプと姻戚開係にあったわけである。

    さて、表1に示した叶RrrE部の白岡回目ZZBE七名の考察に移る。

    七名の内、

    ⑮J

    へ官民・

    @同35SF@冨仏・0E百円Y

    の三名につ

    いては、残り四

    (お)

    名の白gH同

    達や

    の同君}阿国同ωゲ立と同族であることがわかるだけで、具瞳的な血縁関

    係を確定することはできない。

    またωErpHry在世中、

    諸年代記に彼らは全く登

    場せぬ。従っ

    てω『削『河口ry時代の彼らの動静は

    一切不明である。

    一方、

    残り四名の

    自己同

    達、すなわち@-EF@恒82叩口F@冨在吋剖ダ

    @冨仏・

    山川口町については以下の如く考察がなされる。

    qL

    nu

    A

    @長町||曲四百円三岳若宮であった。

    EBEを所有した。

    @恒即日目叩ロ『HIll白百四三円凶ZEであった。

    ZBEを所有し、

    zd司副nEであった

    (ZENNLωω同〉。

    雨者は、

    一三九七年

    ωzrHNcryの阿在日削印刷ロ赴任の際、彼に附けられた自己同

    である(

    J

    へ自門出HNきる。彼らの地位・

    職務に闘し、明白羽忌が以下の情報を提供する。

    神の思寵を受けたる大曲目F

    メ'z・白】s

    ロza〉}日叶Rrr削ロσ・〉BH同の

    }MF

    gy

    --UZ叶RFEロ(八二

    O年)HNと与月一一一一日、月曜

    (一四一七年九月四日)理。

    彼は陛下の目gHZ内凶ZEであった。彼の兄弟〉日目同司

    88叩口同日叶RrEロゲ・

    〉B可

    OEZF白「り山口、HRrrEに、同ヨ町田-E己BR刊の職位を授興

    (m,g手一

    NNmv)。

  • ⑬恒白白血ロ官民間に輿えられた曲目HH

    巳己目白同町の地位・職務が、果して死残した⑫‘〉町が所持していたものなのか、この

    記述からは判断できない。だが冨ロニNNWm,SHf

    壁方の記述から、少なくとも、⑬恒

    gg∞ロ止が一四一七年以降曲目町

    巳己

    BR刊と

    Zd『削口Zの二つの地位・職務を任じたことは窺えよう。されば、この時期曲目町田】目己自民削噂であった人物は、

    この⑬司自由ロ山川口止と、先述した回目町田部の②臣品

    EB巴・

    (九六頁)の二名ということになる。

    一瞳曲目町中の最高者

    たる回HHH

    同門担】BE口氏削・が同時期二人いたのであろうか。

    いま解答を輿えるべき的確な史料は挙がっていない。

    しかしなが

    ら、一四一六年の同町

    BE準軍に参加した自民同

    達を列師事する全ての同時代史料は、一致して⑬恒忠告九宮内同を、②

    FEES

    巴・を含む他の削HHM

    可達の筆頭に掲げ、更に列奉した同じ即日町達を別の箇慮では「〉B回同信

    ggq口出叶

    RWVEと他の

    同日間同達」と記す(恒〉HN∞∞Y

    N

    ∞U1PHり田明日σHNNF

    】恒〉

    υHJ330

    この記述を考慮するならば、この時期の回日町巳'己目白内

    の寅態がどうであれ、⑬司82MW口氏は一四一六年既に瞳下最有力の自己円であったかと思われる。

    一四二四年⑬恒

    88叩凶片山は死窺、息子⑭宮忌同与が後縫する。

    ⑪冨手同削げ

    118LZ門同日当官であった。

    25Eを所有した。明白田宮との支配権を所有した(宮ENNHEω目)。

    後縫を俸える記述は以下の如くである。

    (H⑮司自

    gmw白片岡)の正嫡〉ヨ可冨庄司削ゲ同,

    RWEロ・:に、同

    ESE--ω叱正陛下は恩寵を賜わった。彼の父の職

    位、公司削ロム主削の自己同職。ヨ町民ム仏

    ZE--回」削〉を〉SHH

    富山官与に委ねた(〉河口位。)。

    -103ー

    右記にみえる「含看削ロム主削(中央官隠)の

    BMH同職」が、四日目円ム円回目当官の職務を意味していることは、諸史料の

    (

    )

    関係の記述内容を検討することによって、ほぼ確定することができる。つまり⑬宮在日σは、宮ロニ闘の記述にある如く、

    自己ヱ岳割削ロの地位・職務を一四二四年以降保持したのである。彼には明白凶

    FB〕の所領が宮己ぷNNに見出されるが、他

    門日目当削ロ

    の諸史料からそれを裏附けることはできない。彼の死硯は一四一一一一年とされる(司

    g忌日目。)。

    707

    ⑬豆円四・叩白出

    1112戸HH-T凶Hd司副ロであった。

    EBEを所有したハ冨尺仲良HHωωダ

    ωzr岡山口

    ryの宮司削ロ冨の項〉。

  • 708

    彼の活動期聞は記録上一四一

    O年から一四四六年まで、

    ωzrHNcry時代のほぼ全睦に亙っている。

    一四四六年の記録

    とは、

    ωzrHNCWYの

    Eム

    EB進軍に際し、円山Hd

    弔問ロ内の自己門

    職。日削円三)の潟

    国民営に留められたというもので

    ある(〉河口∞

    8・gδ。彼が自己

    Z(同ZEであったという宮口ぷ誌の記述は、この

    門-ZEとの関連を一示す記録から一泉

    附けられるかと思われる。

    以上検討の結果、

    ωEr岡山己岳在世中に登場する叶RrrE部の

    RUM-25E四名全員が、自己吋'H

    円回目当官として

    ωEF

    HNCWY麿下に参入し、その内少なくとも二名が苫当

    rz職を任じ、

    がわかった。

    一名が醒下最有力の自己同巳自己自由同町

    であったこと

    (3)

    akp

    戸時阿世家

    この家系の所属部族名は不明。この家系が表舞蓋に登場する直接の契機を作ったと思われる⑬

    RE巴内同の名を以

    って、

    (

    )

    「メE同曲

    家」と稿す。系譜3に一示すように、メ-FW同家にはKF

    門EW以下に三系統が認められる。〉円山口}内自身については一

    -104一

    切不明である。考察劉象は⑬メ

    EEと@ωraw-戸〉ゲ白色匂主-父子である。

    ⑬メ

    ES--田HHHHZ円回目当官であった。

    ESEを所有した。呂田同省と

    ω曲目wZの支配権及び

    rrEロの徴税権(自己宮主町)

    も所有した

    oEEF倒的『であった(宮口ぷ闘い呂ω$。

    彼の活動は一四

    O五年から一四四

    O年まで確認される。その関白

    HUH-岳項削ロという彼の地位・職務の遂行を示すと思

    われる記録が以下の如く見出される。

    一四

    O九年第一次冨劃宅問削・主

    12mwYH卒定の際、

    ωEVHNCWYは「前もって〉日町長-町田ナロ同ロメ

    -F白を門回目当官の

    役人達〈zgg剖

    -B

    L門司削ロ)と共に、城市と財庫の掌握の篤

    FBR円以同HLへ波遣した」という(〉列ニ

    ωN〉。この時の門戸

    ZE

    の役人とは、

    ωau『広岡県宵回目'UHロと

    ω喜三円HNaロ同て〉σ正日ロの二名であった(匂85H53。

  • 'Alika家

    ⑬‘4ilh;⑤st @併sJいm町ゆ叫y作kth1 」UM s l hh 亙

    Abu al-Facll-! -UJ.U," ''o

    Baba Mas'ud

    系譜3Aduk

    Khw亙jaR亙sti

    B亙b亙 Mahmud

    Musa Baba Musa Mirak

    709

    Mus亙Shaykh

    Sultan Adham

    (Barl亙s部)

    また一四二

    O年第一次凶昏

    RE三宮遠征の際には、関rd品V

    C旦σ同--UMロ冨ロザ

    BHH岡戸田島

    5E口氏自BEEと共に、円防省副ロの租税〈ω自唱削}司阻止

    EZ告司削ロ円)の掌援の潟、『与HMN

    涯遣された。同地において、「〉

    B町

    E・巳・り日ロメ-HW同は臣民会民ぞ百円〉に閥わる諸事、

    園の重要事を正しく遂行した。

    PR削吋凶由民が作り出していた新しい習慣を麗し、

    シャリ

    l

    アに関する事柄の整備、全ての重要事の掌握に従事した」と記される(〉

    musu--企P恒〉口

    ωωNPωω∞ぴ

    wωω@伊)。

    右記の内、彼に同行したと記される

    ω昌三円日明白

    -FZ色・ロ

    z・ωauユ門HNa口同て〉σ正日ロの

    二名は、冨caFN

    N

    では

    ロ目当日明白骨肉削ロム叶削」HW

    の項に-記名されている。また

    D三σ色

    'uz

    zc官BB包冨

    5Y田口民自ヨロ削巳も、町内ぷ手では剛ハ

    rd号制」同

    ωZ目的早口問ロ宮戸}E55注目・

    -105ー

    やはり

    Ed司H回目念的削ロム叶とH

    W

    の項に記名のある宮口'

    V問自白色白ヨロ削巴と思われる(冨ロニNNHHωω

    ず)。ロ担当日印回ロ門UmEaFH,削』HW

    とは、諸史料では

    省民間円であるとか包-vFムZEなどと稿され、この

    ω曲目白

    Zg仏や叶与同日N

    の場合に見る

    如く、

    ωEr岡山己岳に従軍し服属した都市へ赴いて財庫や租税を掌握したり、課税に闘する

    仏同町S円(帳簿〉

    の作成や(〉河口

    53、御前曾議において徴税に闘する協議を行なう(〉河川

    日ロ削巴とな

    っておりハ明怠HVHN8〉、

    aAF)など、言わば財政面の執行スタッフであった。

    曲目町・:凶

    ZEであ

    った⑮メESは、これら希同NH同と如何なる閲係にあったのか。それに

    ついては先越の、「〉BH同

    a

    ZEを門出者削ロの役人と共に」とか、彼の名を代表させて「全て

    の重要事の掌握に従事した」という〉河の表現から、地位として司自可達の上にあったと

    推察される。

    一四四

    O年

    ωEV河口

    wrは

    ω日EWZへ鷹狩りに出愛する際、「〉ヨ町長]HW

  • 710

    関口

    -s-gmrを国民間門

    の支配に留めた。

    数名の内同日当

    EQ削ロを彼の許に置いた」という(〉河川昌⑦。〉HN

    での門町考古ぞ削ロ

    (mU)

    は話回

    NH円遠の一意味で使われているから、この記述からも彼が話回NHH達の上に位置していたことが窺えよう。かく君、宮町

    の上に立っ

    て園務

    ・財務に携わる被の立場は、白HH戸山門ム門同日若宮の寅態の

    一端を示しているかと思われる。

    ところで⑬メzr白はその晩年、

    麿下最有力の自己円たる貫力を保持していた。それは以下の推定に基づく。

    〉ヨ町長

    -H}内担問ロ

    E-g岳の

    残後、〉ヨ同門同色刷-巳・ロ門口出品目

    ωzrの権威と権力は以前よりも増大し、他のき回目同

    達、

    園家の柱石達には園務と財務の如何なる事柄につい

    ても権力は残らなかった(同「若宮缶百昨日

    830

    右記の〉

    BH司』回]削戸田

    ]-uzm,HHEωZYとは、@百円口

    NωErのことである。この人物が記述にある如く園務・財務に製

    肘無き権力を行使し、

    紛れもなく陛下最高の買力者となった事賀は後程詳述する。いま問題なのは、この@明日丘町

    ωzr

    の首位の座獲得が

    「〉百円円・〉ES同県白

    ]gmrの残後」と明記されている貼である。きれば⑬

    aEHEは生前@百円。

    NωZF

    -106ー

    と同等もしくはそれ以上の買力を保持していたと想定されるべきであろう。⑮‘〉巴内回が鷹下最有力の自己同たる賓力を

    保持していたと考える所以である。

    彼の所領に

    ついてみてみると、冨己負HNN

    は富民話と

    ω向島

    Zの支配穫と

    rpyEの徴税擢を記している。

    rrgロの

    徴税権を裏附ける記述は諸年代記からは認められない。

    一方、富氏名と

    ω白Erzについては以下の記録が認められる。

    先ず兵の召集に闘し、一

    O六年他の田口同町数名と共に

    ω同ErZと宮貨当から彼らの監督下にある

    (gaEZEE-EB削ヨ-

    山田富ロ)兵を率いたという事質、及び一四

    O七年他の二名の回目町と共に

    ∞包

    mrFω月間

    wzw呂田

    Hdqw宮削

    rrEの兵を一年

    いたという事買が確認される

    (国〉一

    gp〉河一

    530更に目を引くのは、

    一四一

    O年に行なわれた富良司

    の復興事業

    において大回目町

    からは彼と⑮宮口凶削回∞ヨ巳が責任者となり、濯概工事に始まる一連の修築に携わっている事買である

    (恒〉ニHNP

    〉河口同包〉。

    彼と富田同

    dqとの関係は彼の残する二年前の

    一四三八年秋にも認められ、その時は富良宅地方

    (mw)

    で「農耕と建築〈

    NE耐えdg」日削

    E)」に従事したという(冨巳岳司削ロ仏日戸ω〉。これらの記録は彼の冨問看と

    ω向島宮

  • 支配擢所有の一端を示すと見倣せよう。

    (

    )

    ⑬メロEの息子

    @ω}Mary〉σ凶同】1

    明白色についての

    zcaFNNの傍注は⑬メロEと同一なので割愛する。彼は一四四

    O

    (位)

    年、父より岳項削ロムベ釘の職位(日

    g包ゲム仏刊誌ローζ」削〉を相摘惜し〈〉河川主吋〉、自己

    2岳44削ロに任ぜられる。その後

    ωEr

    河口rrの残年まで瞳下にあったことが知られる(〉河川∞芯)。

    ところでこの家系は⑬‘〉ESによって

    ω『削r河口wrと特別な闘係、が結ぼれている。

    一に指摘すべきは、冨ロぽNの「

    }SE-g各(乳兄弟)だった」という記述である。〉河には

    「かの陛下

    (HωEV河口WV〉

    の日内向E-g岳であった〉ヨ町長ES」(〉MNいき)と更に明確に自記され、

    ⑬メ

    -HF同曲、が

    ωzr河口町rと乳母を同じくして

    育った乳兄弟であることが知られる。

    第二の指摘として以下の記述を引く。

    〈⑬‘〉ZEは)いつも宴舎や集舎で誇らしげに語っていた。

    「叩与

    FDFH削ロ陛下〉宮町叶EMU同州内REロは、

    ωzrMNzfr

    -107ー

    陛下を私に託された官官邑〉」と(〉月一足ヴ。

    ωEY河口rrの生年は

    二二七七年(

    J

    門誌缶h

    H

    きる。⑬

    R

    〉日目}内向は

    一四四

    O年の死授の際、九

    O歳を越えていたというから

    (〉河口

    23、ωEF閉山口rrの誕生時には二

    O代後半であったという計算になる。乳兄弟とは言いながらかなりの年齢差が

    あったわけで、従って吋

    HBRが彼に

    ωzrm己岳を託すということは年齢の貼からも首肯できる。

    かかる黙を踏ま

    ぇ、いま、この⑬‘EHEを

    ωr岱河口ryの後見人とする∞・∞・切曲。42rh氏の考えを追認する

    (

    )

    ロー同一司・印∞〉。

    ハな吋羽可申申制国

    20呂田区同3.

    以上でメES家の回目日

    ZZB削ロ⑬メZW同と

    @ωrary〉σ白色匂&-の検討を終える。

    711

    (4)

    kp月間開園田W回切阿国札制V

  • 712

    系譜4 Arghun Shah家

    Arghun Sh亙h

    Muhammad Shah

    Isma'il

    ⑧MQ_d. Sh亙h

    Uways

    @Khwand Shah

    @Sa'adat I I I

    ‘Ali Sult亙n Abu Sult亙n I:lusayn Sa'id

    @FlrlfIZ Shah

    ②AQ_mad

    (

    )

    (

    )

    所属部族名は不明。但し系譜4に一示す〉同mrEωゲ削「は、叶CHrsE系のぬrE削ヨ(小姓)で

    あっ

    たと博えられる(叶丘一色白)。この家系がティム

    lル朝政権に参興する契機を作ったと思わ

    れるこの〉同myEωzrの名を以って、「〉門的吉ロωZF家」と稽す。考察封象は@百円口NωZY

    @〉HMg包・

    @Hpd司副ロ仏ω}凶副yw

    @EZ・ωZY

    @ω竺削仏国同の五名である。

    @百円。NωEY--m凶HUH-門町名削ロであ

    った。

    EBE及び〉ZZロ「の支配権を所有した(冨己ぷNN一

    H

    ∞ω白〉。

    右記より

    @明日HEω「削「の地位・

    職務として、白BHZ会話削ロ

    が認められる。

    しかしここでは、

    年代記より四つの事例を星示し、

    彼がωゲ削VHNzry治世晩期紛れもなく自己門

    中の最高者

    自己同

    白--cgmw同門であり、

    膳下最高の買力者であったことを特筆する。

    一四三四年、ωzrHNZWYは第三次回ιrRE己削ロ

    遠征を決定する。その決定の経緯

    -108ー

    (事例1)

    は次の如くであった。

    園家の柱石達、御前の貴顛達は、その(同門FRE三宮

    遠征の)延期の篤力を蓋したが無駄

    というのは、〉百回同】白E同ナヨロヨZNωEYが内密に、「宮町N劃切削ヨロロmFC円

    (σ・

    〈叫叫

    )

    ωV岱河口WY)が逝かれた故、この戦役は是非行なうべきです」と上奏し、かの陛下はその

    £-つ--。

    ナ4

    /

    日薬を承諾していたからだった(〉河口町山吋N)。

    (事例2)

    附ハゲ唱削』白】U同町〉-vg邑とメロω720削旦

    が御前曾議に参

    列し、】削目地方の徴税につい

    て協議していた。その席上、その頃ωzvmzwrに目を掛けられ、

    若宮町

    職を狙っ

    ていた同74〈削百ωEB凹回ナロ宮

    、が、‘〉]Fω72円山削ロ日の失策を上奏するに至った。

    一四四

    一年、時の当SF

    ω日戸削YMNZV円一yは事の調査を首時日出回同世「EHMR同・

    であった@目立MNωZYに命じた。彼の調査に

  • よりメ町ωFE包巳は罷克、代わりに同74『忠mwωr曲目印曲

    -sロ山口が当日目同に就任した。また烈yd司旦印刷MW〉HVB包は、園

    務と財務に閲して擢威の極みにあった@明日同旨ωEFの政策を常に桓絶し、それを自慢にしていたのだが、彼もまたこれ

    を機にそれまでの勢力を失った(〉河口叶

    2・33。

    一四四二四三〉・0・¥八四六〉・戸、HNaと品同

    2・七〉』曲目方面の宮ES選定の問題が持ち上がった。これ

    (幻)

    より前、@明日HEω『削『は国民削円で切札戸内包auzadBRから一つの話を聞いていたという。それは、回同r削.同-'口問ロが

    (事例3)

    心印刷当日ロにあるωrarr〉HV自主のEN削町の廟を参奔した際、「ωvary〉HVB色。EN削ロが偉大なる聖者達と共に、冨間同N削

    ω巳芯ロZcgB自主

    σ・切削ヨロロmv日σ・ωEロ河口wrをかの地の冨-25にした。」という内容の啓示を授けられたという

    ものだった。絶劃的擢カの所有者(包-rfFrrZ32BZ22〉であった@HJHEωEFは、この話を記憶に留めていたので、

    かの地の宮EBに冨可品ω己芯ロ冨c宮田自主を推した。それはそのままωZY河口ryの決定をみた(〉河口

    J

    ミω・3S。

    ハ事例4〉

    一四四三年、@明日円白Nωzrの園務と財務における権力と専制は筆舌に壷くし難い程となった。ωzr剛山口WY

    -109一

    にはこのことが重苦しくのしかかっていたのだ、が、他に園事を遂行できる白BHHがいなかったので見て見ぬふりをしてい

    た。その頃者同NHHのωauユ門で回目立包10Eは日毎に勢力を増していた。@目立MNωZFは、回同日目岳地方の税の掌握の魚、

    彼を一該地に波遣することを決定した。彼はその任命を僻退し許しを請うたが無駄だった。ωEYHNロWFもまた、ω印可可正

    aH自主主自己円ロには出巳WVの重要事以上の任務途行を墓んでいたのだが、@明日HEωEFの決定を饗えることはできなか

    った(〉河川、吋8hE)。

    以上回つの事例より、@同り日ZNω冨何回が軍事(事例1)、圏内統治(事例3)、財務執行スタ

    ッフたる

    羽田NH同

    達(事例2、

    4〉に封し躍下最高の買力を備えていることが窺えよう。かく園務と財務南面にわたる彼の製肘無き擢力が、

    事例2にみ

    える自己同色aEロ白内という地位・職務に由来していることは明白である。ただ、一つ正確を期すならば、彼が轄下唯一

    最高の貫力者となるのは前述の⑮メESの硬後、すなわち一四四

    O年以後のはずだから、曲目町巳'ロヨ民間・の職位も或い

    -'113

  • 714

    (

    mぬ〉

    は⑬メZE硬後に獲得された可能性がある。

    一四四四年@同日弘前ωzrは死現。

    息子@〉σB邑が門町名削ロム主削の回目同門

    (戸同口町民ーζZEaz--どを相損する(〉河川

    (ぬ)

    E

    C。この岳dSロム由民]削の回目HH職とは、自己円'二日目若宮の職務を指すと思われる。⑫〉-vB包は一四四七年ωEr岡山口rv

    の残するまで麿下にあった(〉初日

    gg。

    この一族の所領に

    ついて考察する。

    先ず冨ロニNNは@百円EωErの〉EZ口『

    の支配権所有を記すが、他の諸史料からそれを裏附けることはできない。

    その一

    方、我我は以下の如き知見を得る。

    長きに亙り、rpEロについてはその支配穫は〉日町百円口Nωゲ削「に属していた。最初彼の兄弟〉日可欠ゲ削ロ仏ω『削y

    〈日@同yt乱ロ門田ωV削「〉がrrEロのグ削ESであった。彼が死んで後は、〉B日同呂町凶75ロ門日ωzr(H⑧冨乞・ωEY)

    が(冨EBであった)。その頃〉ヨ町富島g巳仏ωzrは病となった。

    〉SH円ωペ包回同ゲ・〉日間同問YE仏ωEV(H@

    -110ー

    ω民包曲。

    がおじの見舞いに行

    った。・::間もなく

    〉BH円冨品目包ーωEFは死んだ。

    〉BHHω伊ぷ含件

    、が後継者とな

    た(Vap同日υ

    句。・門町・叶』J

    町二ωωω)。

    rpv宮

    、が

    ωzrmcrFの支配下に入るのは一四一四年。その時呂町品目N5ssσ・

    dsRωyarrHU・

    吋日目白円が統治

    を委ねられる(恒〉口Nbp〉同仰いいおN)。】同ap門戸の記述にある@同rd『宮島ω}凶削『

    は、富山HN削剛山5gg

    の硬後

    HOPEロの

    官在日となり、

    一四三五年に残したと停えられる(〉河川ミ

    30また@ω竺削島田貯

    はrrrEの門町同口何日戸田であったが、

    四六年

    呂町品ω己窃ロ宮口官ヨ自主の侵攻に遭い、捕えられている

    報を総合するならば、この一族がrpyEの支配権を所有していたことに疑問の絵地はなく、

    (川叫

    )

    (

    H

    U)

    mggB窺後から一四四六年までのこ二年間と見倣せよう。

    次に、この〉何百ロωZY家のωEFHNcrrとの関係における特徴を、

    (〉河川市山

    8・レ『田‘四回同日日印U1H・

    吋』J同

    H83。これらの情

    その所有期聞は宮町品

    その嘗主と思しき@百円官ωzrとωZF

  • 河口}同町の鮮に焦離を絞って考察する。

    @同町

    HH口Nωzrの父〉同

    myロロ

    ωErは、

    一四

    O五年から一四

    O九年まで

    ωgR官包を援黙に

    ωzrpFと劉抗闘

    (

    )

    吋問自白同の許で、有力自民同の一人であった。この〉

    HmrEωZF

    係にあった宮町品開

    EEωロ宮ロゲ・宮町削ロ

    ωEFゲ・

    異なる政権の下で、

    は、

    ωZFHNcrrが一四

    O九年

    ω由BRAg仏を服属させた際に慮刑される(問白羽目

    fH56。さればこの四年開、父と子が

    しかも互いに敵劃する支配者の許で各各活動していたことになる。このことは

    ωzr岡山岳

    Vの@目・

    同ロ

    Nω『削『

    に劃する信任が家系とは無関係であり、@岡山片山

    Nωgr個人に由来することを推測させる。

    ではその個人的関

    係とは如何なるものであったか。微弱ながら次の記述、が目を引く。

    彼(H@明日同ロ

    NωEF)は、若年の初めから人生の晩年まで忠誠の足跡を以って阿

    PEE-FωpaEに仕えた(同

    rd『削・

    ロ円山田口回目同日。

    ω0・。ω]F〉。

    すなわち、彼はその少年時代から生涯を逼じて

    ωzvmcryに仕えた、言わば

    ωEFHNZWV子飼いの田

    BWの生え抜き

    だったのではあるまいか。因に彼の記録を湖ると、回目白同の七年戦役(二ニ九九|一四

    O四〉の際、既に

    ωEFHNZWV

    の即日間同として記されている(

    J

    町民岳山

    ω∞UZ。つまり、彼は叶

    HBRの生前から

    ωEY河口

    wrの捜する三年前まで絶え

    ω『岱河口

    wrに伺候しつづけたと見倣すことができるのである。従って、この家系の

    ωZY岡山口

    rr時代における浮上

    は、@明日同同

    Nωr削r、が幼少期より培った

    ωEF河口wrとの信頼関係に基づくと考えて大過あるまい。

    以上、最-初に表ーをもとに

    ωEY河口

    WV瞳下の中接釦自可であろうと推測した切

    RE凹部、叶RrrE部、メ

    ES家、

    〉同ぬ

    FPロωzr家に属す回目日同

    -FZBEについて、検討を重ねてきた。その結果この四つの血縁集圏は各各、〈同族〉、〈姻

    715

    戚〉、〈乳兄弟かつ後見人とその一族〉、〈子飼いの

    mg町の生え抜きとその一族〉といった特性を

    ωzr岡山口

    WVとの聞に

  • 716

    保持しつつ、①冨主同与(切回吋]副凹部〉、⑬何一自由明言∞巴(叶由同FE部)、⑭aE-E(・EF曲

    家〉、@司町口NωEY(〉括}岡田口ω町岱

    家)という、いずれも麿下最高の買力者にまで昇りつめたと考えられる自己吋

    達を輩出したことがわかった。更に地位・

    職務をみるならば、園務

    ・財務を輿かる重要職であることが判明した

    (註倒参照)BMHZ含当削ロには全鐙で二四名が認め

    られ、その内この四つの集固に所属する者は二一名に上る(残り一二名の内九名が摩下から離脱、

    表1参照〉。

    また

    zd〈削nE

    職には全世で一

    一名が認められ、その内七名までがこの四つの集固に所属する人びとである

    (残り四名の内三名、か反逆、表1

    参照)。これらの事買に、最初表ーより窺った、ω}戸削}HHNzrr在世中一

    貫して自己255Eを輩出しつづけた集園はこの

    四つに限られる、という事買を考慮するならば、もはや回同ユ倒的

    部、吋RrrE部、-〉ES家、〉ayロロωEY家の曲目-2

    55Eが

    ωErm己WY麿下の中一核問日目円であったことに疑いの絵地はあるまい。

    さて、この四つの集固による中按

    自己円の構成については以下の貼が指摘されよう。

    。,u

    一に、切回己宮

    部を除く他の三つの集圏は、系譜上は確かに

    叶HBRの時代からの連繍性を保持しているものの、、口自由同

    盟下の中一核曲目町を構成した集固とは考えられない貼である。、HJHHM口同

    麿下の有力何回日町を端的に俸える史料としては、

    (

    )

    一三七

    O年の政権奪取時に支配層に列せられた自己同

    達のリストがある。このリストの内、第一位から第四位を占める

    口町同門戸

    (ozrZ円〉・のま百

    (切白ユ倒的〉・ωミ『回-aUHロ

    (ZEENY

    メゲσ削印(OF司ロ

    72)の四名及びその息子達は、その後も叶日目白門

    (μ叫

    )

    膳下の自己同

    達の上位を占め、中核的存在であったことにまず間違いない。

    しかしながら

    のEWロを除く右記三名の後継者

    達、すなわち@ωロ-35削ロωEYσ・ロ削唱同門Y@長σ品目

    -hVB包σ・ω呂町田-SUE-@dFヨ削ログメゲ冨印が、ωzr閉山口FY時

    代何ら額著な働きもせず、逆に底下から離反せんとする動きを見せていることは表1に見る如くである。翻っ

    て叶RryE

    部、

    メES家、

    〉円mEロωEF家の一

    一族に

    ついて見るならば、誰

    一人として一三七

    O年時のリストにその名を載せておら

    ぬ。またその後もH,HBRの時代に園事の中幅に閥輿したことを窺わせる記録は見えぬ。ここに、

    H,H

    SU円からωY削町河口rv

    へという中央君主の交代に際して、

    座下の中一桜田BM同の構成に改編があったことを認めることができる。

  • 第二に指摘されるべき駐は、切回ユ削凹部の優遇である。そのことは、宮竺仲良から抽出した自岡山

    ZZBE五七名の内一

    一名が切RE田部出身者であるという貼、或いは

    @ω--切身BNHP@ω}MaryFEASEの場合に見るような新たな自己ヱ

    日目削ロへの抜擢という貼に認められよう。

    また

    Dロロ円四日N

    ・切回mE削ロ・

    PE-削P切削WERという所領が、叶目白骨時代から

    引き績いて

    ωr削r河口rr時代においても保持されたという事買に、切回同日削田部の勢力の根強さが見て取れる。

    以上の二貼を踏まえるならば、

    ωZY剛山口

    rr麿下の中一核白HEHの構成とは、自己同という叶HBRからの人的遺産の改

    編であり、その改編は

    ω∞mwHZ印部の優遇、及び

    ω姻威、後見人、子飼いといった

    ωEY河口rrと個人的関係を有する一

    族の抜擢、という二本の桂に立脚していたと言えよう。しかしながらこうした

    ω「削rmzrr麿下の中一核曲目可達も

    ωzr

    河口rr硯後分解し、ティム

    lル朝自佳も動範の時代に入る。その中から再びまがりなりにも統一政権を生み出したのが

    〉ゲロ

    ωペE(一四五一

    1l一四六九在位)であり、その際には彼の下で新たな曲目町屠の編成がなされたと想定される。そして

    (

    その編成には、新興勢力として〉括冨ロ部なる集国が登場、以後のティム

    1ル朝史の展開に影響を及ぼすに至る。ここ

    ではかかる展望を筆者の課題の指針としつつ、欄筆することとする。

    717

    注(

    1

    )

    、吋同自由『残後のこの王朝に関する報告としては、回・切・切喜l

    唱。伊国・

    ha

    吋勾ag同

    20田恒

    OE---no言語、hhhhFJFFgsvN.

    gMWMFS2・口昌-N印i呂田一白出封夕食】旨呂kr目,国昌固固O旬雪国

    窓口g同調BEV--・8員。・

    2司・包叶lNao一ミ町、認。、hSEER20ぬ

    のの〉斗F国同円四国♂呂田叶-2HM・AS--mO∞一回・HN.岡山ORH再『¥JJ日ロユ'

    己同吋JPSヨhgsryhhhFHMlH-F窓口σEY52・国・2∞l句。一

    角】叩HM刊】σ0・念。-ozmnZD]mm円、H,F自己門的、〉rzpLO『Cgnr-nzzN34

    丹『巳。ロロ円四〈OHrs巳gEEG-γ}弓rEロ円四四円円JLPNQヨHeNdhshnFb

    -113ー

    」」WNtrbgb注目shs-者5ZLg・-由叶仏・

    ω-N81NSを奉

    げておく。その他専論のものについては、国

    -HFMN352氏の

    前者の論考に掲げられた回

    E志向門田町立が大いに参考となる。

    ωZV河口

    rr時代の自己『についての専論は未だ見あたらない

    が、以下の二つは参考に値する。』・〉

    55UENSいさbb

    切ぬ活。官民て。丸中町向?の言守芯ミ守司

    bN45H。守偽札偽可句、

    hs

    sgRミ丸町・当5zrpHgp関野英二、「ティム

    1ル朝にお

    ける一貴顛の系譜|!の

    EEFユ♂家の場合l1」『オリエン

    ト』凶凶lH・53・三七|六一頁(以下、関野オリエントと略す)。

  • 718

    (2)pp・-NNは、モンゴル時代・ティム

    lル朝時代の王族・貴

    額の系譜を採録したものであるが、同時に各各の君主の許にい

    たωヨ可や妻妾、或いは諸諸の官職に就いた人びとの名も記録

    する。この系譜集の編纂につ

    いては、一四二六|二七〉・

    0・¥八

    三O〉・出・

    ωzrHNcrrの命によ

    って司氏石

    F

    〉宮口

    一日苫冗成

    させ、その後無名の編者が

    ∞包てと『NmBEの時代(一

    五O六|

    一五

    O七在位〉までの系譜を補ったと言われる(門戸

    kfcg宮・ロ午

    、町位。円Rb同hRミ句、む送、、。.hR0・qtqhhhON、bmmhh占同町市町hhhHoqe凶

    h

    。、.H『・旨DDEP-同由叶N・2司・

    2∞一〉-N-〈・叶,o問問ロ¥斗}MO(UDB,

    O帥EOコ。ごZZEoqoごZ

    云ODmorSHNgE内田

    ω-aug---

    (リ

    ghーとみとミNnppNqEF〈口lYHus-目当

    -sigh開野オ

    リエント、註問問、

    五八頁)。但し本稿で扱う

    ωEFHNEry磨

    下の

    ωB日15BEに闘する

    FP」NNの記録が、一人恒削『-2

    〉宮口によるものであるかに

    ついては検討の除地を残す。

    (3〉

    ωErH山巴

    rrの時代、その子供達、すなわち

    CE田『切巾悶・

    同『「削ESω

    LSP∞副司ME口問}MC司、

    ωEV、回『四rEBur・豆ロE日目白色

    吉宮それぞれの許にも、彼らに随従する

    ωヨ可

    達が存在した

    (γp」NNHHω吋寸同印。σ)。本稿は中央君主たる

    ωEFHNzrrの直

    接指揮下にあった白日町

    達を照射するものである。

    (

    4

    )

    E.5からの何回ヨ日ヱ

    55削ロ

    の抽出は、具値的には以下

    の手順に従った。

    ①YAE・5ιωご。「か

    つて存在し、或いは現

    存する回日目255削ロ達」という見出しの下に記載された五三

    名の

    ωヨ町名を先ず抽出。②ロ向RMNNHZNyzr。「ωヨ山門

    緯」の項に記名された

    ωヨ可

    の内、「円ロヨ削ロを所有した」と記

    録され、かつ①と重複せぬ四名の

    E口町名を抽出。③玄三百N

    U

    呂町一】・呂田

    pσ。ωErHN戸rr軍図表の内、「莱の

    55削ロ」とい

    う表記から

    自己155Eであることが窺われ、かつ①②と重

    複せぬ三名の

    ωヨ町名を抽出。@①で抽出した五三名の内には、

    ωミ可五回ハ}石削?室zfロヨヨロ牛叩口出叶Rry削円fω巳}岬削己

    目fAEE・

    25邑が二名ずつ存在するも、諸史料を検索の結果同名のωヨ山門

    が二名ずついたことは認められなかった。従っ

    て皐なる重複と

    判断、三名を削除した。以上合計五七名を抽出。

    (5)

    モンゴル時代における。

    2己255Eを頂貼とする統腐

    関係は

    HC唱ミロ刊の明記するところである(メ宙・と

    luza〉百

    呂田-FHEdqm可丘一寸向、削除FNPFPEhEEWE-7p-v白ヨヨ包

    ρmNdZE-宮門門戸

    HUHN・胡-Nω)。ヨヨロ円の時代十進法的軍隊

    編成が採用されていたことはクラヴィホが俸え

    (山田二

    二ハ

    五)、JFN岳

    HNgσ

    からも窺うことができる。

    ωzrHNErrの

    時代においても、例えば「阿佐削』削ロム

    ω巴L陛下

    (HωErHfrr)

    EHUE-ρEMED-2LP含吉の自己円達に、兵卒一人一人

    に至るまで鱈賜を行なった」(〉HN

    U

    D〉という記述から、依然

    この俸統は踏襲されていたと考えられる。この場合の

    A5Eロ

    とは千人陵

    ZN凶gの一意であろう。註間参照。

    (6〉

    心白司副ロ百円については、関野英二「ア

    ミlル

    ・ティムlル・

    キュレゲ

    ンl

    |ティム

    lル家の系譜とティム

    lルの立場

    il」

    『東洋史研究』一二四|四、一九七六参照。

    (

    7

    )

    系譜1は、宮E」NNH∞Nσ・8pygy∞2・gy由。

    p由HY

    由E-ygpgyHNHr--NEから作成した。向、⑪]互玄町民

    は、ロヨロ『の三男

    呂町制ロ

    ωErの四男にあたり、れっきとし

    た日間円N

    削(王子〉の家柄に属す。このヨ町N

    削が何故日出町ム

    -114ー

  • 719

    同ロヨ削ロの中に紛れ込んでいるのかわからない。ヨ可也につい

    ては白ヨ可とは異なる観黙からの考察が必要なので、ここでは

    一切燭れないこととする。

    (8〉以下、引用史料中の支配権とは全て官E52を誇したも

    のである。

    (9)ωEY列

    crrは、呂町N削穴E一巳

    ω三日ロを騒一巡して玄削

    耳目円削-m--Z与円を支配下に入れ中央君主となる一四

    O九年まで

    に、ロ向削NSLRE(一四

    O七〉、

    ωE削ロ(一四

    O八〉を服属させ

    ている(〉河日呂田LN30

    (ω〉

    ω日町内凶アロ自民間.とは白ヨ町中の宮吋戸山『の一意である。これ

    に関しては、例えば一四

    O五10六〉・

    0・¥入O入〉・戸

    ω包円

    何回ナロBR削・とな

    った

    @ωミ可正

    問rdq削守について、

    全ての

    mE円が彼の家の門へと赴き、重要事の寓端に亙る委

    任は、彼の言葉と筆に依存し結びついた(甲山〉

    Haygω)。

    と表現され、文字通り

    ω百円円達のトップに位置する存在であっ

    たと思われる(註闘参照〉。一方

    Z毛削nZは、軍隊の召集をそ

    の主な任務とし、「トルコ人の聞で、王閣で最高の職務」と見

    なされた。従って

    E唱削nE職保持者の持つ高い地位が推定さ

    れる。関野オリエント、四三|四五頁参照。

    (日)切回553なる部族の来歴に

    ついては、従来、関野・〉ロσ5

    雨氏によって異なる見解が出されている。

    〈関野設〉関野氏は、回目州当巳)〉Jへ・ロd〈

    HqFU〉J

    F

    ω

    d〈

    HN〉l

    FU〉J

    円・同名問巧巳)〉J

    円と様様な形で表記されるこ

    の部族名

    の本来のモンゴル語の形を回国EFL巳i即日三国

    Eに求められ

    た。そしてこの切日三包巳という形が切ロユ宮部の始組の名

    と一致し、かつ吋山ヨロ円の祖先心似品

    nE円が河自宮内同牛ヨロ

    によって切ωスロ〉ZL刷工

    va与野と呼ばれている事質を参考の

    上、この-部族は心

    ωanE円に率いられて中央アジアに移住した

    回日-倒的部の本幹の後喬であるという臆測を導き出された(関

    野オリエン

    ト、四七|四八頁)。しかしこの臆測は、本来の

    ンゴル語の形を切REEL包l∞RZV陣営に求める黙で無理があ

    るように思う。

    何故なら第一一音節及び第三音節の

    aの音を先に

    翠げたベルシア語のスベリングから想起するのは困難であり、

    寧ろ後述する切20E巳の勝寓と考えた方が妥嘗だからであ

    る。〈〉

    ZEロ設〉〉ロゲ吉氏は、同σロ切三百官の報告に見える〉ヨ可

    ロEEロ何回可『なる人物を紹介、この人物と∞ロ円削E身部との漣

    繍性を示唆した

    Q・〉ロσ5・2Fo

    ヌEE円借のお白宮戸内門戸巾

    HPRP回目白ロ(日ω芯1H833吋HqnHnp〈ロHIN-回申叶由・

    3・H叶1H∞〉。

    筆者はこの〉与戸口氏の設に従うも、氏の所設は簡略に過ぎ、

    この部族の来歴を具鐙的に論設したものとは言い難い。それ故

    以下に具位的検討を試みたいと思う。論一訟に必要と思われる情

    報は次の三つである。

    I〕

    Hrロ切釦昨日片山は、二二三

    0年代初めチ

    ャガ

    タイ

    ・ハン

    吋R58Zユロの腹心で、。

    ZNE方面の支配に嘗っていた

    切El

    zzミF

    なる自己『の存在を知らせる。彼はムスリムであり、

    配下には大軍が控えていた(回目お)。彼の威令は

    CEE回目〈H

    PEEC-∞品三宮方面にも及び、かの地はこの上ない安全

    を享受していたという(白日∞ω)。同σロ切三百官自身、】UR項削ロ

    においてこの

    切口『

    ES芸に

    遭遇したと述べる(回目∞ヴ。

    -115ー

  • 720

    〔E〕一三五八年、二二四六年以来チャガタイ

    ・ハ

    ン図におい

    て質権を掌握していた〉吉町

    ρszzロが、「dgコ削門部出身で

    切回『間庄司一の息子

    Q22〉である

    OEZmr叶向日ロこ

    なる人物

    によって暗殺された

    (JF注目リ

    250この暗殺の理由を

    司副El戸

    raは次の如く侍える。

    CE-cmr、『目ヨロ『

    なる人物は一千人隊(ヨry良野山〉のロヨ町

    であった。

    〉ヨ可。ωN削mr白ロの

    ry削門ロロ

    である

    吋ロro]〉』臥

    の姉妹を婆っていた。その関係を盾に、彼は〉ヨ山『

    CSX73

    に射し倣慢だった。それ故彼は〉吉町

    OSJZロ

    に切口3

    53qωの部族(己)の支配権を求めた。〉ヨ日『

    ρωNXZロは

    :・彼の要求を承諾しなかった。かの邪の者はこのため心に

    惜しみを抱いた(吋22口HHC。

    〔E〕二二七二年、回ωユ制的部の〉ヨ可

    (UErロは

    吋目白日

    によ

    って

    切口昌一色々部公一〉を授けられた。この時、切口門間53

    のユルトは

    C5EN-E間ZE-何ハ与三

    とその近傍にあった

    (JP注目りに♂〉。

    これらの内容を吟味していく過程で、直ちに想起されるの

    は、∞口353一部とは、〔E〕に見える

    O三一己四『叶回目可

    の父

    「切口円削一色刷可」という人物に起源を持つ、父系血縁集固ではないか

    という考えである00三宮mr吋目白骨が支配権を要求した

    切口円削h

    zdq白部が

    切口弘E々部のことである黙に関しては、何ら疑

    問はない。

    lq白という語尾は、切口『削区々という具般的人名

    に若干抽象性を附加して部族名としての意味を持たせるもので

    あろう。

    つまり、CE己Emr、ロヨロ円

    は己が部族の支配権を要求

    したのである

    〈ZωgRHHNSに擦ると、

    OEEm}戸、ロヨロ円

    はそ

    れ以前、自分自身の千人陵

    (ZN副361

    rE⑦

    ヨ弓職を

    〉5日『

    CPNZEコによって奪取されていたという。この千人像

    切口円削包与の部族であった可能性も十分考えられる)。

    さて、この切口553なる人物の存主に、より具位性を持た

    せるのが〔I〕の内容である。

    切CEZAU可「〈ロ08ロEと

    切口『削』

    亙副可〈∞OBE包とが本来のモ

    ンゴル語の形

    切。352の

    210ロ円

    であることについては既に先学の研究がある〈¥一¥l¥ロ¥とい

    ヨ合三

    Z8の例が存在することは、∞・

    ωHE一2・U芯。。-n除去

    足。A3名目。印σ邑g・58・ω・ω品一目、問bhhsH

    司会

    bhpZE-

    -∞ω∞印・ヲミ∞一】・〉cr5・。℃-EF--Y5・ロ05品を見ょ。また

    第二一音節の

    ¥。¥がな¥に袋化する例については、回、

    .r岡市門「

    =ZR22吋]巾〈ogrEU一日玄。口問。二)-HmgロσD三JhRQOコ?

    ミhHN芯見shhH2hp目当・5Nl】ωωを参照。

    回0352という名に

    ついては、HJFE2・弓。sh号

    h・Ehh三zbrkoL問、。コ

    HUEω・回出mo--yg参照〉。従って回EEロ官三回と切口同E々

    が同

    一人物であるという貼については、何ら否定的要素は見出

    されまい。

    これより、回口同53

    部の母燈となった集函は、そ

    の始租の活躍した一一一一一ニ

    0年代初め、H,

    RBEZZロの時代に

    既に存在していたと推定されよう。この推定に更に根擦を輿え

    るのが〔血〕の内容である。すなわち、切戸

    E口同ミrの勢力範

    園と

    切口『剛一品削可部の

    ユルトの所在地が

    05EN・ωωmr一削ロ

    から

    ヒンドゥ1

    ・クシ

    ュ山脈を越えて

    関与croENEという黙で

    地理的に一致しているのである。かかる根援と推論を踏まえる

    ならば、切口品53部とは、二二三

    0年代初めアフガ

    ニスタン方

    面に勢力を持った人物

    切匡

    2ロ宮干すなわち回口

    aE削ス八回oga

    一 116ー

  • 721

    -仏阻むに起源を持つ父系血縁集圏であり、〉BM『心民間

    mrgの

    時切回『削宮司の息子

    OE己zmr、吋即日ロ円の支配から離脱したも

    のの依然。

    SEN-回同mE削ロから開削σ己方面にかけて遊牧し、

    二二七二年に至ってティム

    lル朝の支配秩序に包援された遊牧

    部族であると理解されよう。その際〔E〕に見たように回同

    a-

    53・0EF伺「叶JB町父子は口司

    gg部出身であるから、∞副司削h

    -L削可部とは口

    gロ削門部の分校と考えられる。

    (ロ〉関野オリエント、四五|四六頁。

    (mM)

    関野オリエント、六

    O頁、註凶。

    (

    )

    0852山内WCEロロ四・NonypLP¥QFEHNヨ

    H明・

    RRNHa-

    PFFLgh出司P回り

    EEa-広∞0

    ・ω・ロ斗・(本論文を参照するに

    あたっては、小野浩氏の御好意にあずかった。感謝の意を表

    す。向、

    rtユの一該嘗記事の原文は、筆者自身今回は参照で

    きなかった。〕

    (日)NonZ女史は、一四二九/三

    O年時黙②巨品EBω-・が

    rry削口に居た理由として、首時一該地の支配権を所有していた

    ayロロωEY家の③同

    rdq削ロ品

    ωErが、折りしも行なわれた

    第二次〉昏国手間三削ロ遠征に出陣した潟、②同σ門間rHBω}・が代

    理として

    rrEロに迭られたと推測している。〈四f

    Nonz-

    FF0.ω・

    HN由・

    (日山)ジャライル朝時代に書かれた書記規範集

    uasw-と内向HS

    L3叶bぜ古色'ミ号dHSに牧められた

    ωヨ可

    l-z-rの任命書を

    分析された本田貿信氏は、それが軍事の長官であったと同時に

    園政機能の最高責任者であったと結論づけておられる(本田寅

    信、「ジャライル朝のモンゴル・アミlルに就いて」『内陸アジ

    ア・西アジアの祉曾と文化』山川出版社、一九八三、七一一ー

    七一二頁)。また

    ωヨ可l

    回三宮のトルコ語表記は

    z-5Zm-で

    あるが、それはモグlリスター

    ンでは回目可とI

    ロ自民問とも呼

    ばれ、曲目同中の最高者であったという(関野英二「モグlリ

    スターン遊牧枇曾史序説」『西南アジア研究』一七、一九六六、

    二七頁)。いずれにおいても白

    Eヱロ古田が主権者の下での最

    高責任者であることが窺われ、参考に値しよう。ティム

    Iル朝

    の白ヨ同ヱ三宮については何ら知るところは無いものの、③

    ω-・玄品・が白日目円

    lHC-eに任ぜられた一四三八/三九年嘗

    時、

    ωzr河口

    rr磨下の園政の最高責任者は本文で述べる如く

    ⑬メrEもしくは@ヲ円四

    NωEYであるから、少なくとも寅

    力という面からはジャライル朝やモグ1リスターンにおける程

    の力は保持していなかったと推察される。

    (げ

    )EM--05rロロが同日目円1

    一25削ロの統廊下にあったこと

    +im、各

    BB間口から、

    cm『刷、叶削同町の一圏の監督を捲賞する

    一人

    ωEZ古田吉ロを出し、彼らを汲遣した

    (JFNLHHSHS。

    という記述から窺えよう。ティム

    lル朝の一』57ロロの構成

    人数については五

    O人

    3ZEHN3から五

    OO人(恒〉日呂田)

    まで様様な例が散見し一定していない。

    JFNLHH念∞

    σに引く、

    「各人は自分自身の

    55聞ロ・

    ZN削g』削門(回一口問・

    ZN削『6・官印『ロロ削円

    (巴ロm-A57ロロ〉・宮内主盟主口問・包含)の朕況によく注意を

    傾け:・:・」という順序から、宮各国ロが

    ZN削円曲(千人像〉と

    哲宏(百人像)の聞に位置する程度の規模と見られていたとも

    推察されるが、その一方註〈5〉で見たように』

    gr口口が

    EN母国

    -117-

  • 722

    の意味に使われている例もあり、

    A57ロコ

    の概念を一

    定の人数

    で規定することはできない。ここではしばらく』

    57ロロを、

    55Eの統率下にある「部隊」と考えたい。向、占

    57ロロがモ

    グlリスターンにおいては千人像

    7ロN削円。と同義であったこと

    は、夙に知られている。

    』5Yロコ

    については以下の論考を参照

    されたし。

    回・回・切

    MGSFP4ミ忌宗国∞

    g呂田曽田

    J

    口、弓・印。一

    ・ャ

    ・ウラヂミルツオフ著、外務省調査部謬、『蒙古吐曾制

    度史』、生活社、昭和二ハ、三O二|三

    O四頁

    U0・02

    ュF

    ULBER昌弘

    S官ごたと

    33R3弓gkxzEF2・

    F邑

    戸当-ggLmp58・ω-AO由l

    土。一関野英二

    「モグlリ

    スターン遊牧祉舎史序説」、二六頁。

    (叫山)

    潟本では記載漏れしているが、切削

    rza以外の場所は考

    えられない。

    (ω)岳唱削ロム

    Z者削nEと岳宅削コム

    ]27rRの二つの術語は、

    ωzrHNzrr時代を扱う諸年代記においては管見の限りこの筒

    所にしか現われない。それ故この二つの

    弘吉削口

    の位置づけに

    ついての一切の推測は史料の限度を越える。

    向、註(

    m

    叩〉参照の

    こん」。

    (加〉こ

    の場合の国ヨ可とロヨミ凶.という表記は、「牛耳削コム苫宅削'

    nZにおいて」という後件が原文に附せられているので、

    州出HHd-「

    中の最高者として本文で扱った由

    E円。-IE

    ヨミ削・とは一懸区別

    した。

    (幻)

    註(m

    却)参照。

    (n)

    一人世紀に著わされたチ

    ャガタイ語Hベルシア語辞書

    ωgt

    zrrqgrrEが特権所有者の寺山味とチャガタイ

    ・ウルス

    の有力部族の名稀というこつの語義を持つことを降、える

    〈玄=

    古ヨSDLY向。

    z-M凶P旬。3hNbFE・。・02印DP目、。コ己

    g・

    58.ロ印『〉。ぇ・。・

    228ロ・人占諸問守音色。hRbNURH55ミ

    久平内叫コ宮、常時三

    (川町認定ミ

    thpOHZL・5叶N

    ・官・

    20・

    (お)系譜2は、JFNLHHNNAPMUCP〉何

    日ω8・印ωPE--YAE」NNH

    目。ωσ・5品目)から作成した。

    (但)村上正二誇註、『モ

    ンゴル秘史』三、卒九社、

    一九七六�