10
第 21 話 武家政治の始 1 第 22 話 源氏の滅亡 頼朝は政治家としては偉 えら かったが、人を妬 ねた み疑う心が深く、功労のある弟や 臣下らをむやみに殺したので、自然と源氏の勢力を弱める事となって、 源氏は僅 わづ かに三代で亡 ほろ びた。 猜疑 さいぎ しん の深 ふか い頼 より とも より とも が武将としても偉く、政治家としても偉かったことは、全国を平定 へいてい して幕府を鎌倉に開き、巧 たく に国内の武士を統 べて、事 こと なく天下を治 おさ めたのでもよく分かるが、惜 しいことには、人を妬 ねた み、 疑 うたが う心 が深く、かじ わら かげ とき の讒 ざん げん などに惑 まど わされて、先 さき には弟の義経 よしつね を殺したが、後にはまた範頼 のりより をも殺した。 臣下の中では、殊 こと に功 こう ろう のあった上総 かづさの すけ ひろ つね を疑ってこれを殺し、後になって何の罪もなかったのを知っ て後悔 こうかい したことなどもある。 功臣広 ひろ つね を殺す 上総 かづさの すけ ひろ つね は、初めより とも が石 いし ばし やま で敗れて安 に逃 のが れた時に、20,000 の大軍を率 ひき いて身 かた になった 人で、より とも の軍が大いに振 るうようになったのは、彼の兵を併 あわ せてからの事でした。 富 がわ の対 たい せん の後 に、より とも が直 ぐに平家の後を追って攻上 せめのぼ ろうとすると、彼は先 づ退 しりぞ いて東国 とうごく を定 さだ めるようにと勧 すす めて、 後に幕府を鎌倉に開く 基 もとい を置 かせました。 ひろ つね はその後も常陸 ひたち の佐竹 さたけ 氏を滅ぼしたり非常に功労が多か ったが、より とも は、彼が身方につくのが他の武士よりも少し遅かったのと、馬に乗ったままでより とも の前に出 るような無礼 ぶれい な行いがあったので、これを 疑 うたが って、かじ わら かげ とき に命じてひろ つね とその子のよし つね とを殺させた のです。 ところが、後になって、ひろ つね が嘗て上総 かづさ の一宮 いちのみや に鎧 よろい を納 おさ めたということを聞いて、さてこそ謀 ほん せい こう を祈 いの ったのであろうと、これを取り寄せて鎧 よろい ひつ を開 ひら いて見ると、添 えてあった願 がん もん には、この鎧はより とも 公の武運 ぶうん 長久 ちょうきゅう を祈る為に納めるという意味が書いてあった。 より とも は始めて自分の 疑 うたが いが根 のない ものであったのを知って、功臣 こうしん を殺したことを後悔 こうかい し、牢 ろう に入れてあったひろ つね の二人の弟を赦 ゆる したのでし た。 富士の巻 まき がり 範頼 のりより をも殺した理由なども、無理 に疑いをかけただけのことで、その 実 証 じっしょう といっては何もなかった のです。 そのもととも言うべきものは、富士の巻 まき りから起 こったので、先づその事から簡単に述 べて 見る。 前にもいったように、より とも は建久 4 年 5 月、富士の裾 すそ で大仕 けの巻狩りをしたが、その時、鎌倉 には弟の範頼 のりより を留守居 に留 とど め、自分は子の頼家 よりいえ を始めとして、数多 あまた の将士 しょうし を率いて裾野に出かけた。 狩 かり とはいっても、 往 復 おうふく の日数 にっすう を加えると凡 およ そ 1 ヶ月もかかるので、将士は皆、裾野に仮屋 かりや を設 もう けてその中

22 話 源氏の滅亡 - Coocanjpn-hi-story.la.coocan.jp/maedastory222.pdf · 2020-02-05 · さ 衛 え 門 もんの 尉 じょう 祐 すけ 経 つね を討 う ったのです。

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第 21話 武家政治の始

1

第 22 話 源氏の滅亡

頼朝は政治家としては偉えら

かったが、人を妬ねた

み疑う心が深く、功労のある弟や

臣下らをむやみに殺したので、自然と源氏の勢力を弱める事となって、

源氏は僅わづ

かに三代で亡ほろ

びた。

猜疑さいぎ

心しん

の深ふか

い頼より

朝とも

頼より

朝とも

が武将としても偉く、政治家としても偉かったことは、全国を平定へいてい

して幕府を鎌倉に開き、巧たく

に国内の武士を統す

べて、事こと

なく天下を治おさ

めたのでもよく分かるが、惜お

しいことには、人を妬ねた

み、 疑うたが

う心

が深く、梶かじ

原わら

景かげ

時とき

の讒ざん

言げん

などに惑まど

わされて、先さき

には弟の義経よしつね

を殺したが、後にはまた範頼のりより

をも殺した。

臣下の中では、殊こと

に功こう

労ろう

のあった上総かづさの

介すけ

広ひろ

常つね

を疑ってこれを殺し、後になって何の罪もなかったのを知っ

て後悔こうかい

したことなどもある。

功臣広ひろ

常つね

を殺す

上総かづさの

介すけ

広ひろ

常つね

は、初め頼より

朝とも

が石いし

橋ばし

山やま

で敗れて安あ

房わ

に逃のが

れた時に、20,000 の大軍を率ひき

いて身み

方かた

になった

人で、頼より

朝とも

の軍が大いに振ふ

るうようになったのは、彼の兵を併あわ

せてからの事でした。 富ふ

士じ

川がわ

の対たい

戦せん

の後

に、頼より

朝とも

が直す

ぐに平家の後を追って攻上せめのぼ

ろうとすると、彼は先ま

づ 退しりぞ

いて東国とうごく

を定さだ

めるようにと勧すす

めて、

後に幕府を鎌倉に開く 基もとい

を置お

かせました。 広ひろ

常つね

はその後も常陸ひたち

の佐竹さたけ

氏を滅ぼしたり非常に功労が多か

ったが、頼より

朝とも

は、彼が身方につくのが他の武士よりも少し遅かったのと、馬に乗ったままで頼より

朝とも

の前に出

るような無礼ぶれい

な行いがあったので、これを 疑うたが

って、梶かじ

原わら

景かげ

時とき

に命じて広ひろ

常つね

とその子の良よし

常つね

とを殺させた

のです。

ところが、後になって、広ひろ

常つね

が嘗て上総かづさ

の一 宮いちのみや

に 鎧よろい

を納おさ

めたということを聞いて、さてこそ謀む

反ほん

成せい

功こう

を祈いの

ったのであろうと、これを取り寄せて 鎧よろい

櫃ひつ

を開ひら

いて見ると、添そ

えてあった願がん

文もん

には、この鎧は頼より

朝とも

公の武運ぶうん

長 久ちょうきゅう

を祈る為に納めるという意味が書いてあった。 頼より

朝とも

は始めて自分の 疑うたが

いが根ね

のない

ものであったのを知って、功臣こうしん

を殺したことを後悔こうかい

し、牢ろう

に入れてあった広ひろ

常つね

の二人の弟を赦ゆる

したのでし

た。

富士の巻まき

狩がり

範頼のりより

をも殺した理由なども、無理む り

に疑いをかけただけのことで、その実 証じっしょう

といっては何もなかった

のです。 そのもととも言うべきものは、富士の巻まき

狩が

りから起お

こったので、先づその事から簡単に述の

べて

見る。

前にもいったように、頼より

朝とも

は建久 4 年 5 月、富士の裾すそ

野の

で大仕じ

掛か

けの巻狩りをしたが、その時、鎌倉

には弟の範頼のりより

を留守居る す い

に留とど

め、自分は子の頼家よりいえ

を始めとして、数多あまた

の将士しょうし

を率いて裾野に出かけた。 狩かり

とはいっても、往 復おうふく

の日 数にっすう

を加えると凡およ

そ 1 ヶ月もかかるので、将士は皆、裾野に仮屋かりや

を設もう

けてその中

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第 21話 武家政治の始

2

に寝起ね お

きすることになっていた。 ところが 8 日に始まった巻狩りがそろそろ終わりに近づいた 28 日の

夜半やはん

に、有名な曽我兄弟の 敵かたき

討う

ちという大事件が突発とっぱつ

しました。 曽そ

我がの

十じゅう

郎ろう

佑すけ

成なり

と弟の五ご

郎ろう

時とき

致むね

の 2 人

が仮屋に忍しの

び入い

って、亡ぼう

父ふ

の 敵かたき

の工く

藤どう

左さ

衛え

門もんの

尉じょう

祐すけ

経つね

を討う

ったのです。

曽そ

我がの

兄弟の 敵かたき

討うち

そもそもこの兄弟は河かわ

津づ

祐すけ

泰やす

という者の子ですが、この時から 17 年前、佑すけ

成なり

が 5 才で一万いちまん

といい、

時とき

致むね

が 3 歳で筥はこ

王おう

といった時に、父の祐すけ

泰やす

は祐すけ

経つね

の為に殺されたのでした。 2 人は母に連れられて曽そ

我がの

佑すけ

信のぶ

という者の世話せ わ

を受けることになったので曽そ

我がの

氏を名な

乗の

っていたが、成せい

人じん

するにつれていかにもして

父の 敵かたき

を討とうと思い、常に武ぶ

芸げい

を練ね

ってその時じ

節せつ

の到とう

来らい

を待っていました。

それが 漸ようや

くこの時になって本望ほんもう

を遂と

げましたが、

宿直とのい

の者がこれを聞きつけて飛び出したので、 忽たちま

ち狩かり

場ば

は上へ下への大騒ぎとなり、遂つい

に兄の佑すけ

成なり

は仁に

田たんの

四し

郎ろう

忠ただ

常つね

の手にかかって殺された。 弟の時とき

致むね

はこれを

見ると、「この上は頼より

朝とも

をも」と考えて、その陣じん

屋や

へ斬きり

込こ

んだが、女じょ

装そう

した者に油断ゆだん

して捕と

らえられて、後に斬き

られた。 佑すけ

成なり

は時に 22才、時とき

致むね

は 20 才でした。

頼より

朝とも

、弟範頼のりより

を憎む

この騒さわ

ぎが鎌倉に間違まちが

って伝えられて、頼より

朝とも

も殺

されたという 噂うわさ

が立った。 頼より

朝とも

の妻の政子まさこ

がこれを

聞いて大いに悲しんだので、範頼のりより

はこれを 慰なぐさ

める為

に、「たとえ兄上に御おん

大だい

事じ

がありましても、範頼のりより

が居お

ますから鎌倉は大丈夫だいじょうぶ

です。 ご安心なさい」と言った。

後に頼より

朝とも

がこれを聞いて、よくもそんな出で

過す

ぎた事を

範頼のりより

はいったものだと憎にく

み始はじ

めた時に、たまたま範頼のりより

が謀む

反ほん

を 企くわだ

てていると讒ざん

した者があり、頼より

朝とも

は大おお

いに

怒いか

って、「よしその儀ぎ

ならば、直す

ぐに兵へい

を遣つか

わして討うち

取と

れ」といった。

曽 我 兄 弟 の 墓

(箱根山中の二子山の麓にある)

範頼のりより

はこれを聞くと大いに驚き、自分に二 心ふたごころ

などは決してないという誓ちか

いの書面を書いて、大江おおえ

広元ひろもと

の手を経へ

て差さし

出だ

した。 ところが、その書面の中に、「 源みなもと

範頼のりより

」と書いてあるのを見て、頼より

朝とも

は、「範頼のりより

は弟ではあるが、他た

家け

の養よう

子し

になったものだ。 然しか

るに、 源みなもと

の姓せい

を用もち

いるとは当とう

家け

の一族と思っている

のか? 実じつ

に怪け

しからん」と、 全まった

く 謂いわれ

れのない理り

屈くつ

をつけて、いよいよ憎にく

み 疑うたが

って赦ゆる

そうとしなかっ

たのです。

範頼のりより

の最後

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第 21話 武家政治の始

3

範頼のりより

は義経とは違って、全く反抗はんこう

する気などのない人でしたので、これは定さだ

めて讒ざん

した者があるのだ

ろうが、 誠まこと

に情なさ

けないことだと、独ひと

りで歯は

を食く

いしばって口くち

惜お

しがっていた。 家来の当麻とうまの

太郎たろう

という

者が、この範頼のりより

の心しん

痛つう

を見み

兼か

ねて、早く頼より

朝とも

の本当の気持ちを知りたいと思い、夜、頼より

朝とも

の寝しん

室しつ

の床ゆか

下した

忍しの

び入い

って、息いき

を潜ひそ

めて様よう

子す

を 窺うかが

っていると、忽たちま

ちその気け

配はい

を頼より

朝とも

に覚さと

られて、ついに捕と

らえられた。

太郎はその訳わけ

を申もう

し述の

べたが、頼より

朝とも

は範頼のりより

が自分を殺させる為に忍しの

び込こ

ませたに違いないといって、太郎

を殺し、範頼のりより

を伊豆の修しゅ

善ぜん

寺じ

の修しゅ

禅ぜん

寺じ

に押おし

込こ

めました。

範頼のりより

の家来共が、頼より

朝とも

のあまりに無む

情じょう

な処しょ

置ち

を怨うら

んで反はん

抗こう

しようとすると、頼より

朝とも

は梶かじ

原わら

景かげ

時とき

らに命

じてこれを討たせた上に、更に景かげ

時とき

の言葉を用もち

いて、景かげ

時とき

らを遣つか

わして遽にわ

かに範頼のりより

を攻めさせた。 範頼のりより

は不意に攻寄せられた為に、 鎧よろい

を着き

る 暇いとま

もなく、弓を射てこれを防いだが、ついに矢種やだね

が尽つ

きると、寺

に火を放はな

って自殺した。 その墓はか

は今も修善寺に在あ

ります。

頼より

朝とも

の薨去こうきょ

建久 9 年正月、後ご

鳥羽と ば

天皇は御み

位くらい

を御子おんこ

第 83代土御門つちみかど

天皇にお譲ゆづ

りになって 上じょう

皇こう

となられ、院いん

政せい

開ひら

かせられた。 その年の 12 月に、頼より

朝とも

は家来の稲いな

毛げ

三さぶ

郎ろう

重しげ

成なり

が架か

けた相さ

模が

川がわ

の橋はし

の落らく

成せい

式しき

に臨のぞ

んで、

その帰りの路みち

で馬から落ちたが、これがもとで病気に罹かか

ってその翌年の正月 13 日についに 53才で薨こう

じた。

鎌倉 大倉山 頼より

朝とも

の 墓

頼より

朝とも

の墓はか

その墓は今も鎌倉の大おお

倉くら

山やま

の 中ちゅう

腹ふく

にある。 墓ぼ

石せき

の高さは五六尺で、石の玉垣たまがき

で囲かこ

んである外に

は何一つ目め

を惹ひ

くものもない。 誠まこと

に粗末そまつ

なも

ので、これが初めて幕府を開いて武家政治を始め

た人の墓だとは思おも

いも寄よ

らないほどです。 而しか

伝つた

えに依よ

ると、この墓は今から 150 年ほど前の安

永年間に立た

て替か

えられたもので、その前は、もっ

と小さな、3 尺ばかりの五輪りん

の石塔せきとう

であったと

いうことであります。 これは、一面いちめん

から見れば、いかに鎌倉時代が質しっ

素そ

であったか、節せっ

倹けん

を 奨しょう

励れい

した頼より

朝とも

の命令がいかによく行われたかを知る例にもなるといえます。

頼より

朝とも

と義経よしつね

に対する世人せじん

の心得こころえ

しかし、墓はいかに小さくて見すぼらしくても、その人物に徳とく

があり人じん

望ぼう

があったならば、常に参さん

詣けい

する者が多く、香こう

華げ

も絶た

えないでしょうが、頼より

朝とも

の墓は 徒いたづら

に苔こけ

が蒸む

して蔦つた

かづらが這は

いまわっています。

彼は、前にもいったように、武将としても政治家としても偉かったが、幼少の時から流人るにん

となって他人の

中で成長した為にか邪推じゃすい

の心が深く、手柄てがら

のある弟や臣下らを疑ったり妬ねた

んだりして、むやみに殺したの

で、世人せじん

の憎にく

みを受けたのでしょう。 今日でもなお、彼の墓を好奇心こうきしん

から見に行く者はあっても、参詣さんけい

行く者などは全くないという有様ありさま

です。

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第 21話 武家政治の始

4

これを衣 川ころもがわ

で自殺した義経よしつね

を惜お

しむの余あま

り、実は義経よしつね

はこの時には死なないで北海道から 満 州まんしゅう

渡わた

り、清国しんこく

皇室こうしつ

の先祖せんぞ

になったなどという 噂うわさ

をまで立てて、無む

理り

にも義経よしつね

を生い

かそうとした古こ

人じん

の 心こころ

持もち

と比くら

べて見たならば、いかにわが国人こくじん

が昔から正義を愛して、人情に外はづ

れた非ひ

道どう

を憎んだかが分わ

かります。

-- 一いち

幡まん

源みなもと

頼より

朝とも

-- --頼より

家いえ

--

--- -- 公く

暁ぎょう

-- 政子まさこ

-- --実さね

朝とも

北 條ほうじょう

時政ときまさ

--

-- 義よし

時とき

--- 泰やす

時とき

尼あま

将 軍しょうぐん

政子まさこ

さて頼より

朝とも

が薨こう

じると、長子ちょうし

の頼より

家いえ

が十八才で家を継つ

いだが、年も若く、生まれつき利口りこう

でもなかっ

たので、幕府の政治は、母の政子まさこ

が 北 條ほうじょう

時政ときまさ

を始はじ

め、北 條ほうじょう

義よし

時とき

、大江おおえ

広元ひろもと

、三み

善よし

康やす

信のぶ

、和わ

田だ

義よし

盛もり

、梶かじ

原わら

景かげ

時とき

らと相談そうだん

して執 行とりおこな

うことにした。 政子まさこ

は、前にも言ったように、北 條ほうじょう

時政ときまさ

の娘で、義よし

時とき

の姉

です。 女にしては稀まれ

にみるしっかりした、物の分かった人です。

嘗かつ

て富士の巻まき

狩がり

の時に、12 才の頼より

家いえ

が鹿しか

を射止い と

めたのを頼より

朝とも

が喜んで、わざわざ梶かじ

原わら

景かげ

高たか

を使い

として鎌倉の政子まさこ

にこれを知らせてやると、「将軍の嫡 子ちゃくし

ともあろうものが、野の

山やま

の鹿しか

や鳥とり

を射い

止と

めたと

て何が 珍めづら

しい。 わざわざ使いなど出さなくともよかろうに」といって使いの景かげ

高たか

を 驚おどろ

かした事がある。

それくらいですから、今度、将軍に代わって政治を見るようになっても、てきぱきと取とり

裁さば

いて、よく幕府

の威勢いせい

を保たも

った。 政子まさこ

は頼より

朝とも

が薨こう

じた後は、髪を剃そ

って尼になっていたので、世に尼あま

将 軍しょうぐん

と呼ばれま

した。

幕府の根柢こんてい

ゆらぐ

とはいえ、鎌倉の幕府はもともと頼より

朝とも

が中心に出来たもので、その人格じんかく

の力でよく諸将士を統率とうそつ

して

いたのですから、今、中心がなくなった後に、頼より

朝とも

以上の人物か、少なくともそれと同どう

等とう

の人じん

物ぶつ

が現あら

われ

ればともかく、さもない限かぎ

りは、なんらかの動揺どうよう

が起お

こらないわけには行かなかった。 諸将士が申合もうしあ

せて、梶かじ

原わら

景かげ

時とき

を排斥はいせき

したのなどはその一つです。

景かげ

時とき

は元もと

は平家に属ぞく

していたが、石橋山いしばしやま

の戦いで頼より

朝とも

の 命いのち

を救すく

ったので、その後に頼より

朝とも

の威勢いせい

が盛さか

んなのを見て降 参こうさん

して来てからは、大いに頼より

朝とも

の信任しんにん

を受う

けた。 武芸ぶげい

にも学問にも 長ちょう

じ、その上、和

歌なども巧たく

みでしたが、悪い事には、自分の気に合わない者があると無い罪をこしらえてまでも頼より

朝とも

に讒ざん

言げん

をして、これを殺させて喜ぶという癖くせ

があった。 義よし

経つね

や範のり

頼より

や上総かづさの

介すけ

広ひろ

常つね

が彼のために殺されるよ

うになったことは既に述べたが、その外にも、彼のために命を落とした者が少なくなかったので、頼より

朝とも

家来の中には、景かげ

時とき

を忌い

み憎にく

んでいる者が多かった。 しかし、如何い か

にせん、頼より

朝とも

が 命いのち

の親として厚あつ

彼を信しん

任にん

していたので、うっかり手を出すことも出来なかった。

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第 21話 武家政治の始

5

梶かじ

原わら

景かげ

時とき

の悪あく

事じ

を諸しょ

将しょう

士し

が 訴うった

える

ところが、頼より

朝とも

が薨こう

じて頼より

家いえ

の時代になってからも、景かげ

時とき

のこの癖くせ

は止や

まなかった。 彼は先づ安あ

達だち

景かげ

盛もり

が謀反むほん

しようとしているといって、頼より

家いえ

に讒ざん

したので、頼より

家いえ

は怒いか

って、その家来らを遣や

って景かげ

盛もり

を討

たせようとした。 この時には、母の政子まさこ

が、景かげ

盛もり

に罪の無いのを知っていたので、固く頼より

家いえ

を諌いさ

めてそ

の非ひ

法ほう

を思い留とま

らせた。

すると、間もなくまた、景かげ

時とき

は結ゆう

城き

朝とも

光みつ

に謀反の心があるといって、頼より

家いえ

に讒ざん

したので、朝とも

光みつ

はこれ

を聞くと驚いて、親友しんゆう

の三浦みうら

義よし

村むら

の許もと

に駆かけ

付つ

けて、どうしたらよかろうかと相談した。 義よし

村むら

は既すで

に久ひさ

く前から景かげ

時とき

の讒言ざんげん

で多くの者が命を失うのを歎なげ

いていたので、同じく景かげ

時とき

を憎んでいる他の諸将と共に

鶴岡八幡宮の回廊かいろう

に集まって、相談して、景かげ

時とき

の悪事あくじ

を頼より

家いえ

に 訴うった

える事にした。 この時、集まった者

は六十六人で、それが皆その訴状そじょう

に名前をつらねたのを見ても、いかに景かげ

時とき

が多くの者に憎まれていたか

が分かります。

景かげ

時とき

の最後さいご

頼より

家いえ

がその訴状を景かげ

時とき

に示すと、さすがの景かげ

時とき

も一言の言訳いいわけ

も出来ずに、一族を引連ひきつ

れて自分の領地りょうち

である相模さがみ

の 一 宮いちのみや

に 退しりぞ

いた。 しかし、彼はそのまま黙だま

って引ひっ

込こ

んでいるような男ではなかった。 密ひそ

かに甲斐か い

源氏げんじ

の武田たけだ

有あり

義よし

を 戴いただ

いて鎌倉幕府に反抗はんこう

しようという計画けいかく

を立て、それには西国さいごく

に 赴おもむ

いて九

州方面の将士と供に兵を挙あ

げることにしようと、正 治しょうじ

2 年正月 20 日、一族いちぞく

郎党ろうとう

30 余人を引連ひきつ

れて一宮

を出発し、京都を指さ

して駿する

河が

の清きよ

見み

ケが

関せき

の附近まで行ったが、たまたまその土地の武士らと衝 突しょうとつ

して、

ついに一族 悉ことごと

く敗れて死んだ。 頼より

朝とも

が薨こう

じてからちょうど一年の後のち

でした。 思えば、積つ

もる悪あく

事じ

報むく

いが来て、屍かばね

を路ろ

傍ぼう

に曝さら

すようなことにもなったのでしょうが、嘗かつ

ては鎌倉中の将士に恐おそ

れられた梶かじ

原わら

としては、あまりに無慙むざん

な最後であったともいえます。

病 弱びょうじゃく

な二代将軍

景かげ

時とき

が殺された翌々年の 7 月、頼より

家いえ

は征夷大将軍に任ぜられたが、これは、頼より

朝とも

の子だからなっただ

けの事であり、もとよりその器量きりょう

があった訳わけ

ではなかったので、自分は相変わらずわが侭まま

な、したい放題ほうだい

の事をして暮らしていた。 あまりに善よ

くない 行おこな

いをする時には、母の政子まさこ

が厳きび

しく諌いさ

めたが、頼より

家いえ

一向いっこう

に 改あらた

めようとはしなかった。

ところが、その翌年、頼より

家いえ

は俄にわ

かに病気に罹かか

って、迚とて

も直なお

りそうにも見えなかったので、母の政子まさこ

は、

その父の時とき

政まさ

と相談して、日本全国を二分し、東 28ケ国の地頭職と天下の総守護職とを頼より

家いえ

の子の一いち

幡まん

(時

に 6 才)に譲り、西の 38 ケ国の地頭職を頼より

家いえ

の弟の千せん

幡まん

(時に 12 才、後の実さね

朝とも

)に譲ゆづ

らせることにし

た。 一いち

幡まん

の母は比企ひ き

能員よしかず

の娘でしたので、一いち

幡まん

に頼より

家いえ

の後を継つ

がせて将軍とすると、比企ひ き

氏の勢 力せいりょく

盛んになって北條氏の勢力が 衰おとろ

える 虞おそれ

があったからです。

比企ひ き

能員よしかず

はこれを聞いて大いに 憤いきどお

った。 彼は密ひそ

かに 病びょう

床しょう

の頼より

家いえ

と謀はか

って、北條氏を滅ほろ

ぼそう

と 企くわだ

てたが、 忽たちま

ちその 謀はかりごと

が洩も

れたので、却かえ

って時とき

政まさ

に殺された。 比企ひ き

氏の一族は一いち

幡まん

を擁よう

して起た

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第 21話 武家政治の始

6

ったが、これも 悉ことごと

く滅ぼされて、その戦いの中で一いち

幡まん

も無む

慙ざん

な死を遂と

げた。

頼より

家いえ

の最後さいご

頼より

家いえ

の病気はその後に快よ

くなったが、政子まさこ

は既すで

に彼を廃はい

して弟の実さね

朝とも

を立てることにしていたので、

無理に坊さんにして伊豆の修善寺に移した。 頼より

家いえ

はそこで凡およ

そ 1 年の間、まるで押おし

込こ

み同どう

様よう

にされて淋さび

しい月日を送っていたが、その翌年の 7 月 18 日、風ふ

呂ろ

場ば

にいる時に、時とき

政まさ

の命めい

を受けて密ひそ

かに機き

会かい

を 窺うかが

っていた者のために刺さ

し殺された。

政子まさこ

の人 柄ひとがら

この事を告つ

げ知し

らされた時の政子まさこ

の手紙として伝えられているものに依よ

ると、この時、政子まさこ

はびくり

ともせずに、こういう事は世の慣なら

いで、いくらでもある事だから驚くには及ばない。 こういう事がある

からこそ人の心もよくなるのだ、といっている。

そのあとで、母としての歎なげ

きは一ひと

通とお

りではない、どんなにしても慰めなぐさめ

られないとは思う、ともいって

はいるが、自分の長子が現在の祖父そ ふ

に殺されたのを、世にありふれた事かのようにいって平然へいぜん

としている

ところは、そこが尼あま

将 軍しょうぐん

ともいわれるほどに偉かったのだともいえるでしょうが、又、あまりに気き

強づよ

過す

て、婦ふ

人じん

としての美び

徳とく

に欠か

けるところがないでもないともいわれよう。

三代将軍実さね

朝とも

と執権時とき

政まさ

頼より

家いえ

が廃はい

されると実さね

朝とも

は将軍に任にん

ぜられたが、まだ 12 才の少年でしたから、政治はやはり母の政子まさこ

時とき

政まさ

らと相談して行っていた。 その頃、時とき

政まさ

は既すで

に執権しっけん

-- 将軍を輔たす

けて一いっ

切さい

の政治を取と

り締し

まる役

-- となって、その勢いは非常に盛んでしたが、彼はこれにもなお満足まんぞく

せずに、諸軍の 実さね

朝とも

を廃はい

して自分

の娘の婿むこ

の平賀ひらが

朝とも

雅まさ

を代か

わりに立てようと密ひそ

かに陰謀いんぼう

をめぐらした。 朝とも

雅まさ

の妻は時とき

政まさ

の後妻ごさい

が産う

んだ娘

で、政子まさこ

や義よし

時とき

とはその母親がちがっていたのです。 それで、時とき

政まさ

はこの後妻のいう事を聴き

いて、その

頃に彼の 邸やしき

にいた実さね

朝とも

を殺そうとしたのでした。 しかし、政子まさこ

が早くもこれを知って驚き、三み

浦うら

義よし

村むら

結ゆう

城き

朝とも

光みつ

らに命じて、実さね

朝とも

を時とき

政まさ

の邸から義よし

時とき

の邸に移させた上に、将軍の命令めいれい

と 称しょう

して、時とき

政まさ

を攻せ

る用よう

意い

をするように見せかけたので、時とき

政まさ

が集めた兵士は皆去さ

って義よし

時とき

の邸に 赴おもむ

いて実さね

朝とも

を守った。

義よし

時とき

が執権となる

そこで、時とき

政まさ

は申し訳のために髪を剃って坊さんとなり、伊豆の北條に隠居いんきょ

して、再び政治には関係

しない事になったので、子の義よし

時とき

が代か

わって執権となった。 時とき

政まさ

は 10 年の後に 78 才で伊豆い づ

で亡な

くなっ

た。

聡 明そうめい

な実さね

朝とも

さて義よし

時とき

が執権になってから 6 年目に、土御門つちみかど

天皇は御在位 13 年で、まだお年は 16 才でしたが、

御位を弟の第 84代 順じゅん

徳とく

天皇に譲ゆづ

って上皇となられた。 この時、実さね

朝とも

は 19 才で、兄の頼より

家いえ

とちがって、

中々聡 明そうめい

でもあったが、幕府の政治は既に全く北條氏の手に帰き

して、万ばん

事じ

は義よし

時とき

の心のままになっていた。

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第 21話 武家政治の始

7

心 中しんちゅう

では義よし

時とき

のわが侭まま

を憎んでいたのでしょうが、といっても、頼たの

みとすべき一族といってもなく、

力とすべき家来とても別になかったので、何事も 諦あきら

めて、一向いっこう

に世の中の事などは知らないもののように、

自分は好す

きな和わ

歌か

を詠よ

んで密ひそ

かに 心こころ

を 慰なぐさ

めたり、又、朝廷から高い 位くらい

や役やく

を 戴いただ

いて、それを楽しみに

していました。

実さね

朝とも

の和歌わ か

歌人かじん

として彼は中々の名人めいじん

で、嘗かつ

て後ご

鳥羽と ば

上皇に 奉たてまつ

った歌に、

山はさけ海はあせなん世なりとも 君きみ

に二ふた

心ごころ

われあらめやも

というのがあります。 「たとえ山は裂さ

け、海は涸か

れるような世になっても、陛下にお背そむ

き申す心はわた

くしにはありません」という意味で、彼がいかに皇室に対して深い尊敬そんけい

の心を持っていたかが分かる。 又、

ある時、大雨おおあめ

が降り続いて、大水おおみづ

が出た時に、

時により過す

ぐれば民の歎なげ

きなり 八大はちだい

龍りゅう

王おう

雨やめたまえ

と歌って、民の為に雨の欠や

むように祈いの

ったこともある。 彼の歌は気品きひん

が高く、京都の人達のとは違った

武将ぶしょう

らしい雄々お お

しい調子ちょうし

を持っていた。 彼の歌を集めたものを『金塊きんかい

和歌集』といって今も伝わってい

ます。 今その 1,2 を挙あ

げると、

箱はこ

根ね

路ぢ

をわが越こ

えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよる見ゆ

大おお

海うみ

の磯いそ

もとどろに寄よ

る波なみ

の われて砕くだ

けて裂さ

けて散ち

るかも

もののふの矢や

並なみ

つくらふ籠手こ て

の上に 霰あられ

たばしる那須な す

のしの原はら

実さね

朝とも

の官位かんい

実さね

朝とも

の父の頼より

朝とも

は、藤原氏や平家が 衰おとろ

えたり亡ほろ

んだりしたのは、出しゅっ

世せ

に任まか

せて、漫みだ

りに高い役や位

を望んで驕りおごり

に耽ふけ

ったのがもとだと考えていたので、自分は、朝廷でそれらを下おろ

し 賜たまわ

ろうとしても、なる

べく辞退じたい

してお受けしなかった。 実さね

朝とも

はこれに反して、自分から願ってまで高い官位に上のぼ

ろうとした。

彼は 12 才の時に従五位下に叙じょ

し、征夷大将軍に任ぜられ、尋つ

いで左さ

兵ひょう

衛えの

佐すけ

となってから、年毎としごと

に官も昇のぼ

り、位も進んで、22 才の時には正二位に叙し、25 才の時には権ごん

中納言ちゅうなごん

に任ぜられ、左さ

近衛こんえの

中 将ちゅうじょう

を兼か

た。

こういう進み方はあまり例のない事でもあったし、第一、頼より

朝とも

の意思い し

にも反はん

していたので、ある時に、

大江おおえ

広元ひろもと

は実さね

朝とも

を諌めて、「別段べつだん

に功こう

もないのに高い官位を望むのはよろしくありません。 なるべく征

夷大将軍の外は一切の官をお辞じ

しになったがよろしゅうございましょう」というと、実さね

朝とも

は、自分もそれ

を知っているが、源氏の正統せいとう

は自分の 1 代で尽つ

きるであろうと思うから、せめて自分が高位こうい

高官こうかん

にのぼっ

て、家の名誉めいよ

にしようと思うのだ、といって、さびしそうにしていた。 広元ひろもと

も、それ以上は何もいう事

が出来ずに、黙だま

って 退しりぞ

いたという事であります。

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第 21話 武家政治の始

8

右大臣拝賀はいが

の式

実さね

朝とも

の官位は、その後も進んで、27 才の正月には権ごん

大納言、2 月には左さ

近こん

衛えの

大将、10 月には内ない

大臣

に任ぜられて、12 月には右う

大臣になった。 でその翌年よくねん

、 即すなわ

ち建保 7 年正月 27 日の午後 8 時ごろに、

彼は鶴 岡つるがおか

八幡宮はちまんぐう

で右大臣拝賀はいが

の式を挙あ

げる事にきめた。 その時、大江おおえ

広元ひろもと

は、「夜の御参詣さんけい

は無用心ぶようじん

すから、昼になされたらいかがです?」といって諌いさ

めたが、拝賀の式は夜行うことに決き

まっているという

者があったので、実さね

朝とも

は時刻じこく

を変えようとはしなかった。

と、広元ひろもと

は、「わたしはこの年になるまで、ついぞ 涙なみだ

をこぼしたことはありません。 今日。御前ごぜん

に参まい

ると、しきりに涙が出ますのは、ただごととは思われません。 何か仔細しさい

のある事かと存じます。 ご装 束しょうぞく

の下に 鎧よろい

を着ておいでなさいませ」といったが、これも、大臣大将に昇る人が鎧を着るという例は昔から

ない、という者があったので用いられなかった。

いよいよ出かける時になって、家来が実さね

朝とも

の鬢びん

を掻か

きつけに来ると、実さね

朝とも

は自らの毛を 1 本抜ぬ

いて、

これを記念きねん

にせよといってその者に与えた上に、庭先の梅を見て、

出ていなば主ぬし

なき宿やど

となりぬとも 軒端のきば

の梅うめ

よ春はる

をわするな

という歌を詠よ

んだ。 「自分が出ていけば、主人しゅじん

のない家になるかも知れないが、軒端のきば

の梅うめ

よ春になった

ら忘れずに花を咲かせよ」という意味です。 それやこれやを考え合わせると、実さね

朝とも

は既に死を覚悟かくご

して

いたのかとも思われる。

やがて時刻になると、実さね

朝とも

は車に乗って家を出て、非常に美々び び

しい行列で鶴岡八幡宮に向った。 車

が 南みなみ

門もん

を通る時に、鳩はと

がいつになく変な声で頻しき

りに鳴なき

騒さわ

いだり、楼門ろうもん

の前で彼が車を下お

りる時に、腰こし

差していた 劒つるぎ

の柄つか

が車の手て

形がた

という所に入ってぽきりと折れたり、まだその他にも不吉ふきつ

な事が続いて起こ

ったが、今いま

更さら

、そんな事に頓とん

着ちゃく

しているわけには行かなかった。

それで、予定よてい

の通りに進んで行くと、門を入ったところで、実さね

朝とも

の 劒つるぎ

を持ってお供とも

をしている北條義よし

時とき

は、俄にわ

かに気分きぶん

が悪くなったといって、その役を他の者に代か

わらせて自分は家に帰った。

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第 21話 武家政治の始

9

暗夜あんや

の白刃しらは

さて実さね

朝とも

が拝賀は い が

の式をすませて

帰りに向った頃は、既に夜も更ふ

けた上

に、折おり

からちらちらと雪が降出ふりだ

して、

あたりはぼおっとしていた。 彼が石

段の中程なかほど

まで下お

りて来ると、ふと、

傍かたわ

らの銀い

杏ちょう

の樹き

の蔭かげ

から躍おど

り出し

た者があったが、実さね

朝とも

のそばへ寄る

と思うと、いきなり刀を揮ふる

って斬き

りつ

けた。

実朝は 笏しゃく

で一度は受止めたが、

二に

の太た

刀ち

で脆もろ

くも斬きり

倒たお

された。

鎌倉 鶴 岡 八 幡 宮

(石段の脇の注連縄を張り巡らせてある木が大銀杏

訳注:2010 年に倒伏した)

ぱっと赤い血が雪の上に 迸ほとばし

る。 曲者くせもの

は直す

ぐに実さね

朝とも

の首を取ろうとしたので、剣を持ってお供していた

者が驚いて防ふせ

ごうとすると、その者をも一刀いっとう

の下もと

に斬倒きりたお

して、実さね

朝とも

の首を取って逃に

げた。

別当べっとう

公く

暁ぎょう

忽たちま

ち大おお

騒さわ

ぎとなって、門 前もんぜん

に控ひか

えていた多くの武士が駆付かけつ

けたが、既に曲者はどこにか 姿すがた

を晦くら

して分わ

からない。 そのうちに、曲者は八幡宮の別当べっとう

の公く

暁ぎょう

だという事が分かって、その捜索そうさく

の手配てはい

始めると、彼は三浦みうら

義よし

村むら

の 邸やしき

へ行こうとして、その途中で、義よし

時とき

の命めい

を受けた義よし

村むら

に騙だま

されて殺された。

時に年は 19 才でした。

しかし、一体いったい

、公く

暁ぎょう

とは何者なにもの

か? 何のために実さね

朝とも

を殺したのか?

公く

暁ぎょう

は実さね

朝とも

の兄の頼より

家いえ

の子で、一いち

幡まん

とは腹はら

違ちが

いの弟です。 父が殺された時には僅わづ

かに 4 才でした

が、その後、祖そ

母ぼ

の政まさ

子こ

の指さし

図づ

で坊さんとなり、一時は近江おうみ

の三井寺みいでら

にいたが、後にまた、政まさ

子こ

の命めい

に依よ

て、鶴岡八幡宮の別当になっていたのです。

誰だれ

が公く

暁ぎょう

を教唆きょうさ

したか

誰だれ

にかそそのかされて、父が殺されたのは実さね

朝とも

の為であると思い込んで、折おり

あらば 敵かたき

を討う

とうと狙ねら

ていたのです。 彼は実さね

朝とも

を討う

ちさえすれば、実さね

朝とも

には子がなく、外には源氏の後を継つ

ぐ者がないので、

当然、自分が将軍になれるものと信じていたのでした。 それにしても、彼をそそのかして実さね

朝とも

を親の 敵かたき

と思うようにしたのは誰だったのでしょう? 確たし

かには分かりませんが、前後の事じ

情じょう

から推すい

察さつ

すると、

拝賀の日に劒を持つ役を他人に代か

わらせて中途ちゅうと

から家に帰った北條義よし

時とき

であろう、と世には伝えられてい

ます。

源氏の血統けっとう

絶た

える

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第 21話 武家政治の始

10

かくして実さね

朝とも

が 28 才で甥おい

の公く

暁ぎょう

に殺されると、公く

暁ぎょう

も既すで

に殺されてしまったので、源氏の血けっ

統とう

全まった

く絶た

えた。 実じつ

に頼より

朝とも

が将軍になってから僅わづ

か 3 代、28 年で源氏は亡ほろ

びたのであります。 いかに当

時が戦せん

乱らん

の後あと

を承うけ

けて、殺伐さつばつ

の世よ

であったとはいえ、頼より

朝とも

の子も孫まご

も 悉ことごと

く人ひと

手で

にかかって殺されたの

は余りにも悲惨ひさん

でしたので、世せ

人じん

はこれを指さ

して、頼より

朝とも

がその弟や近きん

臣しん

を殺した因いん

果が

が報むく

いたのだという

風ふう

に考えた。 しかし、中には更さら

に 遡さかのぼ

って、頼より

朝とも

の父の義よし

朝とも

が、父の為ため

義よし

を殺したので、その報いが頼より

朝とも

の兄弟や子孫しそん

にまで及およ

んだという風ふう

に考えた者もいました。

とにもかくにも斯こ

うして源氏は 儚はかな

く亡ほろ

びてしまったが、鎌倉幕府はなお 100 余年の後まで続いた。

執権の北條氏が表面おもて

に名ばかりの将軍を立てて、実際じっさい

の政治せいじ

を執と

ったのであります。

( 第22 話 源氏の滅亡 終わり )