19
Title <批評・紹介>D. Cerensodnom & M. Taube, Die Mongolica der Berliner Turfansammlung Author(s) 松川, 節 Citation 東洋史研究 (1995), 54(1): 105-122 Issue Date 1995-06-30 URL https://doi.org/10.14989/154511 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title D. Cerensodnom & M. Taube, Die …...g-NH) である。この木版本は、一一一一一二年に大都で開板され、千 ハ 部が印刷されたことが紋文より知られる。同じ誇者による著作『マ

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Title <批評・紹介>D. Cerensodnom & M. Taube, Die Mongolicader Berliner Turfansammlung

Author(s) 松川, 節

Citation 東洋史研究 (1995), 54(1): 105-122

Issue Date 1995-06-30

URL https://doi.org/10.14989/154511

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

評・紹

同》・。帽

25agghw出向・

4F59‘

bheミgnq色町内uaa雪切符『町民担当

-a『psasSEaq・

105

a

'

今世紀初頭、四次に亙って組織されたドイツ・トゥルファン探検

隊は、様々な言語による文献資料をベ

ルリンに終来した。これらの

資料群ほ、ドイツを始めとする欧米の言語

h

文献奉者応よって整理・

研宛され始め、その成果は先ずチュルク語文献が叢書吋骨玄将官

、H,c民自・、H,

zgとして一

O巻まで刊行されたが、一九七一年以

降、チユルク語以外の諸言語資料も封象に含まれ、叢書図。ユ自民

吋己円『BRHRとして新たに第一巻から刊行され始めた。

この切R-zo円、吋口同町白ロ官民自の第一六容である本書は、

e

ドイツ・

トPルファン探検隊によって蒐集されたモンゴル語文献(以下

〈モ

ンゴル語文献〉と略稽)を内容別に一

O五のテクストに分類・再編

成し、各テクストごと陀書誌情報川ローマ字鱒寓・ドイツ語謬・註

をまとめたもので-ある。巻末には全テクストの語集索引と、七五の

テクストの篤員込附されている。

共著者の一人、ダラシタイ一・ツェレンソドノヲAFはモンゴル園科皐

アカデミー号

E

口語文皐研究所上級研究員で専門はモンゴル文象史。一

九八三年、奮東ドイツのフンボル

ト大皐より「モンゴル古代韻律論

l

l

j

の歴史的繁濯に閲する諸問題」で博士銃取得。

一『一四世紀の詩人チ

ョイジ

uオドセル』〈一九六九〉、『(高等教育課程)モンゴル文皐史』

(一九八七〉などのモンゴル語にまる著書と、ハモ

γゴル語文献〉

に係わる欧文論文が一ある。共著者のもう一人、マンフレ'y

ト・タウ

ベは一九五七年

f奮東ドイツのライプツィヒ大皐より「『ジル'へン・

トル、タ註緯』の研究」で博士銃取得。チベット・モンゴル文献皐を

専門とし、ドイツ圏内各地に枚張さ、れる『チベット語文献連合目録

(IlN〉』ハ一九六六〉、『トウルファン出主ベルリン・コレグシ

ョγ中のチベ

yト語文献』(一九八

O、切開同-Z句、H,EP口同市阿丹05)

などの精徹な文献拳的研究を務思表しており、〈モンゴル語文献〉関

連でも激編の論文を著している。

前言(六頁)によると、本書の出版意圃は、

八モンゴル語文献〉

全てを【庚い意味での】文皐史的達闘において一慢として取り扱う

ために全テクストの文字縛篤と誇を一箇所にまとめて提示し、併せ

て先行研究を明示することにあるという。本書は一九七

0年代末J

八0年代前害応執筆され、一九八七年五月に脱稿された。解護は原

則として現物に就いて行なわれたが、奮東ドイツに居住していた著

者は、西ドイツ・マインツに移管されていたテグスト(豆巴日番

競の附された九勲〉は賓見できず、骨局員に基づかざるを得なかっ

た。しかし、これら九勲もドイツ再統一後はベルリンに戻されてい

る。績く序諭(七|一“六頁〉では〈モンゴル語文献〉の蒐集と公表め

経緯、歴史的背景、テグストの文字と言語について述べられる。

蒐集と公表の経緯(七|八頁〉先ず〈モンゴル語文献〉の来歴

と文書の原番読の意味が説明される。新たに番競の附された一

O五

-105ー

106

のテクストのうち九六黙はトク

ルファン盆地での妥掘時に原番鋭が

附けられていた。このうち六三黙は、四回に亙る探検の番競

I(二

O貼)、

E(二九貼〉、

E(一一一一貼)を略貌として持託これによ

り、〈モンゴル語文献〉は第一回〈一九

O二年一一月J一九

O三年

一一一月〉、第二回(一九

O四年一一月l一九

O五年一二月)、第三回

〈一九

O五年一二月l一九

O七年四月)の一一一次の探検によって獲得

されたことが知られる(第四回探検を示す略挽を持つものは無い)。

また、トゥルファ

γ盆地内の出土地を示す略貌

D(U白口一

ggHH高

昌||五六黙〉、

M(ムルトゥグ||六黙〉、

T(トゥユクlla三

貼)、

S(センギム||l一黙)、

11(トヲルファン前山||二黙〉

を持つものがある。さらに、ウイグル語文献として分類されていた

ことを示す略鋭U(二三黙〉を持つものがあれ戸

次に公表の経緯。

一九

O九年、ラムステットは第二回探検(一九

O四年一一月

1一九

O五年一二月〉において高畠で褒掘された行政

文書四黙の謬註を設表したが、これが〈モンゴル語文献〉公表の鴨

矢となった。研究が本格化したのはへ

l

ニッシが一九五四年に『ト

クルファン出土ベルリン・コレクション中のモンゴル語文献・第一

部』として先ずチョイジ

Hオドセル誇『入菩提行疏』を設表し、縫

いで一九五九年に第二部として、蛍時彼が手にし得た全テクストを

影印出版してからのことである。本書の一

O五のテグストのうちへ

l

ニッシによって影印出版されι

たのは六九黙であった。さらにその

後、ブラシヶ、リゲティ、ッェレンソドノム、カラによって新たに

設表された計二四勲と、ポッベが一九六二年に護表した一貼を加え

れば、計九四黙の定員が既に公表されていたことになる。つまり、

本書で初めて公表されるテダストは十一慰であおv

歴史的背景(八|一

O頁〉この章では、トPルファン盆地の歴

史を一筈することによって〈モンゴル語文献〉が全僅として持つ年

代の上限と下限が推定される。

最も奮い日附を持つテダストは、先述の『入菩提行疏』〈

ZE・

g-NH)である。この木版本は、一一一一一二年に大都で開板され、千

部が印刷されたことが紋文より知られる。同じ誇者による著作『マ

lカlリl讃歌』

(Z『国-M由

ig〉も同時代に繋年され得る。

績いて著者は、一四世紀にトゥルファンを領有したチャガタイ・

ウルスの歴史を略述することによって、六黙の行政文書

(ZE・4岳町

立一

8・4F4N

一品∞)に現われる権威者の名前が、四人のウルス君主

(ケベグ、イスン

uテムル、トゥグルグH

テムル、イリアスH

ホl

ジャ〉であることをフランケの年代比定〔

FSZ巴毘〕を踏襲し

つつ説明する。そして、一五世紀初頭にトゥルファンに滞在した明

の陳誠やホラサン出身のギヤ1ス

nアッディンH

ナッカlシュが町

中と山上の併数寺院について報告していることを根擦として、この

頃まで、個々のチャガタイ・カンのイスラム親近度は併教を撃墜す

るほど極端ではなかったとし、〈モンゴル語文献〉の書かれた年代

は一四|一五世紀であったと結論附けるのである。

例外的に新しいテグストは、一八|一九世紀の併典版本ハ

ZZ-

S卜宰〉、一七世紀頃のカルムィッグ語(トド文字〉の版本

(Z『-

gs、そして一九世紀以降の手紙

(Z『・申⑦である。なお、へ

lニ

ッシによって影印出版された〈モンゴル語文献〉のうち、モンゴル

語と認められない五熟のテクスト(国82師会

SSのうちのの日・

∞-OPAH-3は割愛された。

テクストの文字と冨霞(一

oー一六頁〉

-106ー

先ず、文字に係わる特

徴が、古文字皐入国川町一同陣。間同名EO)と正書法(O岡子omgZFO〉の爾面か

ら述べら『れる。

古文字拳上の最大の特徴は、一文字の形が後代の「古

典期」モンゴル語文献(一七

lて八世紀〉における「ウイグル式モ

ンゴル文字」よりも、むしろ〈モンゴル語文献〉とほぼ同じ時代の

ウイグル語支献におけるウイグル文字に近いことである。一方、正

書法上の特徴としては、、後代の古典期モンゴル語文献において確立

された正書法から逸脱する要素が翠げられ、逸脱の理由の一部はウ

イグル語文献との封比で--一説明できるとする。例えば、古典期モンゴ

ル語文献において【語頭と語中の}可¥』は

-r帽子(凶)字にニ貼か

らなる識別符貌を附けるか否かという正書法によって区別される

が、〈モンゴル語文献〉にはそのような値系は見られない。二黙か

らなる識別符貌が附されるのは爾墨田韻の医別のためではなく、語中

のroHY字を

-s-という品目ーを表わす文字表記丘町喜二つ勺ぜから

区別するためという、【同時代の草書鐙ウイグル文字】ウイグル語の

表記法に撮っているためである

927字は語頭においてと名r字

と容易に区別される。それゆえ、語頭では少数の例外を除いて識別

符披は附けられない)。また、『曲目・曲【マN・42・0【・N・4、田町E48U

【ZJ円N・B.2J同どなどの分かち書きも、ウイグル語における

85(N〉

字の正書法〈直後の文字と分かち書きされる)を踏襲Uたものであ

る。以下、呈目撃皐・音韻論、形態論的特徴が詳述され、最後に語実的

特徴として、ウイグル語から借用された併数用語(六二個〉、文書

行政用語〈四三個)、そして後代には見られなくなったモ

ンゴル

の単語(九個〉が列撃される。-

女圃寧的遺産としてのトゥルファン女猷ハ一七|ニ八頁)

107

この草

では、。〈モンゴル語文献〉がモンゴル文皐史全般において如何なる

位置を占めるかが、讃歌、教訓詩、政文詩という三つのジャンルに

亙って検討され、さらに〈モンゴル語文献〉における作詩法の特殊

性が問題にされる。

最初に著者は、二三世紀に由来する数少ないモンゴル文事作品

||『モンゴル秘史』と

『金帳カン園白樺定本』114に比べて、一

回世紀初頭以降に成立した〈モンゴル語文献〉が特異な文象的ジャ

ンルを形成しており、そこに明確な褒展の跡が認められることに注

意を喚起する。

讃歌

(phgm・目白『SECは『モンゴル秘史』に見られるように

本源的には自然や英雄を讃えるものであったが、〈モンゴル語文

献〉では併激的内容に取って代わられた。しかしながら『マハ

lカ

Jリ

1讃歌』

(ZE・包lueを例とじてその表現技法を見ると、イ

ンド・チベット閏俸統において女紳マハlヵlリlの容姿は壷-的

に形容されているのに劃して、〈モンゴル語文献〉では極めて誇張

に富んだ脚色を含んでいる。そこでは併激的な停統表現技法と、モ

ンゴルの英雄叙事詩に典型的な「誇張表現」が融合している。著者

がこの作品をチベット語からの「翻誇」ではなくモンゴルの「撰述

併数文献」と見なす所以である。

〈モンゴル語文献〉中の教訓詩のジャンル

(Z2・2lg)におい

ても、『モ

γゴル秘史』にあるような人開生活の素朴な経験に噌由来

する短い格言は見られず、インドHHチベット併数文献から翻誇され

た併激的金言が座を占める。

散文で書かれた本文に韻文を挿入する技法は『モンゴル秘史』に

も見られたが、本文の末尾に韻文詩を附ける作法は、一四世紀初頭

-107ー

の-〈モンゴル語文献〉において初めて在註される。モンゴル併典の

駿文は

一般に、

ω傍陀や導師へ

の賛辞、

ωその併問問の概要と翻誇元

などの提示、制定経

・翻誇・開板の依頼者名や成立事情、

ω祝福文

言という四つの部分から成るが、二ニ一一一年に出版されたチョイジ

"オドセルの『入菩提行疏』の践女では、やや事情が異なる。第

に、この註疏が仁宗アユルパルワダの求めによってプタ年ハ一

一一二

一)秋の最初の月の一日に完成したことが散文で記される。績く第

二の部分に、

ω・ωの内容は見られず、

ω誰が誰の褒起によってど

のように著したか、が韻文で述べられてから、

ω祝福文言が来る。

この第二の部分で注目すべきことは、川仰の祝福文言の中に長蕎や多

雨、草やパタlの豊かさを希求するといった遊牧民の俸統に根ざし

た内容がある黙で、著者はこのような腕稿文言が傍教哲皐作品の政

文において許容されていたことは興味深いとする。

同様の特殊性が〈モンゴル語文献〉における作詩法ご連嘗たり

の行数、韻律、リズム、押韻)にも認められる。『モンゴル秘史』

において韻文は一行晶画たり六J七一音節、二行の針句形式から成って

いたのに射して、〈モンゴル語文献〉においては一行嘗たり九i一

一音節川四行で一連を成すようになる。その理由は、二二世紀末応

サンスクリット語の「備公

-oE〉」の概念が流入したからである。

新たに導入されだ「四行詩』では、各行の一音節数を徐々に増やした

り、奇数行と偶数行の音節数や韻を揃えることによってリズムが作

られる。

頭頚詩法に注目すれば、この技法は八|九世紀に遡るトゥルファ

ン出土ウイグル語文献において既に見いだされる。それゆえ、著者

はこれをアルタイ諸民族にとって本源的な作詩法であったと見なす

108

が、アルタイ諸語の濁自の設展と共に頭韻詩法も様々な設展を途げ

たため、原初的共通性を失ったか、或いは根本的な改獲を被ったと

考える。例えば〈モンゴル語文献〉において、頭韻四行詩が持つ行

頭第一音節の子音と母音による通常の押韻からの褒展形として、二

行車位で第二音節まで押韻する按張頭韻が見られる

(Z『-AFN

・Z-ωl

Ha耳目rZEc----¥官ユ官官邑・・・¥『EE自己『・・・¥aSPE---)。

また、四行詩では頭韻と並んで中間韻や脚韻も見られ、脚韻の中に

も針韻(曲同rr)・交差韻(由

ES・断績韻〈阻害σ・同E固など)とい

った多様な形態がある。

これら全ての特徴は、〈モ

γゴル語文献〉における詩作が、一一一一

世紀の『モンゴル秘史』や惇存する古風な口承の民衆詩よりも、一

七1

一八世紀の古典期モシゴル語の詩作により近いことを示してい

る。それゆえ〈モンゴル語文献V

は、古典期毛ンゴル語形成の搭墜

期を一ホす重要な資料となると、著者は結論附ける。また、この揺笠

期にモンゴル文皐は熔接諸民族が持つ書世相文皐との密接な相互影響

の下で形成されたι

その誼嬢となるのは、ウイグル語とモンゴル語

(本書

ZE-MlFE-a〉の文皐作品が-般に綴じ込まれた篤本で

あり、グルジアやベルシアの歴史家がモンゴル語の詩作を引用した

という事賓である。

以下、凡例と騎窮表〈二九|一一一一頁)、参照文献と略競表〈一二一一

|四二頁)、文書記競封照表(四三

l四八頁〉と績く。

テクスト諜一庇(四九|二

O一一良〉本書の主要部分を成すここで

は、全テクストいか六部ハ叙事詩と格言詩、傍教文献、占い(噛郎知)、

行政文書、殺と宋比定断片、近代のテタスト〉に分類される。内容

は以下のとおり。

-108ー

109

叙事詩と格言詩

Z町田・困14・・・アレクサンダl物語

zg・∞l

喧・・・j妙厳賓磁論

(ω与EdMEggs-ιrc

併数文献

翻誇傍典

ZE・g-M回・・・入菩提行

sazgミ雪印お岡田〉【疏}

Z冒-NNlNh・・・普賢行願讃官官母国口

RZ・匂包帯広

ZE-H帥E

Z『・同町・・・文殊菩薩一百官。名焚讃(冨

SEEEB曲目同召何回同C

Z『-Na---般若波羅密多心経

(pa自ZEZ丹凶

-vza同)

ZE-N4iN∞・・・妙法蓮華経ハω包昏RB品EO合同己

s・85)

撰述併数文献

Z『PN由IS---マハ

1カlリ1讃歌

Z『・

8・・・般若波羅密多に関する詩作

Z5・宮la--‘教訓詩

zz・8lM唱・・・罪報に関する詩作

zz-怠1

出・・-傍の所業に関する詩句

Z『・ぉ・・・入菩提行論抄

Z『・怠・・・地獄めぐり物語

Z『・怠・・・善行に関する詩句

一未。比定傍数文献

zz・品問l&・・・‘傍典断片

占い(務知)

Z2・怠

ig・u・暦書断片

行政文書

ZE・g-g【細目は後述】

殺と未比定断片

HA『・

2・・・ウイグル文傍奥への政文

Z『-g・:践女の一部

Z『-S・・・数訓的作品(?)の断片:-

ZE-81定:・未比定断片

Z『・

8・:パスパ字アルファベ

yト表

一近代のテクスト

沼『・

8・・・アルタの手紙

-Z-q-S・・・試し刷りされた紙面

-Z『-g・・・大賓積経

25品目EQ予告白昨日〉官同一切吋円ロ

E'回副自由・

自白}回帥可削ロ曲師同伴同曲)

HA『-S・・・金光明経

(ωロSS名門阻害倒的曲目印酌可白)

Z『-Hee-7(カルムィッ

ク語〉金光明経

32白呂田有国ぴ

EE-

-帥回円円曲一)

各部ごと、或いは纏まった内容のテクストごとに附された文献解

題は嘗該分野の研究史・研究動向を踏まえたものであり、讃者はこ

の部分を逼讃することによって〈モンゴル語文献〉の全僅像を容易

に掴むことができる。これに射して各テグストに附された膨大た註

は、個々の翠語や文脈の譲み・解得について多岐にわたる先行研究

を詳細に引用・検討したもので、質・量ともに今世紀西洋モンゴル

皐の一大精華と言えよう。

語晶探索引(二

O三|一一一一一

O頁〉は♂モンゴル語・カルみィック語・

固有名詞に分けられ、巻末に窮民(全五七頁〉が附される。

以上、概略を紹介することによって、本書の内容がヨーロッパ文

献史鼠干の停統に則った一女資料の提示に止まらず、時代的・地域的

-109一

110

に限定された〈モンゴル語文献〉を、庚い意味でのモンゴル文聞宇史

上に僅系的に位置附ける最初の試みでもあることが了解されよう。

それでは、モンゴル史研究において本書は如何なる債値を持っか。

以下、評者の関心に則して、出土文書研究の基礎となる古文字皐と、

トゥルファンにおけるモンゴル支配の寅態を示す行政文書

(Z『E・

g-∞⑦研究の方法に焦黙を嘗てつつ、検討したい。

出土文書の年代比定には、テクストが持つ古文字拳的・言語聞学的

年代指擦が大きな意味を持つ。〈モンゴル語文献〉のように後代の

篤本

(Z『・喧晶)が紛れ込んでいる場合はなおさらで、文字表記に反

映された年代指標を鱒潟に再現するところから研究は始まる。

この目的で本書では、「先古典期モ

γゴル文語」用のリゲティ式

縛篤法が使われている。モンゴル文語のローマ字縛篤法は、先ず一

七l一八世紀の古典期モンゴル文語の正書法に基づいて作られた。

これがいわゆるポッベ式縛潟法〔汚名司

ogE〕である。一方、これ

に先立つ「先古典期モンゴル文語」(一一ニ|一五世紀〉においては

正書法が未定立であっ

たと見なされ、不統一な文字綴りを逐一再現

するために新たな方法が考案された。これがリゲティ式抽特定法であ

り、今や欧米の皐界で標準となっている。この縛定法では、古典期

モンゴル文語の正書法が基準とされ、そこから逸脱する表記があれ

ば識別符就が附けられる。つまり、古典期モンゴル文語正書法の理

解が前提とされる。本書でも、いかなる場合に識別符放が附けられ

るかが説明されている(二九頁)が、やや簡略に過・きるため、リゲ

ティ自身が渡表した縛篤表に遡る必要があるだろう(ピ

mg巴吋NH

由1HN・なお、この捕特定表の二箇所の誤植は

32ErRgaHNωに

よって訂正された)。この縛篤システムの理解に関連して、本書で

も無用の混蹴を避けるために一箇所訂正が必要である。

〔一一頁〕最も煩雑な注¥・¥同¥と

SFezp字の正書法に

ついて、「後代【古典型の語末形

TA2きが語中【の母一孟一日の

前]にも書かれる例」白石自(沼『・4H6は、と宮口に訂正すべき。

語中の母一音の前では必ず《EZF字を書くという古典期正書法に嬢

れば単語田-Zロ「金」は

=Fり・2と書かれるが、ここでは

u

戸、H4Z

(

4

)

と書かれているからである。

次に、文字表-記記に年代指標が投影される例として三黙指摘した

、し

〔=一ニ頁〕モンゴル文語の綴り字がモンゴル語z

呈音z音目韻の歴史的鰍蟹民

化を反映するという文脈で、「【母音の】逆行同化はそう頻繁には

見られない」としつつも、例外的に本書の

og--E身など一

Oの

草語の第一音節の母音は、古典期モンゴル文語の与巳「冬」、色野

「日」などから逆行同化で生じたとする。しかし、評者の考えで

は、これこそ歴史的努化に反する解緯である。古典期モンゴル文語

は一七世紀以降の文語の放態を示しているのであり、それより古い

〈モンゴル語文献〉の綴り字に影響を輿えることはあり得ない。そ

もそもこれらの皐語が一回世紀以前に第一音節にも母一音?を持って

いたという歪嬢はどこにも無い。むしろ、与

g出ロ「草」、官自民円「銭」

といった一一一一|一四世紀にも第一音節に母一音。を持っていたと在査

される皐語が、後に口語において

58E↓

αgzpg自身↓忌自身

と逆行同化によって園唇化した際に、新しい口語形からの類推によ

って与BFEEHという過剰修正形が作られた(すなわち

CE--+

-110ー

U1

og--E岱吋↓包位。と見なす服部設〔服部

J

一九四一

(H一九八六、

三八八|三九三頁〉〕の方が説得力を持つ。古典期モンゴ

ル文語の

綴り字が、〈モンゴル語文献〉の時代より更に古い「古代モンゴル

語(〉

25ユ冨Smo--白ロ〉」の吠態を反映するというような歴史的

に根援のない認識は捨て去り、ウイグル字で書かれたモ

γゴル文語

の歴史は一一一一世紀から始まったと見なし、先古典期から古典期への

裂展過程をこそ問題にすべきである。

ヨ〔一六九頁〕テクストの翻字(吋河〉Zω口吋何回同〉、口OZ)と

鴇寓公認ロ凹ロユヌ-o白〉を併記せず、縛篤だけで翻字も再現できるよ

うにするのがリゲティ式の方針である。されば、テダスト

Z『・

8

一一行目

2可出とそれに到する註υ

「二重母音の二つ自己の園弧

は下側が閉じられておらず、むしろ目のように見える」は、「むし

ろ宮子〈百)字のように見える」と表現し、『冊子字が使われている

ことを明示するために

2ア同と梼鷹ずべきではないか。なぜなら

問題の語3EMでは、別のテグストでは34〈

M'w〈Z『・

8同HAC

と君主匂

字を使って書かれてもいるからである。著者の見解は、この場合の

ロを表わす文字には君主ミとちιのごとき二つの異種字がある、

或いは耳目司には宮内同のごとき書き方もあると解簿できる。しか

しながら、同様の表記の「ゆれ」は

Aミ信仰5(Z『-gHH⑦J宮口岱ロ

(Z2・4eユ叩・

5・4品同区・混同タ∞hHH61台42ロ(ZE-gユタ

gHHS

にも見られるのである。よってこれらの'「ゆれ」は、

2という母

音速績が、時には

Eag(母音接績)を含み、時には二重母音と

して、また時には二番目の母音がも字で示されるほどに弱化し、

(5V

[阻唱]と護一孟一目されていたという言語事責(名

gny--n宮cmm与gZHC

の反映と見なし得る。中期モンゴル語の年代指標は、パスパ字モン

ゴル語や漢字モンゴル語だけでなく、ウイグル字モ

γゴル語によっ

ても示されることを認識し、テダストの縛篤に反映させるべきだろ

久ノ。

〔一九六頁〕定『・

81同(吋・〈・ミ)はパスパ文字のアルファベ

ット表であるが、興味をそそるのはウイグル字でその譲み方が並-記

されていることである。パスパ字の部分はチベット語字母〈三

O子

音字)の順番に書かれており、子王国字に績いて四つの母音字、そし

て最後に二つの濁自のパスパ{子宮ーと苫が来る(四行自は別の内

容だろう〉。この濁自の二文字がチベット語の表記には使われず、

モンゴ一ル語・漢語・ウイグル語の表記に特に嘗てられていたという

理由で、著者は書き手をチベット人ではなくモンゴル人かウイグル

人であろうとした。この表をなぜモンゴル語文献と見なしたか、著

者は明確に述べていないけれど、恐らく、二行自のパスパ字加国に

並記されたウイグル字が

uBLであることより、このウイグル字は

ウイグル語に存在しないモンゴル語のザを篤していると見なした

からだろう。しかしながら、不思議なことにこの書き手はウイグル

文字ウイグル語に特徴的な三文字1

1パスパ字

Z-APEそれぞ

れに並記された三つのウイグル字

ωニ黙の附された宮子

ω尻

尾の短い官任

ω尻尾の長い官任ーーをも記しているのである。

パスパ字宮は、周知のように中期モンゴル語の語頭のザを表記

するものだが、ウイグル字にこれを表わす文字は無い。本表

ωの交

字は、このパスλ字宮にウイグル字で封一昌一回を示した珍しい例で

ある。

-ωとωの文字はソグド文字における伺

50-と

rarであ

り、ウイグル語に借用されてからは皐語末で「尻尾の短い宮仔字」

(6)

と「尻尾の長い円高岳字」としてア占の匿別を表わしていた?こ

-111ー

112

の区別はモンゴル支配時代のウイグル語においては消滅しつつあっ

た〔森安一九八九、三|五頁〕が、パスバ字成立(一二六九年〉後

の、紛れもないモンゴル支配下のトゥルファ

γにおいて、尻尾の短

長の匿別が官というパスパ字(モンゴル語の¥問

¥-K¥・ウイグ

ル語の¥可¥・¥』¥を表わす)と苫というパスパ字(純粋のモ

γゴ

ル語やウイグル語ではなく、外来語や漢語における摩擦音¥H¥

(7〉

表わす)にそれぞれ嘗てられていたという新たな言語事貨は注目に

値する。さらに興味深いのは、これら三つのウイグル字がウイグル

文字ウイグル語のアルファベッ上衣に揃って現われることである。

知られている五黙のウイグル文字アルファベット表のうちで、ツィ

1メによって一

O世紀頃に年代比定された吋

zbr(C8)では二

一のウイグル字母が示されているが、このうち問題の三字母の形は

正に本テクストと相態する〔N5HH叩

HST2吋180〕。一方、モンゴ

ル語は語末に¥問¥・¥』¥という音韻的針立を持たないので、このよ

うな書き分けを必要としたことは無かったし、寅際に書き分けられ

た例も無い。それゆえ本書のアルファベット表は、三一種類の宮子

字を記憶していたウイグル人がパスパ字モンゴル語を皐習するため

に作ったと恩われる。

その他、以下の黙が評者の自に附いた。

Z『・4NEHM叩ロ日縛寓門出白VCEロに制到する註「テクスト日

0・回当岡山

dy」では、園周格・ロロが語頭形で書き始められる珍しい例であるこ

とを強調じ、一捕時寓に宮

Z15と反映させるべき。FdomHVRE

Eも「2・uzロ【評者の翻字では司当HN・42とすべきである。ま

た、奥位格語尾・片岡町

¥'E♂『件。¥'LO

の表記に、直前の単語末の文字

に関係なく専ら宮司字が使われハ

-50叫口市広町エロ♂

25ロlHNH

回一ロ

'ZP255Hgr巴・26、《四回一27字は使われないところから

見ると、このテグストの書き手は格語尾をも附属語扱いせず、濁立

語と見て、一貫して語頭形を用いたようである。

Z『・

2L50H白日円四回苫各自(一)に註は附されていないが、文脈と

書式から剣断して、濁誇「終わった」が動詞円山田苫凹・「終わる」

+・品自という讃みに基づくことは明らか。'品目という移動調語

尾は、『黒惜抽出土文書(漢文文書巻〉』

ES日当民(至正十三年亦

集乃路線管府溌給の税糧納付命令書〉末尾に附されたウイグル字モ

ソゴル語一行三与

gにわずかに在詮されるのみ〔李逸友(編著)

一九九一、二三、一八四1

五頁、園版診陸〕o-動詞出}守「見る」が

過去形と共に使われているのは、納税手績きの完了を徳管府が認め

た由である。隻方とも、

BF州民

¥-rsの強調形?として

-Eロ¥arg

が突渡的に現われたと見なしておきたい。

-112ー

~

11

〈モソゴル語文献〉中の計一九端、行政文書

(ZE・g-g〉は、

一一一一ーー一四世紀のモ

ンゴル支配時代という庚い枠組みの中で、チャ

ガタイ・ウルスにおける文書行政の貧態を知るためにも、また、大

元ウ品川スとの交渉や勢力関係を知るためにも重要な一次史料であ

る。近年、日本ではモンゴル帯圏及び大元ウルス裂令命令文書の研

究に大きな進捗が見られているが、それと共に、各ウルスにおいて

笈令された命A麦書をも網羅閏に研究し、各々に共通な側面と、時

代差・地域差とを抽出する作業が次段階として要求され始めてい

る。また一方で、ウイグル文書研究の著しい進展と共に、モ

γゴル

文命令文書にはウイグル文書を特徴附ける諸要素の反映ハ借用語・

カルク・書式に至るまで)が見られることが明らかになり、今やそ

γゴル文命A官文書の研究にはウイグル文書研究の最新成果を踏まえ

ることが不可飲になっている。このような問題意識に鑑みれば、大

元ウルスとチャガタイ・ウルスの接黙であるトゥルファン盆地から

出土したこれらの行政文書が持つ二つの性格、すなわちモンゴル時

代の文書行政を特徴附けるこ大要素||モンゴリズムとウイグ日ズ

ムーーを明らかにすることは、共時的には

E大圏家モンゴル帯園の

檎威と権力が如何なる存在形態を取っていたかという問題に係わ

る。また、逼時的にはこれらの混沌とした要素が、

一五

l一六世紀

の暗黒時代を経て一七|一八世紀のモンゴル文化の開花期にまで俸

存する過程において、停統文化の基層の形成に如何なる影響を奥え

たかというより大きな問題にまで係わるものだと言えるだろう。

一九黙の文書官著者は以下のように性格附けしている(括弧内は

設令年、震令の権威者名と渓令者名)。

Z円・

8:・田地に制到する菟税文書(一三六九年、イリアスnホ

lジャの権威に基づくケドメH

パlトル裂令)

害・

2・・・ある寺院に封する克税〈ヘピ年、護A官者不明〉

H4『-S・・・コ一集落に制到する菟税(一三五二年、トウグルグH

ムル設令〉

Z『・

2・・・ある濯瓶設備管理官に劃する任命書(ごニ四八乃至

は二三ハ

O年、トウグルグH

テムル護令)

H4『・4N・・・葡萄酒運迭人用パスポート(二二五三年、トゥグル

グnテムル妥令)

Z『回

-a・2・・・葡萄酒税徴牧人用の二湿のパスポート(てヒ

ツジ年、ヵンの権威に基づくベグ叶テムル設令二、一一一一一ニ

113

八年、イスン"テムルの権威に基づく設令〉

Z『

-a・:急使(同ロ25)用パスポートハヒツジ年、震令者不

明)

Z『

-a・・・ある賠償に関する裁定ハ二ニ二六年、ケベ

グ設令U

ZZ-コ12・・・内容不詳

Z『出・∞N-

毘・:家畜所有・家畜税リスト(トリ年Jウシ年)

Z『-E・・・ある家畜腐盗犯に闘する剣決書〈タツ年、設令の権

威元不明、断事官設令〉

zg-思-g:・門衛長への指令書(トラ年、後令者不明〉

本書の功績は、これらの文書をつ話して扱うに際して「書式」を

定型化し、さらに濁特の「撞頭形式」を明らかにした勲にある。評

者らは大元ウルス褒令命令文書について同様の親貼から「大元ウル

ス書式」〔中村・松川一九九=一、一五|二こ頁〕を提唱しているが、

それに比すればここで分析された書式を「チャガタイ・ウルス書

式」と名附けてもよかろう。

著者による定型化の特徴は、ヨーロッパ中世以来の外交文書の雛

形に撮っている黙である。この種の定型化はシュ

13nrcr巴ミリ

ロ∞!口町〕が先鞭を附けたものであり、本書で示された枠組み(一

六五|一六七頁)もこれを踏襲したものと恩われる。

ー、外枠

Tム

-

Tム

-113ー

祝福文言・:〈モンゴル語文献〉では欲。

導入部

1・2・1

様限附奥・:嘗該の文書が究極的に誰の擢威に基

づくかを示す。

祈願・:「とこしえの天のカにて」のような祈願

Tム・今ム“

官ム

-

qtu

-nG

114

文は、統治者の裂令文書にのみ現われ、〈モγ

ゴル語文献〉のような地方役人致令文書では候。

設令者名表示と文書の型宣言:・文書護令者本人

の名前と文書のタイプ。

通知される管轄機関と褒令劉象者・・・文書の受取人たる

稜令封象者が愛令者によって奥えられた諸権限を行使

し得る管轄機関・人物。

結末部:・「(ニシャン印入りの〉文書を奥えた」とい

う定型句と、設令年月日・裂令地。

2、内容【173と1・4の聞に挿入される】

2・

1

文書の合法性:・〈モンゴル語文献〉では歓。

2・2稜令封象者・:文書受取人。〈モンゴル語文献〉では、

ほぼ常に「こ〈れら)の」という指示代名詞を伴う。

2・3

背景説明:・指令後令の背景。次項2・4と

EF「lな

ので」という副詞や燦件節で結ぼれる。

2・4取り決め事項:・寅際の命令。,Z『曲目¥・8m巳(一二人稽に

劉する命令語尾)などで締めくくられる。

2

・5

罰則文書

この定型化は大元ウルス裂令命令文をも含んだ枠組みなので、〈モ

γゴル語文献〉に存在しない項目も立てられている。そこで、大元

ウルス書式との相違に着目して検討したい。

1・1

腕稿文言は本書の行政文書には現われない。

シュlに擦

れば一二五四年クピライ褒令パクパ宛てチベ

yト文書簡冒頭の

O同省

S伯仲即位匙

EEH障を指す〔ω各回rS吋斗

H5AH〕。しかしながら、この

種の祝一一順文言は大元ウルス裂令モンゴル文命令文書にも見られな

ーム

-

qtu

・句。

i

δ

A

・4H宮

いから、むしろクピライの手紙がチベット語に羽一持された段階で附加

された例外と考えるべきだろう。

ー・

2・2

祈願は「とこしえの天の力にて、大いなる偉震の輝

きの加護にて」などの官頭定型句を指す。評者の見解では、この項

は1・

2・1権限附輿の項と相補分布の関係にあるため、雨者

をまとめて「権威の所在」とすべきである。「とこしえの天」を権

威附けに利用するのは大元ウルス皇族の護令か、或いはモンゴル帯

園の封外文書に限られ、「大いなる偉盤の輝きの加護にて」は大カ

lンの権威附けに限って用いられる。これらが本書のチャガタイ・

ウルス書式に現われない所以である。

1・4結末部の「ニシャン印入りの」という表現は大元ウルス

書式に現われない。ウイグル文契約文書における「タムガ書式」か

ら「ニシャン書式」への移行〔山田一九七八〈

1一九九三、四九

八l四八四頁〉〕を反映したものと考えられる。これに関連して、文

書に押された印が墨印であるか朱印であるかも書式分析にとって重

要であるが、一九黙の行政文書のうちマインツに移管されていた五

(Z『E・g-s・g・4N-E)

について、この蓬いが一書誌情報に示

されなかったのは遺憾である。稜令年月日表示のうち「月の後牢

E22るの」という表現は濁特。大元ウルス書式では十準法で数

える。この「後半」が二ハ日から始まるのか二一日からなのか未だ

結論は出ていない。このような数え方の来歴も不明。

2・1文書の合法性とは、先代皇帝名を列翠することによって

先代の端技令内容の有数性を認め、本渡令の合法性を強化する文言

句会岳HS4HH吋H〕を指す。この種の「統治者の代替わり時の権威

の継承」は、モンゴル時代を通じて大元ウルス書式に濁特。むし

-114ー

115

ろ、大元ウルス書式を特徴附けるものである。

2・2

設令制到象者の原文三行目

UU吉田昨日0

ZRa-oに訂正。

以上の項目と益んで書式を特徴附ける重要な要素として撞頭・卒

出形式がある。卒出は文書中で敬うべき語を改行によって行頭に配

し、前行と同じ高さから書き出す漢文文書め手法であり、大元ウル

ス書式でも皇帝名、

Yユ々、天、穆迦牟尼などの「聖なる語」につ

いて、この方法で敬意が表現される(パスパ字モンゴル文の文書原

物に援る)。これに謝して本書一六七頁で新たに指摘された方法は、

「聖なる語(文書の愛令者名を含む〉」の直前で改行して卒出形式

をとると共に、その直後の何行かの行頭を二|一-一センチ低めること

によって敬意が表現される

(Z『-gb-HH少

Z『-gq-Z『・40HHNな

ど〉。著者はこの方法に留意することによって文書の飲損部を再構

成できるとし、例として

Z『・4明同町二伝〔・・・〕、という語は、績くニ行

の行頭が低められていることより、決して地名では無く、自由ロ-z

出向一守宮同「我らの命令によって」のような聖なる語であろうと推測

する。ここで注意すべきは、このような敬意の表現形式は漢文文

書、大元ウルス書式、そしてウイグル文書にも見られず、来歴を辿

れない黙であろう。例えばウイグル文契約文書において示されるモ

ンゴル皇帝己ミ喜由への敬意は、卒出(山田一九九三、第二巻、

宮芯ωlHm〉、撞頭(山田一九九三、第二巻、

ω同ロ15・

rローロ・開

g

oHIH3によって表現されるだけで、著者が指摘するタイプは知ら

(補註1)

れていない。なお著者は「因みに」としつつも『入菩提行疏」欧文

ハZ『・

8q-ユN-

己・己ω〉に卒出による敬意の表現があると指摘し

ているが、この形式は大元ウルス書式と共通するものであり、チャ

ガタイ式ではないことに留意すべきだった。

以下、土地の所宥と運周に係わる菟税特権・管理権の附輿を内容

とした

Z『

ps・g-s・2について評者の集が附いたことを指摘

したい。

Z『-gは文書の保持者たるテグルがピシユパリクに滞在中に限

って、シγグギングにおいて彼が所有する「池の団地L

の課税を菟

除するという内容。

EZ白日ロ}呉氏

J

円唱曲・0mo』昆曲目仏国吉田

VE---ー

lこの文書で問

題にされる田地について、「彼(テグル〉は(この〉先租代々の所

有地

?YEH)をユスから購入して(この〉土地を耕した」と謬

す。この己}同百円を著者は「王室財産」と見なすが、その根援は、

デルファーがアルダピ

Iル出土ベルシア語・ウイグル語合壁文書ウ

イグル文面に見られる同じ語を、ベルシア語面の文脈かあ説明した

ところにある〔ロORFHSarMMHl一MMF自由"NS〕。一方、本田

〔一九九二に擦れば、フレグ・ウルスのイクタ

l制において、

ιミ51E}曲目H

はイクタl主に授奥された農民の「本貫地」民とい

う意味で使われる。本文書のロ山由『日が同じ意味あいかどうか、文

脈からは剣断し切れない。単に「もともと」という原義が副詞的に

使われたのかもしれないot下記

Z円・

8参照。

HA『-Sは菟税特権附輿による寺院安堵獄。

ピSHIMLg-出向「僧侶たち」||先ず、文書紋損のため剣然と

しない語頭の一文字の讃み方が問題。著者はフラソケの讃み

ZEa

口信〔明同grosaHωN〕を、語頭は胃字には諌めないとして排

徐するが、自読件。回ヤロ2については、宮司字ともやや異なるとし

dJ円(l呂自問-Eロ品目「信福」〉の一可能性を指摘する。しかし

評者が潟県で見る限り、語頭をHM

叩字に積んで

g可白山由民とするこ

-115ー

116

とに何の問題も無い。かえって

S耳や

BOBと諌むのは無理があ

る。次に、著者の誇語「僧侶たち」は

Eロ&・ロ常と讃んでのこと

であって、信伯仲(八のEロ・弟子〉に「借侶」という意味は無い。

評者はこの語を

g『印ヤEH「師匠たち」と讃み、この一文をロ2

〔叩包河内ロ〕玄仰い問診問阻止相8・5巳百台

E35白

SOS可〔・・・〕仲間凹ケ

仲井広告品位間内問民主ozzzzιor州民同位問。即「(この文書で)名指

しされた沙津アイグチ

(U数義顧問)や師匠たちは、今(より?)

弟子(関?)におけるもめごとを起こさせるな。」と解圃押する。そ

の背景には、本文書の護令者が、寺院における高級僧侶たる沙津ア

イグチ・師匠たちをして下級僧侶たる弟子たちを管轄させるという

構闘を想定している。

ピロ刊品目回国

S2母音同〔

F

〕曲窓口〔可〕由吉宮広告回目色。〕出・・・

1l

uB吉宮丘を「(寺に隷属する〉人々と、物件」と誇し、寺院財産

として物だけでなく人をも管轄していたことを強調するが、根嬢は

示されていない。ここでは、大元ウルス裂A手〈書(碑刻を含む)で

同様の表現を持つ寺院安堵朕に、寺院財産として団地・碩砲などと

共に『自由ロ(人口〉と邑ロピ∞ロロ(頭疋)が認定されていることに

言及する必要があるだろう。

ピ55HEZgE々・釦lト|菟殺の封象となる二つの税目を、ウ

イグル語の

ggロと』

REに制割腹させて「かまど税とチ1ズ税」

と誇す。宮

gm-E-ロid-m-ggロの封膝はムカディマ

y

トの語葉

集〔口。口口市区ω∞lHSUH53より明らかだが、ウイグル語宮吋三

が』ミロの讃み繰りであることがツィlメ〔NぽgoH也∞

?NSlNN0・

ロ-HN由〕によって明らかにされた以上、本文書で目白苦々品と讃んで

乳製品に関連づける根擦は無くなった。字形から見ても語頭は

ZH

ではなく明らかに官任であるから、リゲティ〔口問。に

HSNHNH由〕、

フラ

γケ〔明HS官

HS?ω∞lu由〕に従って哲三『,同「戸税問」と

諌んでよい。しかしながら、これらの税の寅鐘については殆ど何も

剣っていない。

Z『・さは著者が言うような菟税特擦を附興したものではなく、

三集落の流散民の本貫地錫還を保査する安堵獄である。先行研究は

リゲティ〔ピ間四己忌吋NHNNOiNNH〕による縛篤テダストだけであり、

今回初めて誇註がなされた。

ロロO品目

zzszobEE「全ての方向に(分かれて〉行っ

た。」||註が附されていないが、『モンゴル秘史』一一一一一一、一一一八

爾節の「不舌刻搭舌刺」(傍誇は「漫散」)に譲る解緯であろう。

FZO斗

HZZ『HOHrooH白「白色「すぐに

(0・〉人質になプた者た

ちLI--m-ZZ『「人質」は、ウイグル文契約文書の中でも特異

な契約関係を示す二通の「人身質入れ文書」のカギとなる露であ

る。この人質の契約関孫は、山田〔一九七二〕によって人身賓買と

も養子契約とも異なり、年季車中公に近いものだったことが明らかに

された。本文書の

ZZ「もこのような契約関係にあった可能性が

高い。円四円宮八百m・8Hr「すばやい」(?〉については評者にも成案

が無い。

FE041∞HC〕兵員『白山田吋

55「先祖停来の団地」||ここの

己}曲百円こそ「もともとの」という原義主りも「本質地たる」とい

う意と見なし得る。上記

Z『-g参照。

ピロO

由HRH出向岱ロロ〈噌〉閉山曲目・ロ}口(吋〉「反針の態度をとらせ、取り

締まらせて」

lIR込町三〕院を明。同・「反劃する」の使役形と見なす

が、巻末の語集索引では色品・「追い出す」の使役形としており一

-116ー

117

貫しない。評者は宮

EEZZFog-ロ凹

HSNHEE〕と諌んで「剥

ぎ取らせて」と解穂、回巳曲吉宮は由巳可間百〔】〕}ロ「抜き取らせて」

〔CmgmHSNH苫町田〕と考え、

一三集溶の民を

ZZ可という人身質

入れの契約関係に取り込む行震と見る。

ピロ開

HOHYBYご祐弘しつつ」

jlこの誇は『モ

γゴル秘史』

一七九節の古宮・に叫到するへ

Iニザシの濁語誇〔出

RE2rsSH

宏〕玄踏まえたものだが、

sm-nrm-Emg-回

σmRS注目白何回ョは誤

誇。『モンゴル秘史』の傍誇「割付着」が示すように、こ

ζ

では

「あしらう」、「言い逃れをする」の意。

ピロ

OHO-HHH己岱

SER曲目「輿えないハ我らの〉臣民」||何

を奥えないのかが問題。「何」に蛍たるのは同じ行の与

-f曲「賜

り物」である。著者は「三集落の団地を〈賜り物だとして、口貨

を附けて〉輿えない」と解蝿押するが、評者は九行自と連動させて

「HE去に囚われた三集落の民を返さない」と考えたい。

FEmH印H『同}国同医師ロ巳uBロ昨日『色白ミ・ZH巳可口同島CH目白色首位〕

B

E岡山可。同』ZZ苫官邸伺昆問。』「おまえたちの困地を一族や民族に封し

て、顔つきや心情を気にすることなく、公卒に分配せよ。」

1IRE『

即日

Sミは漢文史料に頻出する「位下」「投下」にそれぞれ制到臆する

ものか。巳『日仏ZH・由民国丘自という表現は、『遇制保格』巻四、

戸令に引用された至元一一ニ年七月初二日附け高畠のイディクIトら

に射する聖旨の末尾にある「面情看銀」という表現と胤割腹する〔小

林・岡本一九六四、第一郎、一九五

l一九七頁〕。ところで、濁謬

では三集落の団地が一族や氏族に分配されることになる。確かにモ

ソゴル語原文を皆ミ色白田

za---』ロ玄可白山己申mgm巳「一一族や氏族

にハ三集落の田地を〉分配せよ」と諌むことはできるが、そのよう

な田地の管理描慣を奥えられる「一族や民族」が文書の中で特定され

ず、普通名調で示されるだろうか。こ乙で、大元ウルス褒令の寺観

に謝する菟税安堵般において曲目白可「投下」の宮翻働経営に制到する

介入が一般論として禁止されている貼〔ωny日

ggロ忌白日

ωEt

g印〕を敷街すれば、本文書の「一一族や民族」は土地分配に閥興す

る外部権力集圏と見なされ、この一文は「〈三集落の長たちは、モ

ンゴルの)↓族や氏族の面情を窺うことなく、自分たもの土地を

(戻ってきた民に元遁りに)分配せよ」と解圃帯されるべきだろう。

以上の指摘を踏まえた評者の試課は次のとおり。

ートウグルグ

uテムル、我らがことば。

高畠のチングH

テムル・イディクlト〔に;〕

ユスH

カヤ、グドウルグH

カヤを始めとするダルガた

ち・ノヤ

γたちに;

トウルミシユH

テムル、トウケルH

カヤ、ヶレイを始め

とする官員たちに。

己れらモルム、サカル、ヵイチたちを頭とするソ【イム】、

ホンシル、リムチシ

など三集落の民らはあちこちに散らばって行ってしまった。

今、

集まって来た者を始めとして、拘束された身に信長久3に

なっていた者を本貫の回

地に入らせ享受せしめよ、と言った。このように雪一回われてい

るにも拘わらず、

ソイム、ホンシル、リムチンに属する人を剥ぎ取らせ抜き取

らせて、「これ以前も

2

-117ー

3 4 5 6 7 8 9

118

10

これ以後も古くも新しくもお上からの賜りものなのだ」と言

い逃れや言い誇をして奥えない

人は

おおせのきまりによって恐れるのだぞ、おまえたち!おま

えたち、名を記された(者たちたる)ダルガたち

ノヤンたちは誰であってもソイム、ホンシル、リムチン

などの集落の田地

に射して道理ない力を及ぼして摩迫するな。モルム、サ

カル、

カイチたちは、自分たちの団地を、位下〈?〉・投下に封し

て面情を窺うことなく、

正しく分け輿えてやれ。おまえたちモルム、サカル、カイチ

たちを始めとする多くの〔人々0・〕が田

地を分け輿えなければ、おまえたちは恐れざるか、おまえた

ち!と言って朱のニシャン印入りの謹書を

奥えた。タツ年、冬の最後の月の後半の一

O日に、ジュルグ

に居るときに

12 11 13 14 15 16 17 18

書いた。

『元史』巻一一一一一「巴而治

凸Wu--

文書愛令の背景として想起されるのは、

阿而式的斤俸」の

至元三年、世温、其の子火赤喰見的斤に命じ、嗣ぎて亦都護と

篤す。海都・帖木法見の飢るるや、畏冗見の民、飢に遭いて解

散す。是に於いて旨あり、亦都護に命じて之れを枚撫せしめ、

其の民人の宗王・近戚の境に在る者は悉く其の部に還らしむ。

畏冗見の血然、復相関す。

という記述である。百年近い時代差、大元ウルスとチャガタイ・ウ

ルスという護令者の違いにも拘わらず、雨者はイディク1ト政権を

して四散したウイグルの民を安保・鋳還せしめるという相似貼を持

っところに注目したい。

Z『・

2はエセ

γを高昌の濯紙管理次官・禁地管理次官に任命す

る通達文書。

FEO品H

J

円唱曲・0州話相'守〔U

三口(可)〕llB〔uユロ令)〕は}百ω∞一争おロ・

mmo

の品開。と同じ綴り字に見える。

J

円gaOS刷出a印刷同に訂正。と

ころで、八行目に謝する濁誇から見ると、著者は

JE∞・08出品を

地名と見なし、ここに濯翫施設と禁地があるように理解している

が、誤解である。八行目は「ユスH

カンチャで」とは諌めない。八

l九行自は「誰であっても濃概設備を、禁地を、エセンの知らない

ところで別にユスH

カンチャは差配させてはならない。」と讃み、

エセ

γはユス

uカンチャ長官の次官として高畠の濯減・禁地管理を

命ぜられたと理解するべきである。因みに本文書の護令者につい

て、最初ラムステットはこれを

cfFZBr〈H北元第八代本雅失

里可汗〉と謀讃した。次に佐ロは大元ウルス成宗テムルと関連づ

け、大カlyがウイグリスタンに帝室独地を所有していたとした

〔佐口一九四三、五六|五七、六七|六八頁〕。その後フランケは

吋ロユC305骨設を提出した〔閉,HSZHUSHA8∞〕が、この設は、

クラlpによって文書の通知先たる高昌の官員名が

Z『・40

文書

(トウグルグH

テムル護行)に現われる官員名と一致することが指

摘される〔のEHrgaHS少ロ・

5〕に及んで確寅となった。本書

の著者もフランケに従う。吋Eユロ?という讃みは

Z『・

4e-Z『・4N

に比しても疑い無い。それゆえ、成宗テムルの「御用禁地」が高田国

-118一

回鵠地匿にあったと主張し績ける楊富皐の最近の研究〔楊一九九

O、二八二|二八四頁〕は、既に時代遜れとなった。クピライ以降

の大元ウルス皇帝の溌A官文書は山由片手「おおせ」を稽するところに

特徴があり本文書のように出伺叩「ことば」とした例は無い。皇帝

が文書冒頭マ寅名を名乗る例も無い。そもそも成宗テムルが自ら

2玄Sという廟践を名乗る可能性ほ絶無である。

(補註2)

残念ながら単純な思い違いや誤植も散見された。

Z『・4p-30H∞r-E苫の濁謬「ヘピ年」は「タツ年」の誤謬。

Z『・4YロSE15日}ロロロ申刷出師曲賞品の濁誇「秋の最後の月」は

「夏の最後の月」の誤謬。

語柔索引二一二頁、国国字

(SHHOLE-SHHO〉が誤脱。

しかしながら、本書で提示された言語文献皐的視黙が今後のモン

ゴル時代呈研究に不可飲であり、庚い意味でのモンゴル皐研究に叫到

しでも計り知れない刺激を奥えることは疑いない。近年、出土文

書・石刻資料の解譲が新たな成果を生み出しつつある中で、本書の

成果を阻鳴し批剣的に褒展させることこそが、トゥルファン皐の中

で今まで最も立ち遅れていた「十ウルファン・モンゴル拳」の確立

に繋がる。また同時に、中期モンゴル語資料と言えば『モンゴル秘

史』の研究に重黙を置きがちであった日本のモンゴ一ル事において、

〈モンゴル語文一献〉について本書で示された、モンゴル語史、モン

ゴル併数史、文化史、そして文皐史といった様々な分野からのアプ

ローチは、新たな地卒を切り開くものと受けとめられるであろう。

119

T註

IIEのテクストを合計しても六二勲にしかならないのは

Z『-gが

Z『・明明と同一断片上の「裏寓り」であり、併せて

一黙と鍛えられているためである。

(2〉

U番挽は、沓東ドイツのベルリン科皐アカデミーがウイグ

ル語文献とじて分類し直したものに新たに附けられた通し番

挽である。なお、略鋭、『玄を持つものが〈モンゴル語文献〉

中に三二黙あるが、これは吋回同町田ロ・呂田ロ

grH宮を意味す

るようである(口同・吋

2Z巴g--Y∞-ロ・30略鋭、ハ、口、一

CASH∞同

HZ『・∞∞〉は、高畠の吋mg司丘、を示すと思われる。

(3)Z『出・邑・44

a・8(0・8〈Nyg(臼)、き(串yg〈3・S、

ぉ・なお、〈モンゴル語文献〉研究史として本書の記述を補

うものに国民曲目

sa-、同,

Eros∞寸がある。

(

4

)

テテスト謬註(六二頁)と語集索引(二

O五頁〉では正し

く白]宮ロと縛寓されている。なお翠語同-Sロは、テグスト

のこの行

(Z『・4Heにと窓口勺戸、H42γ同-Sロ(ョドロタ

σと

二回現われる。古代ウイグル語と先古典期モンゴル語におけ

るミιの書き分けの相互関係についてはり02rH5arH

aヤミを参照。また、先古典期モンゴル文語における書き分

け規則についでは栗林一九九四に最新の研究がある。

〈5〉嘗時の「中期モンゴル語」の品目撃をウイグル字よりも忠貧

に再現していると言われるパスパ字表記において、問題の母

音連績は白JHA民ロ(ョ目:ロム

zf居庸関六盛合霊碑文東壁〉

左母一孟日開に

ERgを含んでいる。また一方で、パスパ{圭表

記に

S三回目(gd

ar至正十一年重陽高蕎宮一トゴンテムル

一戸惑一旨碑

山口町-SCE--本書HA『

-aユω〉という形があるととも

注目に値する。ウイグル学

gp(ちそのものによって表記

-119ー

o

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a.umflUa II

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2-p 6

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1・民兵

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需拡由説快-l1く1

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/Cufi C/lO

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baden.、

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1--¥)Ijm(。

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Erlass und Sendschreiben

mongolischer

Herrscher fur tibetische

Geistliche :

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122

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NUOω・・十円〈口、叶同問。-ロ・

補佐

1

稿後、現存するウイグル文命令文書に、この種の〈「降格」

による)敬意表現形式が見られることが剣明した。松井太(大

阪大皐大皐院博士前期課程〉氏の指摘による。記して感謝した

い。問題の文書は、資文弼『吐魯番考古記』(一九五四、北京〉

附録中の園田〈園版八五〉「古維吾爾文潟本」で、三行目宮口・

宮「お上に」が卒出、績く四・五行目が降格されている。この

ウイグル文書は確かにチャガタイ・ウルス式の敬意表現形式を

持っているが、草書慢で書かれていることから一回世紀の成立

である可能性が高い。よってモンゴル文命令文書に見られる敬

意表現形式の来源をここに求めるよりも、むしろモンゴル文命

AV文書で確立されたチャガタイ

・ウルス書式がこのウイグル文

命令文書に反映されたと見なすべきだろう。

2

〔三

O頁〕二つのパスパ文字縛寓表の一番目、子音字母表

の左より一一一列目、上より四文字自のjを表わすパスパ字と五文

字自の

wを表わすパスパ字は入れ替えるのが正しい。肝心のロ

ーマ字縛篤表に誤記を悼演すようでは讃者を混飢に導くだけであ

ろう。

-122-