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Ulan Bator

特集:アジア住宅地事情 ウランバートル(モンゴル)

経済開放、遊牧民の都市周辺への定住

 モンゴルの草原の草を踏みしめると芳香が立ち上る。こうしたことは、現地に行ってみないとわからない。 モンゴルといえば羊毛のフェルトでつくられた幕舎を思い浮かべる。ゲルと呼ばれる。パオというのは中国語で、モンゴルの人びとはパオと

大阪大学名誉教授

鳴海邦碩

いわれるのを嫌う。人びとはこのゲルを持ち運んで遊牧生活を営んでいたが、次第に都市に住むものが増えてきた。 遊牧の民を都市に引き付ける理由の一つは、子供の教育である。子供は学校に行くから遊牧生活ができない。また、貨幣経済が一般化すると、必要品を購入するためにお金が必要になる。そのため現金を得るために草原と都市をしばしば行き来するようになる。そして都市に居つくものがでてくる。 モンゴルは1924年ロシア革命の影響を受けソ連についで社会主義国となった。首 都ウランバートルは、1900年代のはじめのころ、ラマ教寺院の門前に発達した人口5万人ほどの都市であった。それが1970年には28万 人、1980年 に は40万 人、1990

年には55万人、2000年には77万人、そして2004年には100万人を超え、最近の国勢調査では135万人に達しているといわれ、人口が急速に拡大している。 社会主義国であったモンゴルは、89年末から民主化運動が起こり、90年7月に初めての複数政党による自由選挙が行われ、新憲法のもとに国名もモンゴル人民共和国からモンゴル国となった。それまで依存していたソ連経済の破綻の影響を受け経済は混乱したが、94年ごろから西側諸国の投資等によって新しい経済体制に移行していった。民主化という自由経済体制への移行、都市へ定住する遊牧の民の増加などは、テレビ等で報道されているストリート・チルドレンの問題や家畜の大量死などの背景にある。

ウランバートルの市街地と住宅の特徴 社会主義国として出発した近代のモンゴルは、長くソ連の影響下にあり、都市づくりもロシア人技術者の指導で行なわれてきた。東西に通る鉄道に並行した道路に沿って、集合住宅を主体とする計画的な市街地が形成され(写真1)、その北側には幕舎ゲルが立地するゲル地区が形成されていた(写真2)。伝統的な移動住居であるゲルは、社会主義時代、住宅としては認められておらず、ゲル地区は集合住宅に建替えるかあるいは排

写真1 ウランバートルの市街地

遊牧から定住化へ─変わる都市周辺

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除されるべき存在とみなされていた。 旧ソ連の影響下にあった時代に形成された市街地は、いわゆるソ連様式で計画されており、その空間的にゆったりした環境は、つまりその空間密度は、モンゴルの人びとの環境意識に適合していたのではないかと思われる。しかし、ソ連様式の空間構造は、商業にとっては極めて不都合な形態である。都市計画に商業という機能に関する配慮が欠落しているのである。 経済の自由化に伴い商業など個人の自由な経済活動が盛んになった。自由市場(ザハ)が開設される他、市街地の空き地に小さなキオスクが乱立するようになった。キオスクはやり方によっては魅力的にもなるのだが、今のところ都市景観に与えている影響は芳しくない(写真3)。 社会主義下のウランバートルの住宅は集合住宅が基本であった。集合住宅団地は、十分な緑地をとって住棟が配置され、上下水道、電気、水洗トイレ、地域暖房システムが備えられた。社会主義時代には、全ての集合住宅は政府機関によって建設、管理されていたが、民主化後、住戸の私有化が始まり、私有化率は90%を超えている。集合住宅の1階部分が私有化されると、それが店舗等にコンバージョンされる例が増えている(写真4)。 これに加え、民主化以降、民間企業による集合住宅開発も行われており、市民の半分以上が集合住宅に居住しているといわれる。 ウランバートルの住宅を巡る状況を理解する上でとりわけ重要なのが、土地や建物の所有と利用が自由になったことである。また、1999年には住宅法が制定され、ゲルも住宅として認められるようになった。こうし

写真4 店舗にコンバージョンされた1階部分

写真2 ゲル地区の状況

写真3 雑然と配置されたキオスク群

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た制度の変化を反映して、ウランバートルにおいても戸建て住宅が少しずつではあるが増加している。 ウランバートルの戸建て住宅は3つのタイプがある。一つは社会主義時代からあった幕舎であるゲルが立地する地区の住宅である。第二はサマーハウス(別荘)地区の住宅、三つ目はいわゆる高級な戸建て住宅である。以下のそれらの状況を見ることにする。

ゲル地区の手づくり戸建て住宅 ゲル地区では個々の敷地が高い木の塀で囲まれている。古い地区の木塀は、分厚い板が古色蒼然としており、気候の厳しさを感じさせる。街区を形成する区画道路はかなり広い。ゲルをトラックで運ぶ必要があるので広くなっているようだ。比較的整然とした街区で構成される地区もあるが、新しい敷地は区画道路も定かではなく無造作にばら撒かれたように広がっている。不法占拠のケースもかなりあるらしい。 上下水道は整備されていない。浄水は共同の水道栓もしくは井戸のあ

るところまで汲みに行く必要がある。まだ少数だが、余裕のある家庭は井戸を掘り、浄水を確保し、簡易浄化槽を設置している。 囲い内の空間利用を概観すると、本来移動住居であるゲルがあり、手づくりの木造の家、トイレ、駐車場、菜園、などに利用されている(写真5)。手づくりの家は気密性が低いので夏に住む家として利用する。冬季はゲルに住む。こちらの方が寒さをしの

ぐのには適している。 都市に居住することによって、ウランバートルの人びとの食生活が変化してきた。生の羊の乳を飲むことが少なくなっているし、羊の生肉を食べる機会も減っている。そのためビタミン不足になり、病気にかかりやすい。そこで野菜摂取の重要性が認識されるようになり、敷地内に菜園をつくり野菜を栽培する人が増えている。

写真6 ゲル定住区画の三世代家族写真5 手作り家屋と菜園

写真7 ズスランの光景

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 写真6は自分たちでゲル定住区画をつくりつつある若夫婦とお母さん。若夫婦は、ここに住み野菜をつくったりして暮らすことに明るい明日を見ているが、お母さんはこれまで暮らしなれてきた集合住宅に戻りたいといっている。

サマーハウス地区 旧ソ連の影響でウランバートルには夏の別荘地区がある。別荘はロシア語ではダーチャとよばれるがモンゴル語ではズスランである。ウランバートルには10地区ほどあり、社会主義時代には政府機関や国営工場が所有していた。それが民主化以降、その時の居住者によって私有化されたという。別荘はいまや定住の住居となり、人びとはここから通勤や通学をしている。 まるで小屋をばら撒いたように広がっており、道路も整備されていない(写真7)。上下水道はまだ未整備で、地区内の湧き水で水を得ているところもある。元々簡素な小屋のような建物だったが、次第に建て替えられて上等な住宅も増えている。中には井戸を掘り、上水を確保し、簡易浄化槽を設置している者もいる。 ズスランの周辺に新たに土地を得て、自分で住宅をつくる者も増えている。ズスランやその周辺に住宅をつくる人は、ゲル地区よりは経済的に余裕のある人だという。

ディベロッパーが建てた戸建て住宅 民主化以降、民間企業が戸建て住宅を建設して分譲するようになった。ディベロッパーの出現である。主に2階から3階建てで、車庫付き、上下水道が完備したものである。設計者は、ロシアや東欧の建築家が多いよ

写真8 看板に描かれた団地開発の計画

写真9 写真8のプロジェクトがこのように実現した

写真10 高級住宅区画の1例

うだ(写真8)。 高い塀に囲まれた敷地に複数の住宅が配置され、入口にガードマン小屋があり、ゲーテッド・コミュニティ

を形成している(写真9)。居住者は、芸能人、政治家、実業家などに限られているようで、特別な住宅といってよい。


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